番外編 魑魅魍魎03



 葛城の御山に魑魅魍魎の主が棲む、とダイカクさんは言う。

 葛城山っていうと、おそらくは奈良県と大阪府の境に存在する山のことだろう。確か、大和やまと葛城かつらぎさんが正式な名前だったっけ。

 そして葛城山と言えば、役小角が修行したと言われる場所としても有名だよね。

 役小角は葛城山だけではなく、熊野や大峯などでも修行したとの説もあり、こうした山々で修行を重ねた結果、修験道の基礎を築いたことはよく知られていると思う。

 ひょっとすると、この「小世界」にも役小角がいたりして。もしもこの「小世界」に役小角が実在するならば、是非とも一度会ってみたいものだ。

 でも、葛城山に魍魎の主がいるとなると、さすがの役小角も葛城山で修行したりはしないかも。いやいや、逆にその魍魎の主とやらを配下にしたりして。ほら、役小角は前鬼と後鬼という二体の鬼神を従えていたことでも有名だしね。

 ん? ここはその発展パターンもありかも? 魍魎の主とやらこそが、実は役小角だったってパターン。ほら、漫画などで歴史的に有名な人物が実はラスボスって展開は結構あるしさ。

 まあ、この「小世界」に役小角が実在するとは限らないんだけどね。

 それより、ちょっと前の漫画で「魑魅魍魎の主となれ」とかいった作品があった気がするな。もしかして、葛城山に棲む魍魎の主って、その漫画の主人公みたいにあの有名な妖怪だったり……?

 なんてことを考えていた時だった。

 突然、空から「ナニカ」が降ってきたのは。


◇  ◆  ◇  ◆


 突然空から降ってきた「ソレ」。

 「ソレ」が地に降り立った瞬間、周囲が強い獣の臭いに染め上げられた。

 ぶしゅるるるるるる、と、「ソレ」の鼻先から息が吐き出される度、周囲の獣臭が強くなる。

 空から降ってきた「ソレ」。

 それは、巨大なイノシシだった。

 頭がある高さは、大人二人分ぐらいの位置だろうか。その体全体の大きさに至っては、果たしてどれぐらいあるやら。

 黒くごわごわとした硬そうな体毛はヤマアラシのように太く、その先端は鋭く尖っている。

 口元から突き出した大きな牙と巨木のように太い四肢に備わった鋭い爪が、その大イノシシがただ大きなだけのイノシシではないことを無言で物語っていた。

 ぶしゅるるるるるる、と大イノシシが再び獣臭い息を吐き出す。

 炎のように爛々と輝く双眸が、僕たちをゆっくりと見回していく。

「──誰ぞ?」

 大イノシシの巨大な口から、言葉が零れ出た。

「我が配下を討ったは誰ぞ?」

 配下……だと? もしかして、それは先ほどやつがれたちが遭遇した魍魎のことだろうか?

「我が縄張りの中で、我が配下の気配が突然消えた。誰ぞが我が配下を討ったからだろうて……さて、誰ぞや? 我が配下を手に掛けた者は?」

 な、縄張り? ま、まさか…………まさか、この大イノシシが葛城の御山に棲むという魍魎の主なのか……?

 大イノシシは僕たちを見下ろす。その様はまさに睥睨と呼ぶに相応しい。

 その獣の視線を感じた時、僕は理解した。

 間違いなく、この巨大なイノシシこそが魍魎の主であると。

そく、おまえか? おまえが我が配下を討ったのか?」

「ち、ち…………ち、ちが……が……」

 大イノシシが全身から振りまく死の気配。その気配に侵された僕は恐怖に囚われた。あまりの恐怖に、舌さえ上手く動いてくれない。

 抗うことのできない死。死が眼前にまで迫っている。

 がたがたと鳴るのは、膝か歯か。

 ははは、勝てるわけがない。人間である以上、こんな化け物に勝てるわけがない。

 大きすぎる恐怖から、僕はもう笑うしかなかった。

 乾いた笑いを口から垂れ流しつつ、僕は振り上げられた大イノシシの前脚を見上げる。

 あの前脚が振り下ろされた時、僕は死ぬのだ。

 そして、その瞬間が訪れ…………たりはしなかった。

 なぜなら、振り上げられた大イノシシの前脚を、シゲキ殿がその手にした不動明王の利剣で斬り飛ばしたからだ。

 周囲に、大イノシシの野太い苦痛の咆哮が響き渡る。

「オオオオオオオオオオオオっ!? 我が肉体を斬ったとっ!? い、一体そのつるぎは……っ!?」

 そうだ。

 今の大イノシシの声を聞いて、僕は改めてあることに思いついた。

 この大イノシシは……魍魎の主らしきこの異形は、肉体を持っているのだ。

 本来、魍魎とは肉体を持たない。肉体がないため、剣や槍は効果がなく法術や霊力の類だけが魍魎に影響を及ぼす。

 しかし、このイノシシは肉体を有する。それゆえ、シゲキ殿の剣は大イノシシに通用したのだろうか。

 いや、きっと違うだろう。シゲキ殿が持つ剣が特別な神剣だからこそ、大シノシシに傷を与えることができるのだ。

 併せて、シゲキ殿の剣術が優れていることも理由の一つだろう。

 僕もそれなりに剣の腕には覚えがあるが、今、シゲキ殿が振るう太刀筋がまるで見えない。それほどまでに、彼の剣術は優れていた。

 鋭い神剣と鋭い技量。その二つが合わさって初めて、大イノシシの肉体に傷を与えることができるのだ。

 いや、それは違う。

 優れているのはシゲキ殿の剣と剣術だけではない。

「えええええええええいっ!!」

「ひえええええええええっ!」

 裂帛の気合の声と共に、シゲキ殿の式神たちも剣を振るう。式神たちが剣を振る度、シノシシの毛皮が斬り裂かれ、そこからどす黒い血らしきものが吹き上がる。

 …………しかし、金の髪の式神が上げる気合の声が、どことなく悲鳴のように聞こえるのは気のせいだろうか?

 いや、気のせいだろう。なぜなら、二体の式神が振るう太刀筋は、シゲキ殿に勝るとも劣らないほど鋭いものなのだから。あれほどの剣を振るうのに、悲鳴を上げるわけがなかろう。

 式神たちが大イノシシの四肢──先ほどシゲキ殿に一本斬り飛ばされているので、脚は三本しかないが──を斬りつけ、大イノシシの意識を自分たちへ向ける。

「お、おのれ………小さく弱い人間風情が……っ!!」

 相貌に怒りの火を点し、大イノシシが式神たちを睨みつける。

 その僅かな隙をついて、シゲキ殿が飛んだ。

 そう、飛んだのだ。

 まるで空中に見えない足場があるかの如く、彼は宙を駆ける。そして、大イノシシの死角から素早く近づき、手にした神剣を大きく鋭く振るった。

 どすん、と重いものが地に落ちた。

 音の発生源へと目を向ければ、そこにあったのは大イノシシの首。

 同時に、首を失った大イノシシの胴体も地響きと共に地に沈んだのだった。



 え? え?

 倒した……のか? 噂に名高いあの魍魎の主を? しかも、あんなにあっさり?

 正直、僕には目の前の光景が信じられない。だが、目の前には確かに横たわった大イノシシの胴体と、少し離れた所には斬り飛ばされた頭部が落ちている。

 これは夢ではない。夢ではないということは……?

「し、シゲキ殿っ!! あ、あなたは一体……」

「いやあ、こいつって図体がデカいだけの見掛け倒しでしたねー。これぐらいなら、これまでに何度も戦ってきた連中の方が強かったですよ」

 と、彼は屈託なく笑う。

 い、いやいやいや、魍魎の主が強くない? そんな馬鹿な。

 だが、確かにシゲキ殿はいとも簡単に大イノシシの首を落として見せた。少なくとも、彼にとってこの大イノシシは強敵ではなかったのだろう。

「それで、このばかデカいイノシシって、一体何なんです?」

「お、おそらくですが……この大イノシシこそが、葛城の御山に棲むと言われる魍魎の主ではないかと……」

「これが……ですか? うーん、ダイカクさんの言葉を疑うわけじゃないけど、魍魎の主なんて大仰な名前の割には弱すぎるような……」

 いやいやいや、この怪物を前にして「弱い」などと、普通は言えぬことであると僕は思うが。

 どこまでも僕の考えの及ばぬシゲキ殿に、驚くやら呆れるやら。

 その時だった。

 でろりと舌を吐き出して横たわっていた大イノシシの頭が、突然宙に浮かび上がったのは。

「かかかか。この程度で、よもや我を倒したと思ったのではあるまいな?」

 先ほどまでよりも更に激しく双眸を赤く輝かせ、宙に浮いた大イノシシの頭が僕たちを見下ろす。

「この大イノシシは単なる器に過ぎぬ。我が本性に肉体はないぞよ」

 ふわふわと宙を漂う大イノシシの頭から、禍々しい靄のようなモノが立ち昇る。

 そうか。やはり魍魎は肉体を持たないのだ。あの魍魎──魍魎の主もそれは同じで、肉体を持たない魍魎の主は、あの大イノシシに取り憑いているだけだったのだ。

「どのような利剣であろうとも、肉体を持たない我が本性は斬れぬぞ!」

 と、魍魎の主──もう断言してもいいと思う──は、呵々と嗤う。

 だが。

 気づけば、シゲキ殿は再び宙を飛んでいた。先ほどのように、見えない階段を駆けるようにして大イノシシが浮いている所まで駆け上がる。

 そして。

 無言のまま振り下ろされる神剣。その神剣は大イノシシの頭ごと魍魎の主を見事に両断した。

「な……っ!? なぜだっ!? なぜ、肉体を持たない我を斬ることができるのだっ!? そ、その剣は一体……っ!?」

 苦悶の声を残しながら、魍魎の主はゆらゆらと揺らめき……そして消滅した。

 後に残るは、両断されて地に落ちた大イノシシの頭だけ。

 その頭から視線を逸らし──なぜか顔をしかめていたが──、シゲキ殿は一言呟いた。

「……やっぱり弱いね、こいつ」

 彼がそう言い終えると同時に、しゃらん、という涼やかな納刀の音が周囲に響いたのだった。



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