7回目:如月紡祇<母は強し>

「あらあら、ここはどこかしら。困ったわねぇ」


 聞くものを眠りに誘うような、のんびりとした声がなまめかしい唇から紡がれる。人差し指を軽く唇に当てた姿は、ただそれだけで絵になっている。事実、大通りを行き交う男たちの視線を釘付けにしていた。ある者はだらしなく鼻の下を伸ばし、またある者は深いため息をつく。


「とりあえず、誰かにお話を聞いてみましょうか」


 彼女――如月きさらぎ紡祇つむぎは、近くにいた獅子の顔をした獣人の男に声をかけた。


「あのぅ。ちょっとよろしいでしょうか」


 声をかけられた男はギロリと鋭い目を紡祇つむぎに向けた。常人であればそれだけで震え上がってもおかしくないだろう。だが、紡祇つむぎはまったく意に介した様子がない。眠たげな瞳で、正面から相手の視線を受け止める。


「何用だ。人間の娘よ」


 大きく裂けた口を開け、獅子の男が返答する。その口からは鋭い牙が覗いている。


「あらあら。娘だなんてお上手なんだからぁ。これでも二児の母親なのよ」


「む。それは、すまない」


 頬をかすかに赤く染めて微笑む紡祇つむぎを目の前にして、獅子の男は微かな胸の高鳴りを感じていた。


「えっと、ここは、どこなのかしら?」


 指を頬に当て、首をかしげる。


「旅人か?ここはウッドヘルデという名の街だ」


「あら~。はじめて聞く名前の街ねぇ」


 無理もない。紡祇つむぎは別の世界から来たばかりで、この世界のことを何も知らない。不幸にも命を失った彼女を、女神である私が異世界転生させたのだから。


「ありがとうございました。とりあえず、そのへんをフラフラと歩いてみますねぇ」


 男にペコペコとお辞儀をしながら、紡祇つむぎは歩き出した。彼女が歩くたびに大きな胸がたゆんたゆんと揺れている。その様子がまた、街の男たちの視線を集めていることに紡祇つむぎは少しも気が付いていない。


 紡祇つむぎが石畳の道を歩くたびにコツコツと軽快な音が鳴る。周りを見回せば、煉瓦れんが造りの建物が多いようだ。軒先には露店が立ち並び、商人たちが活気のある声を張り上げている。肉を焼く香ばしい匂いが紡祇つむぎの鼻腔をくすぐった。おなかが小さく、くぅ、と音を立てる。


「ん~。おいしそうなにおい。……だけれども、おサイフは家に忘れてしまったのよねぇ」


 次々と目に飛び込んでくる初めて見る食べ物に後ろ髪を引かれながら、紡祇つむぎは街の大通りを歩いていた。そして、冒険者ギルドの前にたどり着く。


 冒険者ギルドは、世界を旅する冒険者を支援する目的で結成された組合だ。かつて冒険者だった者が次代の育成のために、あるいは、冒険者を夢見たが叶わなかった者が自分の夢を託すために、と、様々な理由で人が集ったのが始まりとされている。

 冒険に必要な武器や防具から、食料や薬、ロープなどの必需品まで多種多様な商品を、それなりに融通を利かせた価格で提供したり、様々な情報を売買したり、冒険者への依頼を斡旋あっせんしたりと、冒険者ギルドが担う役割は大きい。


「……ここは何のお店かしら。なんだか私、ここに入らないといけないような気がするのよねぇ」


 周りよりも一際大きい冒険者ギルドの建物を見上げながら、紡祇つむぎが呟いた時だった。

 鐘の音が街中に響き渡る。その音は荒々しく、力任せに打ち鳴らしているかのようだ。直後、街の人々が悲鳴を上げて逃げ惑った。ある者は家の中へ。またある者は街の外まで走って逃げようとしていた。


「あらあら。なにかしらねぇ」


 紡祇つむぎには状況が理解できない。首をかしげつつ、とりあえず、人にならって場所を移動しようとする。一歩を踏み出したその時、巨大な影が紡祇つむぎの上を通り過ぎた。

 何事かと空を見上げると、巨大なドラゴンが大空を舞っていた。日に透けるような美しい緑色の鱗を全身にまとい、腕にはヒレのような大きな翼を備えている。

 ドラゴンは街の上空を旋回していたが、やがて、狙いを定めたかのように地上に向かって急降下した。その瞬間は紡祇つむぎには見えなかったが、再び上空に浮かび上がったドラゴンの口からは、人間の脚が見え隠れしていた。


「っ!?」


 その光景に衝撃を受けた紡祇つむぎだったが、次の瞬間、衝撃は怒りに変わった。


「……なに……っ…………してる、の……!」


 紡祇つむぎの体から強大な魔力があふれ出す。通常は目に見えるはずのないそれが、青白く、陽炎かげろうのように揺らめいている。

 ドラゴンを鋭く見据えながら僅かに身をかがめると、大空に向かって跳躍した。目の前に突然現れた紡祇つむぎの姿に、ドラゴンは慌てふためいている。それには構わず、紡祇つむぎは大きく脚を振り上げ、そして、ドラゴンの顔めがけて思いっきり脚を振り下ろす。


「……っぁぁあああああ!!」


 気合いの雄叫おたけびが空に響き渡る。紡祇つむぎの脚に揺らめく青い炎が、さらに激しく燃え上がった。

 轟音が、破裂音が、世界を揺るがす。


 人々は見た。空よりも青い幻想的な翼を宙に描き、最強の魔獣と名高いドラゴンほふった天使の姿を。


 紡祇つむぎは長いスカートを手で押さえながら地面に落ちていき、しなやかに着地した。長くつやのある黒髪が、風に揺れる。

 頭部を失ったドラゴンは、滑空するように次第に高度を下げ、街の近くにある森に墜落した。


 人々は、しばし茫然としていたが、状況が飲み込めるやいなや、大きな歓声を上げる。

 その一方で、紡祇つむぎは静かに自分の両の手のひらをそっと見つめた。今の力は一体何なのだろうか。そして、先程の巨大なトカゲのような生物は……。


 やがて、ひとつの結論に思い至る。ここは、私のいた世界とは、別の世界なんだ、と。

 そして、思い出す。


「私は、事故で……」


 涙が頬を伝う。


「もう、私の、……あの子たちには会えないの、ね」


 紡祇つむぎは自分の体を抱き締めるようにして地面にくずおれた。嗚咽まじりの泣き声は、人々の歓声と強い風の音に消されて、誰の耳にも届かなかった。



 それから一ヵ月が過ぎたある日。


「は~い。おまたせしましたぁ」


 満面の笑顔で、紡祇つむぎは焼きたてのパンを男に手渡す。その笑顔に、男は心を奪われたかのように呆けていたが、後ろにいた別の男に軽く小突かれると我に返り、照れ笑いを浮かべた。その様子を見た紡祇つむぎがくすくすと忍び笑いを洩らすと、男たちは甘いため息を漏らすのであった。


 紡祇つむぎの焼くパンは、天使の焼くパンとして隣街でも有名だ。連日、彼女のパンを目当てに、あるいは、彼女自身を目当てに客足が途絶えない。


「ありがとうございましたぁ。また、いらしてくださいねぇ」


 暖かな日差しの中、のんびりとした声とパンの香りが、風に乗って流れていく。


 新しい世界で新しい生活を送る彼女を眺めながら、私は頭を抱えていた。

 何故、世界を救う旅に出てくれないの!?

 当然ながら、私の叫び声は彼女の世界には届かないのであった。


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