第二幕 ~少女と死神~
影が赤子を拾いあげてから十年。
少女は外壁が黒く光る神殿で、〝
暮らしていると言ったが、だからといって一緒にご飯を食べたり、遊んだり、寝たりはしない。してくれない。ゼットが少女を観察するとき以外、傍にいてくれることは滅多になかった。
──そして、今はその観察の時間。
神殿の外に造られた訓練場で、少女とゼットがお互いの武器を交えていた。少女の得物は純白に輝く白剣。対するゼットは黒い靄を纏う漆黒の大鎌。
少女はもう何度目かもわからない斬撃を大鎌で軽く弾かれると、大きく後ろに跳躍し、ゼットとの間に距離をとった。肩で大きく息をしながら、額から零れ落ちる汗を袖で拭う。
観察が始まってからすでに三十分。さすがに体力の限界が近いことを少女は悟る。
ゼットは大鎌を肩に担ぐと、淡々とした口調で声をかけてきた。
『ドウシタ? モウ疲レタノカ?』
皮肉を言っているわけではない。そもそもゼットは皮肉など言わない。単純に少女の状態を観察して、言葉を発しているに過ぎないのだから。
──それでも。
深く息を吸い込んだ後、思い切り地面を蹴りつける。剣の射程範囲にゼットを捉えた少女は、脇腹に向けて渾身の一撃を振り放つ。だが、純白の剣がゼットに届くことはなかった。渾身の一撃はあっさりと大鎌に絡め取られ、切っ先が地面に突き刺さる。
『フム。《俊足術》ハ問題ナイ。ダガ、動キガ直線的過ギルナ』
独り言のように呟くと、ゼットは凄まじい速さで足刀を放ってきた。少女は咄嗟に剣を引き抜き、盾替わりにして身を庇う。暴風のような風圧と共に、襲いくる強烈な一撃。耐え切れず、空中に思い切り蹴り飛ばされた。
『グッ!』
脳が痺れるような感覚に襲われて、少女は一瞬、気を失いかけた。咄嗟に舌を噛み切り何とか持ちこたえると、空中で回転しながら地面に着地する。息を整えつつ流れ出る血を拭っていると、両腕が激しい痙攣を起こしていることに気がついた。
『ダイジョウブ。マダ……マダガンバレル』
少女はギュッと柄を握りしめ痙攣を抑え込むと、剣を大きく振りかぶり《弧》を張った。剣による結界。どのような死角からでも迎撃できる構えであり、ゼットから教わった剣技のひとつ。
『準備ハデキタカ?』
大鎌をまるで小枝のように振り回しながらゼットは尋ねてくる。少女はそれに返事をすることなく、柄を強く握りしめた。
『準備ハデキタヨウダナ』
再びゼットが言葉を発した途端、ヌルリと背中を覆う不快感。咄嗟に横へ跳び、直後に振り下ろされた一撃を紙一重で回避する。少女はお返しとばかりにゼットの背後に回り込むと、剣を振り上げ──その動きを止めた。止めざるを得なかった。
残像を残してさらに背後に回ったゼットが、少女の喉元に大鎌の先端を突きつけていたからだ。額から冷たい汗がツーっと流れ落ちた。
『ダイブ動キニツイテコレルヨウニナッタナ。今日ハコノヘンニシテオクカ』
そう言うと、ゼットは地面に溶けるように消えていった。途端に神殿の周囲を覆う圧迫した空気は霧散し、元の静寂な世界が戻ってくる。
『アリガトウゴザイマシタ』
少女は肩の力を抜くと、ゼットが消えた地面に向かって礼を言った。
少女の日課は決まっていた。
大陸の情勢、言語、兵学、魔術、剣術、格闘術など、様々なことをゼットから学ぶ。たまに一緒に森へ入っては、獲物の狩り方や調理する方法なんかも教えてくれた。観察と称して少女に行われる教育であり、訓練だ。
観察が本格的に始まったばかりのある日のこと。
少女が人間という生き物だとゼットは教えてくれた。なんだか難しい言葉で言うと、ちてきせいめいたいというらしい。そうすると自分とあまりにも姿形が違うゼットは何者なのか。少女は気になって尋ねてみた。
『私ノコトカ? ソウダナ……コノ世界ノ人間ガ言ウトコロノ〝死神〟ト言ウヤツダナ』
思いがけない言葉を訊いて、少女は目を輝かせた。なぜならゼットから貰った沢山の本の一冊に、死神を題材にした本があったからだ。本によると死神は人間の魂を無差別に刈り取る恐ろしい存在だと書かれていた。
──全ての者に等しく死を。
本の最後はそう結んであった。少女はゼットに自分の魂も刈り取るのかと尋ねてみると、
『ソレハ誤リダ。我々ガ直接刈リ取レルノハ、自我ガ芽生エル前ノ人間ト、死ンデマモナイ人間ダケダ。スデニ自我ガアルオ前ノ魂ハ刈リ取レナイ』
と、言っていた。
確かに言われてみると、本に描かれている死神はホネホネで
だから、本は嘘なことも書かれているんだなと少女は思った。
またしばらくたったある日。
剣術の訓練後に少女は尋ねてみた。今教わっている剣術や格闘術──いわゆる殺人術は、一体何の役に立つのかと。人間は食べる目的以外で同族を殺す、好戦的で残虐な生き物だと教わった。
だけど、神殿にいる人間は自分ひとりだけ。殺す人間がいないのにもかかわらず、訓練をする必要性に違和感を覚えたからだ。
ゼットは少しの沈黙の後『ソノウチニワカル』とだけ答えてくれた。影であるゼットには当然のごとく表情というものがない。影がそのまま立体化したかのような存在なのだから。
だから、どんな気持ちでその言葉を口にしたかはわからない。だけどそのときのゼットは確かに──少しだけ笑ったような表情をしていたと少女は感じていた。
いくつもの季節が過ぎ去っても、少女とゼットの奇妙な暮らしは続いていく。
──少女とゼットが出会ってから十五年の月日が流れていた。
相変わらず少女の暮らしに変化はない。
毎日毎日飽くことなく繰り返される観察の日々。それでもあえて挙げるならば、教育と訓練内容が高度になったこと。
それと後々不便になるだろうからと、名前を付けてもらったくらいだ。
だが、十五歳を迎えた少女の体は大きく変化を遂げていた。ゼットによって鍛え抜かれた体は、まるで強靭な猛獣を連想させる。だからといって、十五歳の少女らしくないとは決して言えない。すらりと伸びた美しい手足やふくよかな胸などが良い証拠だ。人形のような整った顔立ちも相まって、おそらく街を歩けば誰でも振り返って見てしまう。そんな美しい女性に成長していた。
少女の朝は早い。
お日様が昇ると同時に目を覚ますと、天蓋付きのベッドから飛び起きる。大あくびをひとつすると、背筋をグッと伸ばした。パキパキと骨が鳴り、これが何とも心地いい。壁に吊るされている手ぬぐいを首にかけながら、部屋を出て中庭へと続く廊下をゆっくりと歩いていく。
少女は夜明けの静謐とした雰囲気をとても気に入っていた。そのためだけに早起きをしてると言ってもいい。
やがて最初の目的地である中庭に出ると、鬱蒼と茂る緑葉の隙間から薄らと光が差し込んでいた。少女は僅かに目を細めると、井戸から水を汲み入れ始める。たらいに水を貯めると顔を洗いながら、ついでとばかりに口に含む。空っぽの胃に水が染み渡り、自然と笑みがこぼれた。
『ウン美味シイ』
少女は独りごちると、今度は朝食を作るため厨房兼食堂に向かった。煉瓦が敷き詰められたかまどに、小さなテーブルが置いてあるだけの実に簡素な作り。少女は慣れた手つきで薪をくべると、右手の人差し指に力を集中させる。体内に宿る魔力。そして、空気に含まれる微量な魔素を結合させるイメージだ。
程なくして結合の成功を示すかのように、青白い光の粒子が指先に向けて集まっていく。光が指先の一点に集束されると、小さな火球を発現させた。豆粒大ほどの小さな火球だ。
『成功』
その火急の出来栄えに満足げに頷くと、少女は薪に向かって放り込む。青白い炎が燃え盛る中、壁に立てかけてある火かき棒を使って火加減を調節していく。最初は火球の加減がわからず、何度もかまどを破壊してしまった。けれど気がつくと、何事もなかったかのようにかまどは修復されている。
この不思議な現象を本に出てきた《悪戯好きの妖精コメット》の仕業だと少女は考えた。内容は臆病な妖精コメットが手を変え品を変え次々と人間に悪戯をし、こっそりと驚く様を楽しむという物語。
ある日少女は逆に驚かしてやろうと考え、一晩中部屋の隅に隠れ見張っていたことがあった。だが、待てど暮らせどコメットは姿を現さない。結局教育の時間のためその場を離れたが、しばらくたって戻ってみるとかまどは綺麗に修復されている。
少女は半ば意地になり、数日に渡ってコメットを驚かそうとやっきになった。しかし、コメットが姿を現すことはなく、その願いがかなうことはなかった。
しばらくたって、偶然ゼットが魔術を使ってかまどを修理している姿を見た時は大いにがっかりしたものだ。
少女は苦い記憶を思い出し首を振ると、額の汗を手ぬぐいで拭う。昨日の残りが入ったスープの鍋をかまどの上に置き、後は温まるのを待つだけ。しばらくすると鍋からコトコトとした音と、食欲をそそる香りが漂ってきた。
「ゴ馳走様デシタ」
ひとりきりの食事を終えると、手早く食器を片づけ教育部屋へと向かう。神殿には少女が寝室として使っている部屋以外にもいくつか部屋はあるが、どこも荒れ果てている。管理をする者がいないのだから当然だろう。教育部屋も同様だ。
見慣れた魔術紋様が施された扉を開くと、突然鈍い音と共に扉が派手に倒れた。どうやら相当腐っていたらしい。
少女は特に気にすることもなく、倒れた扉を踏みつけながら部屋の中央──ひとつだけポツンと置かれた粗末な机に座る。後はいつもの通り。ゼットが虚空から姿を現して、教育が始まるのを待つだけ。何の疑問もなく少女はそう思っていた。
だが、今日に限っていつまで待ってもゼットが姿を現す気配がない。さすがにおかしいと感じた少女は、普段ゼットが使う教卓へと近づいていく。先程から見たことがない漆黒の剣と一緒に、手紙らしきものと緋色の宝石が視界に入っていたからだ。
そして、少女の予想通り手紙だった。しかも、少女宛の手紙。手紙を何度も読み返した後、宝石と一緒に乱暴に懐へと押しむと、漆黒の剣を握りしめながら神殿の外へ飛び出した。
『ゼットーッ!』
気づくと自分でもビックリするくらいの大声でゼットの名を呼んでいた。だが、ゼットが少女の呼びかけに答えることはない。ただただ虚しく声が響き渡るだけ。それでも声が枯れるまで必死に呼び続けたが、ゼットが姿を現すことはなかった。
『ゼット……ゼット……ゼット……』
繰り返しゼットの名を呟く少女の瞳に、いつのまにか暖かいものが溢れだす。視界がぼんやりと霞む中、頬を伝うものにそっと手で触れてみる。これが悲しいときに流す〝涙〟ということはすぐに理解した。
だけど、どうして胸が締め付けられるように痛くなるのかわからない。訓練のときに受ける痛みとは全く違う痛み。そんなことは、本にも書いていなかった。
どれくらい経っただろう。
涙を袖で拭っていると、少女はあることに気がついた。左手に握っている漆黒の剣から、黒い靄のようなものがたゆっていることに。それは形こそ違うが、ゼットが持っていた大鎌と同じもの。
少女は漆黒の剣をそっと胸に抱きしめ、静かに目を伏せる。
その日、少女は神殿を後にし、二度と戻ることはなかった。
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