第百二十五幕 ~逃避~ 其の壱
「話はわかりました。僕が甘ちゃんだとステイシアさんは言いたいんですよね?」
「違う。大甘ちゃんだ」
言ってステイシアは鼻を鳴らした。彼女の言っていることは実に無法だが、それでも筋は通っている。死んでいたらペンを盗まれようが関係ない。
いくら思い入れがあろうとも、死人には一切必要ないのだから。
「……ところで僕はこれからどうなるのですか?」
「だから金を払えと言っているだろう。払うもの払えばお前の大事なものは返してやるよ」
「お金を払えば僕も開放してもらえるのですか?」
「ほかにどう聞こえるんだ」
「ですがステイシアさんの論理でいくと、僕もあなたの
ステイシアは苛立ったように頭を掻いた。
「だからそれも含めて金を寄越しなって私は言っているんだよ。お前は奴隷商人に売るよりも金になりそうだからな」
「僕を奴隷商人に売るつもりだったんですか?」
「そんな身なりをしていなければな」
「ステイシアさんは狩人ですよね?」
「狩人が人を売ったらいけないのか?」
なんら悪びれた様子もなく当然のような顔をして答えるステイシア。ならばとアシュトンは切り口を変えることにした。
「ここは神国メキアで間違いないですよね?」
「それがどうした?」
「神国メキアは奴隷売買を認めていないはずですが?」
光陰暦七百年頃までは当たり前だった奴隷制度も、今は前時代的ということで下火になっている。それでも公に奴隷売買が認められている国も存在しており、あまつさえ奴隷の数が国の力だと信じて疑わない国がある。
「間違っちゃいないが、なにも神国メキアばかりが国じゃないだろ。隣のセラニス王国は今でも奴隷売買が盛んな国だ。──そんなことよりもお前はさっさと服を脱げ」
「は?」
一瞬なにを言われているのか理解できず、アシュトンは呆けてしまった。その様子を見たステイシアは舌打ちを打つ。
「同じことを何度も言わすな。服をさっさと脱げ」
「……なぜ服を脱ぐ必要があるのですか?」
「いちいち質問が多い男だな。そのままだと風邪を引くからに決まっているだろ。それとも体の痛みだけじゃ物足りないのか?」
苛立ちを顔に張り付けたステイシアが伸ばした手を、アシュトンは軽く払った。理由はわかったが、それが優しさから出た行動でないことは明らかだった。風邪でも引かれたら連れて歩くのに面倒だくらいの考えだろう。
百歩譲って優しさから出た言葉だとしても、服を脱ぐ手伝いをしてもらおうとは思わない。
「自分で脱ぎますから大丈夫です」
アシュトンは痛む体をゆっくり動かしながら上着とシャツを脱いでいくと、改めて体のあちこちに大きな痣ができているのを視認した。
(多分川に流されているときに、岩にでもぶつかってできた痣だな……)
アシュトンが痣を擦っている横で、ステイシアは魚でも焼くかのように木の棒にひっかけた軍服を、焚き火の周囲に突き刺していった。
「ほら。さっさと下も脱ぎな」
「いや、下は……」
「なんだ? 恥ずかしいのか?」
「べ、べつに恥ずかしくないし!」
「恥ずかしくないなら男らしくバッと脱ぎなよ。あんたの裸なんかこれっぽちも興味はないからさ」
「いやです」
頑なに拒否するアシュトンに、ステイシアは大きな溜息を吐いた。
「全く……綺麗な女を前にして、やっぱり恥ずかしいんだろう?」
ニヤニヤするステイシアに、アシュトンは猛然と否定した。
「だから恥ずかしくないって!」
「わかったわかった」
ステイシアは害意がないことを示すかのように両手を上げた。アシュトンが安堵の息を漏らしていると、ステイシアの両手が素早く伸びてくる。完全に隙を突かれたことと、まだ体が思うように動かないことが災いして、抵抗むなしくアシュトンのズボンは剥ぎ取られてしまった。
さらにステイシアの視線はアシュトンの下着に注がれている。
「こ、これだけは絶対に駄目ですからッ!!」
「そんなに大声出さなくても下着までとりゃしないよ。それより服が乾くまでこれでも食べて体力を回復させておきな。ついでにこれも塗っておけ」
剥ぎ取ったズボンの代わりに、干し肉と傷薬を無造作に手渡してくるステイシア。下着姿のアシュトンは膝を抱えながら受け取るのであった。
△▼△
軍服もあらかた乾き、アシュトンが全然恥ずかしくない風を装って袖を通していると、おもむろに立ち上がったステイシアが、厳しい表情で周囲を見渡した。
「どうしたんですか?」
「──どうにも気配がおかしい」
「気配──?」
ステイシアと同じように周囲を見渡すも、これといって変化は認められない。時折吹く風で葉鳴りの音がするくらいだ。
「とくにおかしいとは思えないんですが?」
「あんたの意見なんか聞いちゃいない。それよりもさっさと服を着ろ。すぐにここを離れるぞ」
慌ただしく薪の火を消したステイシアは、弓を片手に森へ向かって進んでいく。アシュトンも後ろをついて行くと、すぐに立ち止まったステイシアが、背中の矢筒から一本の矢を取り出し、右方向の木立に向けて弓を構え始める。
(なにか見つけたのか?)
アシュトンがステイシアに声をかけるよりも早く、草木を派手に揺らしながら赤黒い毛で覆われた二足歩行の獣が姿を現した。
「あれは魔獣ノルフェスじゃないか……どうりで狩りが不調に終わるわけだ」
ステイシアはガチガチと歯を鳴らす。ノルフェスは巨大な鉤爪を広げながらアシュトンたちに不気味な赤い眼を向けてくる。幸いなことにノルフェスとの距離はそこそこ離れているが、それでも走り出したら瞬く間に詰められてしまう。
人間と獣には埋め尽くすことができないほど身体能力に差があるのだから。
「……逃げましょう」
ノルフェスを刺激しないよう小声で話しかけると、ステイシアはあり得ないとばかりに首を小刻みに振った。
「無理だ。逃げ切れるわけがない」
「ならここで黙って殺されますか?」
「お前わかっていないのか? あれはそんじょそこらの獣じゃない。災厄の使いと言われている魔獣ノルフェスだぞ?」
「知っていますよ」
「お前……怖くないのか?」
そう尋ねるステイシアの目は一切こちらを見ることはない。ノルフェスを前にして僅かでも隙を見せることは許されないとばかりに。
「危険害獣第二種ですよ? 当然怖いに決まっているじゃないですか」
ステイシアにはわからないだろうが、恐怖でアシュトンの膝は完全に笑っている。この身が吹き飛ばされたときに垣間見た黒い物体と、今目の前にいるノルフェスが完全に一致していることがわかってからは余計だ。
それでもこんなところで死ぬわけにはいかないと、アシュトンはこの場を切り抜けるための知恵を必死に絞りだす。
「……どちらでも構いせんが矢をノルフェスの膝に当てることは可能ですか?」
「なんだ突然?」
「可能ですか?」
厳しめに問うと、ステイシアは矢を引き絞ったままコクリと頷いた。
「ただし、相手が動いていないのが条件だ」
「わかりました。ではこのままゆっくり後ろへ下がってください」
「下がるって……」
「そうです。軍服が乾いたばかりなのにまた川に入りたくはないですけど……魔獣ノルフェスは水を苦手としています」
「本当か? そんな話は初耳だぞ」
驚くステイシアに、アシュトンはそうだと断言した。ノルフェスの体を覆う長い体毛は水をかなり吸うらしく、川に入ろうものなら重みで沈んでしまうらしい。これは文献で得た知識に過ぎないが、それを今のステイシアに言う必要はない。
どちらにせよここを切り抜けなければ二人まとめて死ぬだけだ。
「川を渡れば逃げ切れる可能性は高いです。それにはまずあいつの足を負傷させて素早さを奪う必要があります。先程も言いましたが狙うのは膝です。確実に狙うためまずは奴の顔面に矢を放って気を逸らせます」
「次の二本目が本命というわけだな?」
「その通りです」
「……信じていいんだな」
「ええ。──では行きますよ。ゆっくりと亀の歩みのように」
互いに大きく息を吐き、まさしく亀のように足を動かすアシュトンとステイシア。ノルフェスは空に向かって魂を凍らせるような咆哮を上げた。
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