敵影あり 同日 一一二三時
休息の時間とはなったものの、ホレイシアはその間も仕事と無縁であったわけではない。彼女は遅めの朝食を終えると様々な書類を手に取り、二〇分ほどの時間をかけてそれらに目を通していった。
ホレイシアが書類を片付け、仮眠をとるべくベッドに入ったのは一〇時になる少し前のことであった。呼び出しに備えて服は着替えず、靴すら履いたままでの就寝だ。
緊急事態が発生したのは、それから一時間半ほど後のことである。
「艦長、羅針艦橋へ至急お越しください!」
徹夜明けで深い眠りについていたにも関わらず、艦内放送の呼び出しを聞いたホレイシアの反応は素早いものであった。すぐに目を覚ましてベッドから飛び出し、制帽と防寒具を手に取ると自室を飛び出していった。
ホレイシアは一〇秒ほどで目的地に辿り着くと、マフラーを首に巻きつつ部下たちに尋ねた。先程まで暖かい部屋に横たわっていた彼女の体は、吹き付ける風によってあっという間に体温を奪われている。
「状況は?」
「船団指揮船より先ほど連絡がありました」上官の質問に答えたのは、副長のリチャードであった。
「読みます。 『船団司令官より護衛指揮官へ 無線通信とおぼしき不審電波を受信せり。逆探によれば方位〇一四より発信された模様、距離不明。文面は暗号化のため解読不可』 以上です」
逆探とは、電波探知機とも称される電子装備である。空中を飛び交う無線やレーダーの電波を受信し、発信された場所の方位を測定することが可能な装置だ。あくまで他のフネや航空機から発せられた通信を拾い上げるだけであるため、使用者が電波を出さずに済むのがこの装置の利点である。
「方位〇一四ということは、船団の右前方ということね?」
「その通りです。現在針路は三五〇ですので、右二四度方向になります」
リチャードが答えるとホレイシアは「分かったわ」と言い、しばらく無言で身支度を整えていった。コートに袖を通し、手袋をはめたところで、彼女はリチャードを眺め見る。制帽は被らず、まだ手に持ったままであった。
「……副長、意見を。発信元の正体について、あなたの考えを聞きたいわ」
わずかに考えるような仕草をとったあと、ホレイシアはリチャードにそう尋ねた。数時間前に部下を茶化したときの面影は、もはやそこには存在しない。
「帝国軍の潜水艦が、我々の存在を上層部に通報したとみて間違いないでしょう。当船団以外に、この海域をいま航行している王国籍の船舶は存在しません」上官の質問に、リチャードは迷うことなく即答した。
NA一七船団が進んでいる場所は言うまでもなく、王国と帝国――そしてその同盟国――の間で行われている戦争の舞台、そのひとつである。ここにいるフネは敵味方いずれかの陣営に属し、そして王国側で活動しているのはリチャードたちだけだ。解読できない――つまり王国軍の使用していないパターンの暗号が通信に用いられていることも併せて考えれば、帝国軍側の発したものであることは疑いようがない。
おそらく、自分の上官もそのことは十分理解しているだろう。そう考えたリチャードはホレイシアではなく、周りにいる部下たちへ現状を周知させるべく話を続けた。
「潜水艦は主として目視により標的を探しますので、おそらくその位置は船団からさして離れていないでしょう。状況にもよりますが、通報艦は早ければ二〇分、遅くとも四〇分程度で目標を魚雷の射程圏内に捉え、攻撃を実施することが可能です。また通報を聞きつけた近隣の艦艇も急行し、おおむね一時間ほどで襲撃に加わるものと予想されます」
「私たちが取るべき行動はなにかしら?」
「警戒の強化と、発見した敵艦の即時撃退です。船団の脅威をすべて排除することが、戦隊に与えられた最優先かつ絶対の任務であります」
「分かったわ。ありがとう、リチャード」ホレイシアはそう言って頷くと、視線を転じて部下たちを一瞥した。
いまこの瞬間、艦橋にいる乗組員のすべてが、艦長である彼女に注意を――無論それぞれの仕事をこなしつつ――むけている。吹きさらしの羅針艦橋に襲い掛かる強風と波しぶきを気にする素振りはなく、上官が次に発するであろう言葉、あるいは命令を心待ちにしていた。そしてその視線を送る部下の中には、もちろんリチャードも含まれている。
「さて、ついに私たちの出番がやってきたわ」
ホレイシアは視線をひと巡りさせたあと、部下たちに語りかけた。その口調は物静かで、表情も穏やかなものである。二〇〇人近い乗組員を指揮する軍艦の艦長というよりも、幼い生徒たちを見守る教師といったほうがふさわしい雰囲気であった。
「初めてのことで不安でしょうけれど、訓練で学んだことを活かせばきっとうまくいくわ。みんな、頑張りましょう」
「「はい、艦長!」」
上官の呼びかけに、乗組員たちはいっせいにこたえた。彼女はその反応を見て満足そうに微笑むと、手にしていた制帽を被って座席に腰かけた。
(いよいよだな)
他の将兵と共に声をあげつつ、リチャードは心の中でそう呟いた。女性が乗組員の軍艦が、おそらく歴史上はじめて戦闘に参加するときがやってくる。彼女たちがどれほどの活躍を残すことができるか、それは計画を進めた軍上層部にとって重大な関心事であるだろうし、それはリチャードにとっても同じであった。
そのようなことを考えている間にも、ホレイシアは部下たちへ次々と命令を出していった。
「信号員、船団指揮船へ発光信号。『護衛指揮官より船団司令官 通報に感謝す。現時刻を以て電波封止を解除し、全船舶へ警報を発せられたし』通報への謝辞を忘れないでね」
「了解です」
「当直士官は電話員と共同で、各部署に装備の状況を確認。航海士は燃料の再計算を頼むわ」
「はい」
「分かりました」
「副長、戦隊各艦に不審電波の件を通達して。合わせて燃料の残り具合を問い合わせて頂戴」
「隊内電話を使用してよろしいですね」
「もちろんよ。発見された以上、電波封止を続ける意味はもうないわ」リチャードの質問にホレイシアは答えた。「レーダーも含めて、電子装備の使用をただいまより全面解禁します」
「承知しました」
リチャードは頷くと、海図台に据え付けられた隊内電話用の受話器――近距離用の音声通話装置だ――を手に取り、戦隊の僚艦たちへ呼びかけた。
「〈リヴィングストン〉より全艦へ。現時刻を以て電波封止を解除する、配置順に感度しらせ。船団指揮船より真方位〇一四度に不審電波と受信との通報あり」
「こちら〈ローレンス〉、感度よし」
リチャードの呼びかけに対し、まず〈リヴィングストン〉の右後方に展開する〈ローレンス〉から返答がかえってきた。そこから時計回りに、各艦から続々と通信を受信した旨が報告されてくる。彼は全艦が問題なく応答していることを確認すると、続いて燃料残量を報告するよう各艦に伝えた。
報告を聞き取っている間にも、〈リヴィングストン〉は着々と戦闘準備を整えていった。船団指揮船に連絡すべく艦橋後部のマストに設けられた信号灯が点滅し続け、電話員は当直士官に各部署から送られてくる「異常なし」の知らせを次々に伝えている。羅針艦橋のすぐ後ろに置かれている射撃管制装置も、レーダーを始動させて電波の目で船団の周囲を捜索しはじめていた。
そんな中でホレイシア艦長は艦内放送を作動させ、マイクを片手に艦内の乗組員たちに語りかけていた。内容は敵艦が接近しつつあり、おそらく戦闘がもうすぐ始まることを全員に周知させるものである。
リチャードが各艦からの報告をまとめ終えたのは、その放送が終了したわずかに後のことであった。「艦長、各艦の燃料残量まとまりました」
リチャードがそういってメモを差し出すと、ホレイシアは「ありがとう」といって内容を確認し、何事かを思案し始める。その様子を見たリチャードの脳裏に、あることが疑問となって湧き出てきた。
「艦長、総員配置は発令されないのですか?」
リチャードはその疑問をホレイシアにぶつけた。
総員配置とは名前の通り、艦内の乗組員全員を配置につかせる命令のことだ。現状の、ローテーションで休憩しつつ最低限の人員だけが勤務する状態は非戦闘時のものであり、総員配置の発令によって軍艦ははじめて臨戦態勢にはいったことになる。
「もう少し待つわ」
部下の質問に対し、ホレイシアは顔をあげてそう答えた。
「戦闘は長時間に及ぶだろうし、今のうちに休める子だけでもゆっくりさせておきたいの」
いったん総員配置が発動されれば、乗組員たちはそれが解除されるまで休むことなく勤務することを強いられる。そして解除されるのは戦闘が終了、あるいはひと段落ついたと判断されたときであり、それがいつになるのかは誰にもわかるものではない。彼女の判断はしごく真っ当なものである。
「そういうことでしたら、了解しました」
上官の意図を理解したリチャードは頷く。それから僅かに間をおいて、ホレイシアは新たな命令を彼に示した。
「燃料残量がいちばん多い〈レックス〉に、不明目標の捜索を命じてちょうだい」
燃料に余裕のある艦を選んだのは、それだけ余分に活動することが可能であるからだ。その点を深く考えずに動かすと、燃料不足で連邦に辿り着けない艦が出てしまう恐れがある。彼女が指名した駆逐艦〈レックス〉は船団の右後方、〈リヴィングストン〉からみて一〇海里ほど離れた場所にいる。
「もう一隻派遣すべきだと考えます。〈レックス〉の近隣に展開している〈ゲール〉をつけましょう」
「警戒網の穴が大きくなるわよ?」
「申し訳ありませんが、我が隊の練度は決して十分なものではありません」上官の疑問に対してリチャードはそう答え、更に話を続けた。「二隻の連携によって敵艦捕捉の成功率を底上げし、手早く撃退することをまず優先すべきでしょう。警戒網については、まだ五隻いますので配置変更による対応が可能です」
「具体的には?」
「後衛左側の〈ゴート〉を、〈ゲール〉本来の配置である右翼後方に移動させます。また左翼後方の〈ガーリー〉と共に、配置を一海里ほど後ろにずらして船団後方からの敵襲を警戒させます。一隻あたりの担当範囲は広くなりますが、やむを得ません」
「……分かったわ、それで行きましょう。各艦に指示を出しておいて」
「了解しました」ホレイシアが了承するとリチャードは再び受話器を手にとり、僚艦たちに自身の腹案を伝達した。
ひと通りの準備が終わったことを確認すると、リチャードは双眼鏡を構えて船団本隊に目を向けた。
一見すると船団の様子はこれまでと同様で、隊列を維持したまま低速で、のんびりと洋上を進んでいる。ただその内実は正反対であり、船員たちは不意にもたらされた警報によって大わらわとなっているはずだ。船長たちは攻撃に備えて見張員の数を増やし、また沈没した際に脱出する時間を稼ぐべく、船内のあちこちに設けられた隔壁の扉を閉めるよう指示していることだろう。生き延びるためには、今のうちからできる限りのことをやらねばならないのだ。
一方で、第一〇一護衛戦隊の艦艇群は目に見える形で活発な活動を開始していた。リチャードの手にする双眼鏡には、船団後方で針路を変え始めた二隻の船が映っている。距離がはなれているため豆粒のような船影しか見えないが、発信元の捜索を命じられた〈レックス〉と〈ガーリー〉に違いない。
「艦長、各部署の状況を確認」フーバー大尉が声をあげた。「すべての兵装、装備は異常なし。機関も全力発揮に支障なしであります」
「ありがとう、サリー」
当直士官の報告を聞き、ホレイシアは嬉しげに答えた。
この瞬間に、準備はほぼ整ったと言うべきであろう。既に警報は発せられて無線封止も解除されており、第一〇一護衛戦隊の各艦は所定の命令に従って行動を開始している。
〈レックス〉から「ソナーにて敵潜水艦を発見。数は一隻」との報がもたらされたのは、それから約三〇分後の一一五七時のことであった。
ホレイシアは戦隊の全艦艇へオールウエポンズフリー――全兵装の使用を自由とすることを宣言し、〈レックス〉には〈ゲール〉と共同で目標を追撃するよう指示した。続いて船団指揮船へ敵発見の旨を急ぎ通報し、同時に王国本土の海軍本部へ、現在の位置座標とともに次のような電文を発信させた。
『NA一七船団護衛指揮官より海軍本部 本船団は敵潜水艦と接触、攻撃を受けつつあり。第一〇一護衛戦隊は、全力を以てこれを迎撃せんとす』
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