9-4 猫になった客人

 ――あなた、猫になって息子さんに面倒見てもらったら良いわ。猫の世話なら甲斐甲斐しくするんでしょう?

 ――成る程。誰かのためって思えばやれるかもね。

 ――そうそう、そういうことよ。



 そうですね……。それならきっと息子も……!



 ――じゃ、これからその薬を作るけど、すぐには出来ないの。前に作ったことがあるから、そうね……一週間! 一週間後にまた来てちょうだい。ま、気が変わったら来なくても良いけど。



 わかりました。きっと伺います。ありがとうございました。




***



「今回はハッピーエンドになりそうかい?」


 老女を見送ったプーヴァは、テナのお茶のお代わりを注ごうとテーブルに向かった。


「どうかしら。なるかもしれないし……」

「しれないし?」

「……やっぱりならないかもね」


 そう言って、テナはニィっと笑った。


「大丈夫、もしもの時は家を出れば良いのよ。猫にだって立派な足があるんだから」

「それもそうだね」




 老女はぴったり一週間後にやって来た。

 出迎えてくれたのは、一週間前と同じ、あの青年である。雪のように白い肌と、髪。そして、穏やかな黒い瞳。彼はにこりと笑って彼女の外套と帽子を受け取ると、丁寧に雪を払ってから、暖炉の近くの物干し用ポールにそれらを掛けた。


 中央のテーブルには一週間前と同じ席に若い魔女が座っており、ほわほわと湯気の上がるティーカップの隣には、血のように赤い液体の入った小瓶が置かれている。

 その魔女は老女に自分の向かいの席を勧め、彼女が着席したのを見計らって、その小瓶を手に取った。


「これが一週間前に言った薬よ。良い? これを飲んだら、飲む前の姿には戻れない。やっぱり気が変わったっていうんなら、別に飲まなくたって良いわ。その時は、庭にでも埋めて。他の人が飲んだら大変だから」


 そう言って、テナはにこりと笑った。

 あどけない少女のような魔女である。恐ろしさの欠片もない、ただの少女のような。一体、この魔女はいくつなんだろう、と老女は思った。


「それから先に言っておくけど、すごく苦いし、飲んだ直後はちょっと胸が苦しくなると思う。ただ、死んだりはしないから安心して」


 老女はその小瓶をじっと見つめたまま、こくりと頷いた。


「これはね、自分が強く思い浮かべた動物になれる薬なの。見た目だけじゃなく、中身もね。まぁ、猫だって飼い主のことは覚えられるんだから、たぶん、息子さんのことは忘れないと思うわ」


 老女は一瞬何かを言いたげに口を開きかけたが、軽く首を振って、再度口を閉じた。


「いまここで猫になっちゃったら、帰るの大変でしょ。家でゆっくり飲むと良いわ」


 テナは、あなたも何かと準備があるだろうしね、と付け加えて紅茶を啜った。老女もまた、自分のために用意された紅茶を一口飲み、ええ、と言って笑った。



***


 テーブルの上には、毒々しい色をした小瓶が置かれている。

 その赤い液体は、どうしたんだい? やっぱり飲まないのかい? そう問いかけているかのように思えた。



 飲んだら、飲む前の姿には戻れない。



 魔女の言葉が頭をよぎる。


 これを飲んだら、どうなるのだろう。

 自分は猫になり、息子に飼われる身となるだろう。

 しかし果たして、息子はかつてのように猫を世話するだろうか。


 一応、当面の食料は買ってきた。必要最低限のことを記したノートもある。

 しかし彼女――イヅラはなかなかその一歩が踏み出せないでいた。


 もし、この薬を飲まなかったら、どうなる。


 息子は変わらず部屋に籠り、自分は仕事場と家をただ往復する毎日だ。

 楽しみも何も無く、ただただ、息子のために食事を作り、洗濯をし、風呂を沸かす。


 自分の人生って、何だったのだろう。


 それでも夫が生きていた時はまだ良かった。

 渋々ながらも三人で食卓を囲み、わずかな会話もあった。


 夫は、自分の料理を美味しいと言ってくれたし、洗濯物を畳んでくれたりもした。もちろん冗談ではあっただろうが、風呂も一緒に入ろうか、などと言ってくれたりもした。


 白いエプロンの上にぽたりぽたりと涙が零れる。

 あのささやかな幸せは二度と返ってこないのだ。

 何かを変えなくては、何も変わらないだろう。


 イヅラは小瓶を手に取った。

 時刻は十九時を回っていた。




 ロッヂは息を殺してドアに耳を当て、近くに誰もいないことを確認してから遠慮がちにドアを開けた。

 それでも建てつけの悪いドアはギィィという嫌な音を立ててしまう。母親に聞かれてやしないかと肝を冷やしながら視線を下に向けた。そこにはいつも自分のために作られた食事が置かれているはずだった。しかし、そこにはまだなにもない。


 ロッヂはチッと舌を鳴らして、またゆっくりとドアを閉めた。


 まったく、無駄に開け閉めさせるなよな、と心の中で毒づき、壁時計を見る。もう二十時を過ぎている。母親の帰宅時間はだいたい十八時である。仕事を始めたばかりの頃は要領が悪かったようで、随分残業もしていたようだが、最近ではきちんと定時に上がっているらしく、十八時前後には、これまた建てつけの悪い玄関のドアがギィィと鳴るのが聞こえてくる。もうだいぶ古い家なのだ。

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