君といつまでも あるいは儚い世界の幸福

那由多

第1話

 木曜日。

 会社からの帰りに秋田さんを見かけた。

「お疲れ様」

 俺がそう声をかけると、秋田さんはくるりと振り向いた。柔らかな栗色の髪が肩口で軽く跳ねる。

「あ、お疲れ様、佐伯君」

 俺を見て、いつものようにニコッと笑ってくれる。

 秋田さんは部署こそ違うが先輩にあたる人で、入社以来五年、どのように角度を変えても頭が上がらぬほどに世話になっている。

 人当たりが良く、有能で、明るくはきはきとしている。髪の跳ね具合で調子が判別できるのを知ったのは二年前。絶好調の時は、それこそスーパーボールの様によく跳ねる。

 ちなみに年齢も俺よりは上だが、それについて言及すれば命が危ない。わきまえる。これはとても大切な事だ。このおかげで今日まで、俺は秋田さんと仲良くさせて貰えているのだから。

「毎日、何かあるものねぇ」

「そっすねぇ」

「たまには平和な一日が無い物かしら」

「ほんとにね」

 秋田さんは苦笑いを浮かべる。俺にできるのは精々励ます程度だ。何しろ彼女は頑張り屋でスキルも高く、社内での評価も高い。そんな彼女に対して、何か意見できるほど立派な社員では無いのだ。

 最近、秋田さんは部署が変わり、色々とストレスに苛まれていると聞いた。彼女も仕事の上では生真面目で几帳面な人だから、割とストレスはたまりやすい。

 少しでもストレスの軽減になれば。そう思って、俺はお猪口を傾ける仕草をして見せた。

「どうすか、一杯」

「いいねぇ」

 酒好きで名の通っている秋田さんの顔は覿面にほころんだ。

 俺はこの秋田さんの笑顔が好きだ。というより、秋田さんが好きだ。

「でも、明日まだ仕事だよ? 大丈夫?」

「あ、俺、明日休むんで」

 何気なく言ったつもりだが彼女は聞き逃さない。それまで緩んでいた目元が厳しさを取り戻す。

「うん? 今なんか、おかしい事言ったよね?」

「有休……です」

「ふーん……」

 秋田さんは唇をとんがらせ、斜め下を向いてしまった。拗ねてしまった。そのままの顔で上目遣いに俺を見る。

「どっか行くの?」

「温泉に……行こうかなって」

「私は?」

「いや……その……無料券を一枚だけ頂きましてね……」

 秋田さんのじっとりとした視線が息苦しい。

「私は?」

「お、お仕事、頑張ってください」

「そっか……一人が好きなんだね……」

「そんな事は……」

 決してない。いける者なら一緒に是非。喉元まで出かかった言葉を俺は押し込んだ。彼女は生真面目な人だから、こういう段階を飛ばしたような事はきっと好まない。口では軽い事を言ってくるが、そんなのは本心じゃ無いのだ。

「お土産よろしくね」

 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、秋田さんはしれっとそう言った。

「は、はい!!」

 情けない事だが、俺は話題が締めくくられた気配に安堵していた。

 全く、我ながらヘタレで嫌になる。

 こんなのだから、いい年して女の子の手すらロクに握った事ないんだな。ちなみに、秋田さんの手は一度だけ触れそうになった事がある。白くて細くて滑らかな素敵な手だった。触れなかったんだけどね。

 それはともかく、土産は酒かな。温泉はタダだし、それぐらい買う予算はある。大丈夫。

「じゃあ、飲みに行くのは来週ね」

「え、そうなんですか?」

「だってー、私、仕事だしぃ」

 返す言葉もない。にやにやと笑う秋田さん。俺はがっくり項垂れる他ない。

 でも何だろう。こういうやり取りが心地よい。

「佐伯君の温泉話を肴に飲むから。良いエピソード揃えといてよね」

「分かりました」

「ふふん、よろしい」

 秋田さんは腕組みをして、何度か大げさに頷いた。それから突然、顔をぐっと近づけてくる。その距離、十五センチぐらいだろうか。秋田さんの大きな瞳がすぐそばに来た。彼女の瞳には、俺の間抜け面が写っている。

「楽しみにしてるよ」

「は……はい」

 答えながら俺は思う。お土産を? それとも温泉話を? あるいはそれとも……。

 秋田さんは俺の目をじっと見つめてから、スッと離れていった。

「ふふ。そんじゃ、また来週」

「はい。また来週です」

「気を付けて、行ってきてね」

「はい。ありがとうございます」

 いつもと変わらない秋田さんに戻った。それからは何てことの無いやり取りで俺達は別れた。

 秋田さんは電車。俺はバス。

 バスに乗ってからも、俺の胸は秋田さんの瞳を思い出すたびにドキドキと高鳴るのだった。その高鳴りを感じながら俺は心に決めた。飲みに行った席で、彼女に思いを伝えよう。そして、温泉に誘うのだ。


 翌日。

 俺は一人温泉街にやってきた。

 自宅から電車で一時間半程度。気軽な小旅行の距離に温泉街があるというのは幸せな事だ。大きくはないが、鄙びてもいない。休日にはそこそこの人がやってくる観光地だ。

 今日は平日という事もあって人は少ない。のんびりと街を歩きながら、たまに買い食いなんかしてみたりもする。

 同僚達が労働に従事している間に貪る休日というのは、どうしてこうも清々しいのだろうか。

 空気は爽やか、空の青さも際立ち、見るもの聞くもの食べるもの鮮烈だ。

 蒸かしたての温泉饅頭がとりわけ美味かった。

 秋田さんも今頃仕事しているんだろうな。その点だけが心残りだ。頑張っている彼女に、是非この饅頭を食べさせてあげたい。

 そう、一緒に来て、この味を堪能するのだ。調子に乗って、俺はまんじゅうをもう一つ食べる事にした。

「おっちゃん、饅頭もう一個」

「はいよ、毎度」

 あちち。手に直接乗せようとするのはよせ。

 商店街を抜けると見えてくるのが目指す旅館。構えからして上等な旅館である事は疑いなかった。一泊するととんでもない金がかかる。だが、俺には輝く無料券があるのだ。休日はきっと人で溢れかえるのであろうロビーも、平日の真昼間となれば閑散としたものだ。

 手続きを済ませ、大浴場まで案内に従って移動する。脱衣所に入った瞬間、俺は軽く小躍りした。何と貸し切りだ。

 漂う硫黄の香り、白濁した湯。体の芯まで染み入る熱い湯が体の疲れを取り去ってくれる。

「ふぅ……」

 何という贅沢な休日だろう。

 温泉街をぶらつき、さらに温泉を貸し切りで入れるなんて。後は秋田さんに買って帰る酒だな。

 これもまあ、自分の舌で味わって買った方が良いだろう。昼酒がどうこうとか、そういう事じゃない。いわゆる気遣いだ。ほんとだよ?

 温泉街に戻った俺は、土産物屋の隣にあった立ち飲みカウンター付きの酒屋に迷わず入った。何しろ平日なうえに今はまだ昼間だ。当然店内はガラガラで、カウンターもこれまた貸し切り状態。ここで昼酒を味わわずして、どこで味わえというのだ。

「いらっしゃい」

 カウンターの向こうには黒の襟付きシャツに蝶ネクタイを締めたオールバックの兄ちゃんが笑顔で立っていた。温泉街に洋風の出で立ちというのもなかなかアンバランスだが、それがよろしい。

「この辺の、美味しいお酒ある?」

「どんなのがお好みですか?」

 そんなに種類があるのか。俺は秋田さんを思い浮かべた。彼女がいつも好んで飲む酒は、口当たり柔らかで、のど越しも爽やかなのが多い。

「なるほど、それならこれはどうです? 湯馬桜ってんですけど」

 そう言って兄ちゃんが取り出してきたのは、馬が温泉で一服しているラベルの張られた酒だった。

「なるほど、一杯貰おうじゃないの」

「へい、毎度」

 せっかくパリッとした出で立ちなのに、口を開くと完全に居酒屋のおっさんだ。まあ、肩ひじ張らなくていいけど。

 桝に入れたグラスにとくとくと酒が注がれる。当然のようにいくらか桝に溢れたところで、兄ちゃんはようやく瓶を戻した。

「つまみは何がいいかな?」

「魚ですね」

「じゃあ、平目の昆布締め」

「へい、毎度」

 つまみが出てくるまでの間、酒を眺めて楽しむ。酒の色は透明。香りを吸い込むと、甘い米の香りが鼻腔に広がる。

「おまちどお」

 糸づくりにされた昆布締めが小鉢に盛られて出てきた。

「じゃあ、いただきます」

 先に手を合わせてから箸を取り、でもやっぱり先に飲むのは酒だ。グラスをいったん脇に置き、桝の中の酒をついと口に流し込む。木の桝が放つフワッとした優しい木の香りが鼻を刺激して、それから爽やかな甘さの酒がするりと広がる。

「美味い」

「ありがとうございます」

「のど越しも爽やかだし、ちょっとフルーティーな感じもある」

「女性に人気なんですよ」

 分かる気がする。

 秋田さんへのお土産はこれで決まりだろう。絶対に彼女の好みだ。喜ぶ顔が目に浮かぶ。できればこれを差し向かいで飲めるような関係になりたい。

「これ、小さい瓶で売ってる?」

「隣の土産物屋で」

 なるほど、良くできた仕組みだ。

「お土産ですか?」

「そう」

「わざわざ飲んで確かめるなんて、大切な方へのお土産なんですね。彼女さん?」

「そうなればいいなって人」

「ははあ、それじゃ責任重大ですね。上手く行くことを願っています」

「ありがとう」

 それからしばらく酒を楽しみ、俺が店を出て引き上げるころには、日がすっかり傾いていた。

「今度は秋田さんと……」

 夕焼けに染まる街を駅のホームから眺めながら、俺は思わずそんな言葉を口にした。口にした途端驚いて思わず言葉が止まる。やれやれ、どうやら飲みすぎたか。まあ、そうなれば嬉しいけれど。ふと、昨日の衝撃的な接近を思い出す。彼女の深いこげ茶の瞳の美しさは俺の脳裏にしっかり焼付いている。

「楽しみにしてるよ」

 あれがもし、次に温泉に行くときは誘ってねって事なら、俺は幸運なんだけどなぁ。


 帰宅後、いつの間にか眠っていた。

 ソファに横たわり、変なふうに体が捻じれていたものだから、起きたときに体が痛かった。せっかく温泉で体をほぐしてきたというのに。

 しかも時計を見ると深夜一時。おかしな時間に起きてしまった。大失敗だ。

 テーブルの上に置きっぱなしだったスマートフォンのLEDランプが点滅していた。迷惑メールでも届いたか、と思いつつ手に取って立ち上げる。

 メールの差出人を見た途端、俺のぼんやりしていた頭は一気にクリアになった。

 画面に出た名前は秋田小百合。つまり秋田さんからのメールだ。ちなみに、くれたのは七時前。

 タイトルなしのメールを恐る恐る開いてみる。

「もう帰ってるかな? 良かったら飲みに行きませんか?」

 それから五分ほどしてもう一通。

「気づかないかな? お休みのところごめんね。ゆっくり休んでください」

 自分の間抜けさを呪わずにはいられない。慣れない昼酒なんてするからだ。後悔してみても最早時は戻らない。手遅れだ。

 仕方なくメールの返事だけを返して寝ることにした。怒っていないと良いけど。

「すみません。寝てて気づきませんでした。温泉で昼酒をしたもので。お土産、買ってきてます。もし良ければ、明日お渡ししましょうか?」

 送ってから気付く。

 明日じゃなくてすでに今日だ。しかも、彼女が見るとしたら朝になってからなのだから、余計に大失敗をしたと言える。

「すみません、明日ってのは土曜日の事です。だから、今日ですね。ほんとにすみません」

 不細工な文章だ。だが、それに拘っている場合でもなかった。

 俺は目を閉じて送信ボタンを押した。心の中で秋田さんに謝りながら。


 笑顔の秋田さんが俺に向かって手を差し伸べる。まるで、手を繋ごうと言わんばかりに。俺はもちろん手を差し出す。ところが、伸ばしても伸ばしても届かない。後十五センチぐらいの隙間が、ちっとも埋まってくれない。


 どうしても彼女に触れられぬまま昼前に目が覚めた。

 それが、自分の犯した愚かなる行いへの後悔からくるものであるのは言うまでもないことだった。 

 放り出したスマートフォンを恐る恐る拾ってチェックしてみる。秋田さんからメールが帰ってきていた。朝六時に返ってきている。起き抜けという事だろうか。わざとではないにしても、また六時間近く放置していたことになる。

「おはようございます。ご丁寧にどうも。良いのよ、気にしないで。来週飲みに行きましょう。今日と明日は家の用事で出られないのよ、ゴメンね。実家暮らしの辛いところよ。勘弁してね。じゃ、また来週。良い休日を!!」

 がっかりしたようなほっとしたような……。

 結局、二日間をフリーで過ごした俺は店の選定や当日の予算について考えを巡らせ、万が一に備えて部屋の掃除なんかをして過ごした。

 

 この三日間の事を、俺は後で死ぬほど悔いることになる。だからってどうすれば良かったとかそういう事では無い。


 やる事の有無や、知る知らない。そんな事に関わらず時は流れる。

 それは平等で揺るぎない物だが、同時に残酷なものでもある。

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