第七十五幕 ~決断~
──灰鴉亭
ナインハルトから第二軍の援軍要請を受けた翌日。
オリビアたちは定宿にしている灰鴉亭で朝食を摂っていた。少し朝が早いためか、二十脚あるテーブルには半分の客も座っていない。オリビアが焼き立てのパンにかぶりついていると、片手にお盆を持った大柄な女が近づいてくる。この宿屋の女将──アンネだ。
「焼き立てのパンは美味しいかい? 今日はオリビアちゃんのためにはりきって焼いたんだよ」
そう言いながら、目の前にゴロゴロと具が入ったスープを置いていく。美味しそうな香りがオリビアの鼻をついた。
「ふん、ふぉってもおいひい! ほとはふぁりっと、なははもっひりとひている。スーフもおいひふぉうだね」
「はぁ……少佐、ちゃんと飲み込んでから話をしてください。前から口を酸っぱくして注意していますよね? それとも私の言うことは聞く価値がないですか?」
「なぁ、それってわざとやっているわけじゃないよな?」
呆れ顔のクラウディアとアシュトンに対し、オリビアは高速で首を横に振った。また二人に呆れられてしまったと思いながら。
「あっはっは。クラウディアさんは厳しいねぇ。大した宿屋じゃないんだからマナーなんて気にすることないよ」
空いた皿を下げながら豪快に笑うアンネ。調理場から宿屋の主人が不満そうな顔を覗かせる中、クラウディアはナフキンを使い口元を綺麗に拭う。
「アンネさん、お気遣いは有り難いですがそうもいきません。貴族として食事マナーは必要最低限なことですから」
「そうなのかい? 貴族様といっても不便なもんだねぇ……でも今日でオリビアちゃんがいなくなると思うと、おばさん悲しくなるよ。こんなに美味しそうにご飯を食べてくれるお客さんはそういないから」
アンネは寂しそうな笑顔を浮かべて言う。その様子を見て、オリビアは元気よく答えた。
「アンネさん、大丈夫だよ。帝国軍を片付けたらすぐに戻ってくるから。まだ王都でやることがあるんだ」
クラレスには事情を説明し、引き続き本を探してもらっている。オリビアとしても早く図書館に戻って、ゼットの手がかりを見つけたいものだ。そのためにはさっさと天陽の騎士団とやらを倒す必要がある。
「そうかいそうかい。じゃあ、戻ってきたら沢山のご馳走を用意しないとね──でも危なくなったらすぐに逃げるんだよ。貴族だろうが平民だろうが命はひとつしかないんだから」
「──おい、いつまで油売っているんだ。次の料理が出来ているぞ」
「はいよー! ──ったく野暮な男だねぇ。それじゃあ三人とも、無事に帰ってくるんだよ」
そう言うと、アンネは肩を怒らせながら調理場に戻っていく。程なくして二人の争う声と共に、皿が割れる音が響いてくる。アシュトンが引きつった顔を調理場に向ける中、クラウディアは懐から地図を取り出すと咳払いをひとつした。
「──コホン。ではこれからの予定をお話しします。まず我々は警備兵の集結地点であるグラシア砦に向かいます。そして兵の集結が完了次第、西のルートから第二軍の援軍に向かいます」
クラウディアは地図上のグラシア砦から中央戦線に向かって指を這わす。
「でも大丈夫でしょうか? 兵数だけはそれなりですが、所詮は寄せ集めです。こちらの命令をまともに聞くのかも正直怪しいです。しかも、天陽の騎士団は集団戦法を得意としている。これだけでもかなり分が悪いと思いますが」
アシュトンは眉根を寄せながら言う。その意見は正しいとオリビアも思った。いくら兵を揃えようが有機的な連携ができないと戦いに勝つことはできない。
「アシュトンの意見は正しいと私も思う。だが、我々にはのんびりと訓練に勤しんでいる暇はない。こうしている間にも、第二軍は壊滅の危機に瀕しているかもしれないのだから」
「それはもちろんそうですが……」
アシュトンは納得がいかないらしく、しきりにうんうんとうなっている。ここは指揮官らしく意見を言うべきだろう。オリビアは人差し指をピッと上げる。
「じゃあ、こういうのはどうかな? 頑張ったら本とか──」
「おい、ふざけている場合じゃないぞ」
白い目を向けてくるアシュトン。オリビアとしてはふざけたつもりなど毛頭なかった。甚だ心外である。本を貰って喜ばない人間などいるはずがないのだから。
「アシュトン、よく聞いてね。人間と獣が本質的に違うところは──」
「そうだ。オリビア、僕いいことを思いついた」
オリビアの言葉を遮ったアシュトンの顔は、みるみる黒い笑みに染まっていく。これは絶対によからぬことを考えているに違いない。クラウディアもなにかを感じとったのだろう。アシュトンに訝しげな視線を向ける。
「おい、まさか少佐を利用してよからぬことを考えているのではあるまいな?」
「え? ──いやだなぁ。そんなこと全然考えていませんよ。ただ」
「ただ、なんだ?」
アシュトンにズィッと顔を近づけるクラウディア。
「ちょっ! 顔が! 顔が近いです!」
「いいからさっさと答えろ」
「え、ええと。ただ、兵が集結したらオリビアにデモンストレーションでもやってもらおうかなーなんて……ははは」
「ほう、デモンストレーションか。具体的にはどんなことを少佐にやってもらうんだ?」
止まることのないクラウディアの追及に対し、アシュトンは思い切り目を逸らす。
「いや、そんな大したことじゃないですよ。藁人形をいくつか置いて、オリビアに剣技を披露してもらおうかなーと。そうすれば恐怖に慄いてちゃんとこちらの命令を聞くんじゃないかなーと」
「ほう、恐怖で言うことを聞かせるわけか。なるほどなるほど。ははは。君は中々面白いことを考えるな」
「ははは。そうでしょう──ってイデデデデッ!」
クラウディアは乾いた笑みを浮かべながらアシュトンの耳を引っ張っている。オリビアは顔を覆いながら思った。ついに夜叉が降臨してしまったと。
「全く……鎧の件といい、君はどうして碌でもないことをたまに思いつくのだ?」
「鎧の件は不可抗力ですッ!」
「ク、クラウディア。私は別に剣技を見せるくらい構わな──」
「少佐」
おそるおそる声をかけた途端、グルンと首が回転するクラウディア。なぜか数本の髪の毛が口に絡みついている。今晩の夢はこれで決まりだ。
「──くない。アシュトン、それは絶対にダメだよ。それじゃあ私、先に外に出ているね」
オリビアはスープを急いで飲み干すと早足で外に出た。これは決して逃げ出したわけではない。戦略的撤退だと自分に言い聞かせながら。
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──中央戦線
「閣下、第二防衛ラインが突破されました。間もなく天陽の騎士団は第三防衛ラインに到達する模様です」
遠眼鏡を腰に戻しながら、リーゼ大尉が緊張気味に声をかけてくる。
「天陽の騎士団か……こうもあっさりと第一、第二防衛ラインを抜けてくるとはな。キール要塞を陥落させた実力は伊達じゃないってわけか」
ブラッドは机の上に置かれた布陣図を見つめながら答える。第三防衛ラインは周りを岩壁に囲まれ、道幅も狭い。迎撃には絶好のポイントだ。
「罠の準備に怠りはないか?」
「はい。予定通り、進路上に細い鋼線を幾重にも張り巡らしています。これで敵の足は確実に鈍るはずです。その隙に頭上と正面から弓兵による斉射を行います」
「それでいい。かなりの時間は稼げるはずだ──で、肝心の援軍はどうなっている?」
その質問に、リーゼの顔が一瞬歪むのをブラッドは見逃さなかった。
「さきほど戻ってきた早馬の情報によりますと、第一軍は動くのに時間がかかるとのことです」
「ちっ! 結局〝上〟の連中は本気で俺たちに死ねと言っているのか」
ブラッドが拳を手のひらに叩きつけていると、リーゼが慌てたように口を開く。
「その代わりと言ってはなんですが、オリビア少佐が第一陣として援軍に駆けつけるようです」
「──例の帝国軍から死神と呼ばれている少女か……だが、第七軍は北部から動くことはできないはずだが?」
紅の騎士団撃破の報はブラッドの耳にも届いていた。それ自体は喜ばしいことだが、同時に第七軍も大きな損害を受けたと聞いている。さすがのパウルでも中央戦線に兵を割く余裕はないだろう。
「なんでもたまたまオリビア少佐が王都に滞在していたらしいです。今は中央地域の警備兵を総動員している最中かと」
「たまたまね……」
ブラッドはよれた煙草をくわえて火をつける。死神と呼ばれる少女がどれほどのものか知らないが、正直第二軍の運命を託すほど信頼は置けない。であるならば、ここは決断すべきときだろう。自分を鼓舞する意味でもブラッドは獰猛に笑った。
「閣下?」
「リーゼ大尉、万が一のときのために撤退の準備も進めておけ。当然
「閣下ッ!」
リーゼの吊り上った目がブラッドを射抜いていくる。
「そう怒るな。俺はお前たち全員を死に追いやってまで、国を守ろうなどという殊勝な心は持ち合わせていない。なーに、心配するな。責任は全て俺がとる」
「そんなことを心配しているのではありませんッ! 私は──」
「大尉、これは命令だ。復唱」
なおも食い下がっているリーゼに、ブラッドは真っ直ぐ目を見据えて言った。
「……はっ、撤退の準備を進めておきます」
「そうだ。それでいい」
リーゼは一転、力なく敬礼すると重い足取りでこの場を去っていく。
「──人のために国がある。確かそう言っていたよな。パウルのじっさまは」
地平線に沈みゆく太陽を眺めながら、ブラッドは大きく煙を吐いた。
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