アルカナ・ワールド
ゴルゴ竹中
プロローグ 終わりと始まり
幼い頃、如月咢(きさらぎ あぎと)は幸せな暮らしを享受していた。
家族構成は、能力を持つ中流階級の父と、能力は持たないが優しい母、それと妹の四人。
この国では能力者が優遇される政策が施行されているため、特にこれといった不自由はなく暮らすことができていた。
そんな日々に不幸は突然舞い降りた。咢が十歳の頃、父親は事故で他界。母は息子ら二人を育てるため、昼夜絶えない仕事の日々を繰り返したが、身体が弱かったため過労で病を患いこの世を去った。
このとき、咢は十四歳、妹の美也は十二歳だった。
母の病気は決して治療できないものではなかった。咢は妹には内緒でバイトもしたが、父がいなくなった家庭にその莫大な医療費はあまりに高すぎたのだ。
両親がいなくなった2人は、身寄りもなく児童養護施設に送られた。施設に入ると、美也の咢に対する接し方は冷たくなった。母のことを何も相談してくれなかった兄に対して多少なりとも怒りを感じていたのかもしれない。もう美也に見限られたのかと思うと、孤独な感情は増していった。
施設の中で咢は考えた。もはや親も失い妹にも見捨てられた俺には何もない。逆に言えばもうこれ以上地に落ちることはない。
今ならなんだってできると。
このとき、彼は一つの計画を思いついた。ただ、それは計画と呼ぶにはあまりにお粗末なものだった。
『金持ちを襲って、人生を変える』
彼の脳は完全に麻痺していたが、それを止める者も誰もいなかった。
これは単なる腹いせでもあったのだ。
母が医療を受けられなかったのは、金持ちが富を独占しているからであり、その偏った富を放出すれば社会は平等になる。
なんて名案なんだろうとさえ思っていた。
この計画を遂行するために彼は誰にも負けない力が必要だと感じていた。腕っぷしには自信があったので、外出中は各地のごろつきに殴り込んだ。喧嘩に明け暮れる日々である。
偶然にも彼には戦闘のセンスがあった。何度負けても這い上がる不屈の精神で彼は闘い続け、1年も経つと彼は誰にも負けない強靭な肉体を手に入れていた。相手が刃物を持っていようが、十数人で襲ってきようが、失うものがない彼には恐るるに足りなかった。
十八になり施設を出たその日に、彼はマスクをしてカジノに向かった。このカジノが金持ちの道楽の場となっていることは既に調査済みだった。武器は一切持たず、カジノで数時間待ち伏せをする。そして、一人の女性にターゲットを絞った。
その女性はボディ―ガードを傍に1人連れ、サングラスにファーコート、そしてブランドものであろう高級感あふれるバックを下げておりいかにもセレブらしい人だった。
車に乗ろうとしたその女性の前に立ちはだかる。いかにも庶民の服装の彼を見て、ボディガードは気がふれたキチガイだと思ったに違いない。実際そうなのだから。その男は追い払おうと肩に手をかけた。
その手は金属のように固く、咢の肩はミシミシと音を立て、その突然の痛みに咢は声を上げた。その男は能力者だったのだ。
この時だった、彼が自らの能力に気付いたのは。
肩にかけられたガチガチの手を掴み思い切りねじり曲げると、その男は驚きと痛みのあまり悲鳴を上げ、倒れこんでしまった。
能力を封じる能力。それが咢の秘められた能力だったのだ。
一般的に言えば、それは大した能力ではなかっただろう。何かに応用もできることもなければ、特別強くなるわけでもない。
ただ肉弾戦最強である彼にとって、その能力は必要なピースだったのだ。
自らの力に酔いしれていた。セレブなその女に「金をだせ」と言うと、彼女は恐怖のあまり声も上げることができなくなっていた。
そのとき、後ろから伸び出た手が彼の肩を掴んだ。
「大人しくしてもらおうか」
振り向くと、その声の主は警官だった。
咢は笑っていた。彼にはもう相手が誰だとかは関係なかったのだ。
邪魔する奴は皆痛めつける。自分が生物の頂点と妄信していた。
その自信も数十秒後には無くなっていた。
身体能力で言えば咢の方が上回ってはいただろう。
それなのに、その警官の戦闘技術には全く歯が立たない。
彼は初めて敗北を味わった。
取り押さえられたまま車に乗せられ、警察庁に連行された。
計画を立てた当初、こうなることを少しは覚悟していた。ただ自分の能力が発動したあの時に自分は特別だと思い込んでしまったため、彼の絶望は抑えきれない程大きくなっていた。
襲った女は大物芸能人だったらしく、警察庁の前には大勢のマスコミや一般人が待ち構えていた。警察官たちは大勢の人を押しのけて連行している車の通り道を作る。
咢は降りると、警官に連れられ顔を上げて前に進んだ。
その焦点はどこにも合っていなかった。
空虚な心に、もはや感情は残されていなかった。
だが、そんな彼の焦点は一人の女性を捉えた。その群衆の中にいたのはまぎれもない美也だった。彼女は目が合うと顔を隠して俯いた。
彼女は泣いていた。隠し切れないほどの涙があふれ出ていた。
咢は気づいた。今まで自分は、自分のことしか考えていなかった。一人になってしまった自分にはもう何も失うものがない。そう考えていた彼の目に、残されたたった一人の妹の姿は写っていなかったのだ。
まぎれもなく咢が底辺に落ちたのは、このときだった。
彼は俯いた。涙が止まらなかった。
美也のことを考えると胸が苦しくてたまらなかった。突然親を失い、たった一人の馬鹿な兄はこうして犯罪を犯して捕まっている。
自分が他人をこんなにも傷つけてしまっているのかと思うと、申し訳ない気持ちで一杯だった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
咢は過呼吸になりながら小さい声で謝り続けた。
その声は、隣で連行している警官にも聞こえないくらいの声量だった。
取調室に入ると彼を捕まえた警官は彼を席に座らせた。現行犯逮捕だから取り調べは必要ないとお偉いさんは言っていたが、その警官は聞きたいことがあると言って彼をこの部屋に連れてきたのだ。カチャと鍵が閉まる。
「どうしてこんなことをした」
「……」
「さっさと言え」
「……」
何も答えたくなかった。何も考えたくなかった。
「連行したときお前は泣いていたな。一体何を考えていたんだ?」
沈黙は続いた。警官は「やれやれ」とため息をついた。
「捕まえておいてあれだが、俺はお前が心の無い暴行魔だとは思えん。お前がどんな人生を歩んできたのか、正直に話してくれないか」
その警官はきつく問い詰めることはしなかった。
沈黙の後、咢は少しずつ話始めた。何一つ嘘はつかなかった。ありのままの経歴をただただ喋り続ける間、咢は思い返していた。
もし、自分がやり直せるとしたらどのタイミングが良いだろうかと。ただ、これは紛れもなく自分の人生である。そんなことを妄想しても仕方ないなという結論に最終的には至った。
「そうか、なるほどな」
羽織っていたコートを脱ぎ、頭を抱えた。彼は何かを決意した表情で咢に話しかけた。
「申し遅れたな、俺の名前は藤堂明宏(とうどう あきひろ)。この警察庁本部の警部として働いている。」
彼はコートの内ポケットから辞表と書かれた封筒を取り出した。
「だが、俺は今日、この警察庁を辞めるつもりだ。」
その封筒の文字を見せつけると、机の上に叩きつけた。
「これも何かの運命だな。俺と一緒に来い」
「どういう意味ですか」
「新しく立ち上げる店で、俺の助手として働けと言ってるんだ」
全く状況が飲み込めなかった。
「……もう自分は終わりですよ。あなたの下で働く前に刑務所に行かなければならないんですから」
「そうならないように俺が手を回してやる」
心はひどく弱っており、何か裏があるんじゃないかとすら思えなかった。
「これまでお前の人生はもう死んだ。だったら、新たな人生を歩んでみようとは思わないか」
「なんで……どうして自分を救ってくれるんですか」
「勘違いしてもらっちゃ困る。別に俺はお前を救いたい訳じゃない。お前の能力――それが欲しい」
「俺の能力?」
「まあ、細かいことはどうでもいい。お前に残された選択肢は二つ。死ぬまで独房で暮らすか、俺と共に次の人生を歩むか」
咢は何も答えなかった。彼はもうこれ以上光を浴びたくなかった。未来に期待すればするほど、また過ちを繰り返し絶望するのではないかと怖くなってしまっていたのだ。
藤堂は咢に向かって言った。
「お前は自分がこの世に生まれた意味、そして生きていく意味を聞かれたときそれに答えることができるか?」
「分かりません……それは私の方が知りたいくらいです」
「なら、まだお前は諦めるべきじゃない」
「何でですか?」
「それを見い出せたとき、答えもおのずと分かる」
咢は静かに顔を上げ藤堂の目を見た。藤堂のその眼差しから送られる確かな強い意志は彼に最後の希望を芽生えさせた。彼は小さく頷いた。
如月咢は藤堂明宏と共に次の人生を歩むことに決めた。
それから約一年の歳月が立った。
(大臣暗殺の容疑者の詳細は依然として掴めておらず、捜査は難航している模様です。警察の発表では、能力者の関与の可能性が高いという内容ですが、確かな事実はまだ何も明らかになっておりません……)
数日前も聞いたような内容のニュースが流れている。咢は朝飯の天丼を食いながら文句を垂れていた。
「ほんと警察って無能ですよね。犯罪者を減らすって意味だったら、うちの方が社会に貢献してんじゃないですか?」
「ぐだぐだ言ってる暇があったらさっさと飯を食え。支度をするぞ」
「今日はあと何の仕事が入ってるんですか?」
藤堂はため息をついて言った。
「迷子犬の捜索と不法ゴミの撤去、あとは……通り魔の暗殺だ」
咢は今日もくだらない雑用と暗殺の手伝いをして日々は過ぎる。
この万事屋(よろずや)『一革堂』で
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