夢幻の邂逅

葉月 弐斗一

夢幻の邂逅

 季節外れの真夏日のため、桧村ひむら裕二ゆうじは歩きながらネクタイを緩めていた。眼鏡をはずして額の汗をぬぐう。ゴールデンウィークが明けると同時に気温が一気に上昇した気がする。すれ違う人々は手に手に、うちわを扇子をハンカチを持ち、思い思いに仰いでいる。かく言う裕二もスーツを小脇に抱え、今はワイシャツだけだ。皆、暑さにやられているのだ。

 だというのに、裕二の隣を歩く少女はまるでそんな素振りを見せない。本人曰く、まだ薄着するほどでもないらしい。だからと言って、吸光性の高そうな黒が素材の、手首まで覆う長い袖をした、体積の大きそうなドレスは、見ている裕二が辛かった。肩にかけたネコの顔をしたポーチが水色なのが唯一の涼だ。

 都心から電車とバスを乗り継いだ郊外の道を、若いサラリーマンと黒ゴスの少女が並んで歩く光景は、どう見えているのか裕二はふと気になった。見たままならタレントとマネージャー、あるいは兄妹だろうか。少なくとも上司と部下の関係には見えないだろう。

 視界の端にコンビニエンスストアの水色の看板が見えたところで、裕二は同行者に提案をした。

「ユキ、そこで飲み物買っていかないか?」

 脇腹に軽い正拳が返ってくる。

 腕時計に目を落として、先方の家への到着予定時刻を考える。待ち合わせ時刻の十五分前といったところか。待つには十分余裕のある時間だが、何が遅れる原因となるかわからない以上安全とも言えない時間なのも確かだ。時間に余裕がなくなるのは一事業主にしてみれば、あまり好ましくないことなのだろう。

 拳の意味を否定ととらえ、裕二は傍らの少女を見やる。

 前職を退職後、転職先が決まらずに苦しんでいた裕二の部屋を彼女――ユキが尋ねてきたのはつい二週間前の事だ。腰まで届く長い髪に、名前通り(かどうかは知らないが)の雪原のような白い肌。小中学生のような体躯ながら、凛とした相貌は多くの人生経験を物語っていた。

「……貴方…………視せられるって本当?」

 開口一番そう訊ねたユキは、さらに言葉を続けた。

「……私の…………手伝いをして……ほしい」

 意味が分からずあっけにとられていた裕二に、ユキは説明を重ねた。

――自分がある事業をしており、それを裕二に手伝ってほしい事。

――本名は訳あって告げられない事。

――裕二の事は人伝に噂を聞き、友人から家を教えてもらった事。

――危険だと感じたらいつでも辞めても良いし、たとえ辞めてもそこまでの報酬は十分に支払う事。

――転職活動は続けても構わないし、源泉徴収票も渡す事。

 言葉はかなりたどたどしく支離滅裂で、内容も胡散臭いと裕二は今も思う。しかしながら、自分の秘密を知って尋ねて来た少女を追い返すのも罪悪感を覚えたし、何よりユキの言葉の裏の情熱に心を打たれてしまったのだ。

 二週間前と今日。ユキと会ったのは二回だけだ。信用できるかもわからない。だが騙されていたとしても酷いことにはならないと思えたし、何より就活というのは存外金が必要だ。割のいいアルバイトと割り切って一度付き合ってみるのも悪くはない気がする。

 我ながら単純で、いつか詐欺に引っかかるのではないかと思いながら裕二は歩を進める。と、コンビニに近づいた辺りでユキと進行方向が分かれた。

「行くのか?」

 疑問を投げかけた裕二に、店の扉の前でユキは「行かないの?」と言外に小首をかしげて見せ、続けて呟いた。

「……敬語」

 どうやら先ほどの拳は、上下関係を弁えろという意味らしかった。


▽  ▲   ▽   ▲


 購入した飲料を飲みながら二人歩いていると、やがて大きな生垣を設えた日本家屋が見えた。古めかしい門扉に掛けられた表札には依頼人の名字が刻まれている。

「でけぇ家……」

 驚嘆する裕二を置いて、ユキは門扉に取り付けられたインターフォンに用件を告げる。慌ててペットボトルを鞄にしまい、ネクタイを整えると、中から細身の老爺が現れた。気難しそうな老人であったが、若い二人を訝しむこともなく迎え入れた。

「こちらです」

 門をくぐると日本庭園風の庭が目に飛び込んだ。先を歩く二人に続いて母屋まで続く石畳を歩きつつ、庭を眺める。橋を通した大きな池。柿、イチジク、バショウなど様々な木々が植えられており、棚に並べられた盆栽はどれも小さいながらも高そうな鉢に植えられており、大切にされていることがうかがえる。心地良さそうに日向ぼっこをしている犬がはしゃいでも、苔に覆われたこの庭なら怪我をすることは無いだろう。

 ただ、管理が行き届いていないような印象を祐二は抱いた。雑草がポツリポツリと苔の間から生え、樹木も刈られてはいるが、坊主頭から長い毛が飛び出しているような不格好さだ。池には枯葉が浮かび水もわずかに濁っている。それまで管理していた人間が突然仕事を放棄したようであった。

 それは屋敷内に於いてもであった。屋内も庭と遜色ない、いやそれ以上に和の意匠を凝らされている。玄関に置かれた大きな屏風には虎が、部屋を仕切る襖には向かい合う鶴と亀がそれぞれ精緻に描かれている。欄間に彫られた松の間を縫う龍は今にも動き出しそうに見えた。それだけにやけに古いトレッキングシューズや、紐で束ねられたままの新聞がやけに目についた。

 客間に通されると依頼人は茶を用意し始めた。お世辞にも慣れているとは言えない手つきで、急須に茶葉とお湯を入れていく。注ぎ終わるとあらかじめ用意していたのであろう茶菓子を櫃から出す。湯呑と茶菓子が配られるのを待ってユキはバッグから名刺入れから一枚名刺を取り出し、依頼人へと差し出した。飾り気も長たらしい役職名も何も書かれていない、名前と電話番号だけのシンプルな名刺。それを数度裏返して見てみると、依頼人はユキへのほうへと向き直った。

「……改めまして、ご依頼いただきありがとうございます。……本日は宜しくお願いします」

 名刺と同じくらいシンプルな挨拶に続いて裕二を紹介する。

「……彼は、今回助手をしてくれる……桧村です」

「桧村です。宜しくお願いします」

 名刺は持ち合わせてなくて、すみませんと頭を下げる。

 祓い屋のようなもの。

 ユキから受けた事業の説明はそれだけであった。なぜ祓い屋と言い切らず、のようなものなのか理由はわからない。そもそも裕二自身、霊媒体質ではあるがお祓いのようなものをした経験はない。手伝いができるか甚だ疑問だ。

 よくよく考えてみれば、裕二はユキの事業所名も知らない。自分の所を訪れて来た時、今回のようにユキから名刺を受け取った記憶がない。電話番号の交換と今日の待ち合わせの約束だけして、あの時は別れてしまった。助手とユキは説明したが、いったい何を手伝えばいいのだろうか。

「こちらこそ、遠いところをわざわざありがとうございます。かつと言います」

 裕二の思案をよそに、依頼人――勝は頭を深々と下げた。ただでさえ細い体がさらに小さく見える。勝が頭を上げるのを待って、ユキが切り出した。

「……電話でもお聞きしましたが、ご依頼内容をもう一度……詳しく話していただけますか……?」

 対する勝は、深く刻まれた眉間のしわを親指でしばらく揉んだのち、苦々しく、実はと返し一枚の写真を差し出した。

 チロリアンハットをかぶった老女の写真。年の頃は勝よりも若いだろうか。ただ、写真事態が古く現在の年齢がどうかはわからない。

「こちらは?」

「妻です」

「はぁ」

 裕二の気のない返事に、勝は補完して言い直した。

「妻を、成仏させてほしいのです」

「奥様を?」

 反射的に返した裕二の言葉に、勝はポツリポツリと語り始めた。

「自分は、自分で言うのも恥ずかしい話なんですが、良い旦那とは言えません男でしてね。新婚直後も仕事。妻の妊娠が分かった時も仕事。それが流産した時も仕事。事故に遭って子が望めなくなって塞いでいた時も仕事。十九で嫁いでから六十年以上、アイツを縛り付けてしまいました。お陰で社会的な地位も金も得られましたが、思い出になるようなものは何も残っちゃいません。多分、わしより、使用人や犬の方が妻の事を分かってたでしょう。せめて元気なうちに旅行の一つでも行ってやれば良かったと今になって後悔しています」

 しかしながら勝の妻は昨年末他界したのだという。何年にも及ぶ闘病生活の末のことだそうだ。その日も、勝は自身が相談役を務めていた会社の会議に出席をしていて死に目に会えなかったらしい。そして葬儀が終わってからしばらくしたのち、使用人の一人が退職届を出してきたのだという。

「『こんな家にはもういられません』と言うのです。そんなに悪い待遇だっただろうかと思いました。しかし、そいつはもう二十年近く世話になっていました。今更待遇面でどうのこうのいうだろうかと思い『何があったと』訊ねると、『怪奇現象に遭った』と答えるのです」

 それ以上聞き出せぬまま、その使用人は去ったのだという。聞けば他の使用人たちも皆同様の体験をしたそうだ。

 庭の手入れをしていたら、何者かに池に突き落とされた者。

 掃除の際に、バケツがひとりでに倒れる瞬間を見つけた者。

 蔵にしまっていたはずのボールが庭を縦横無尽に転がっているのをみた者。

 葬儀の直後からということも相まって、皆『奥様の祟りだ』と恐れるようになり、一人、また一人と辞めていったのだという。最後の一人が辞める前に勝に提案したのだそうだ。

「今からでも奥様との時間を作ってみられてはどうですか」

 怪奇現象には半信半疑であったが、会社の辞め時を失っているとは思っていたが、結局その言葉が引き金となり相談役を辞職したそうだ。そして結婚後初めて、家で生活する日々を送っていると使用人たちの言っていたことの意味が分かるようになった。

「初めは気のせいかと思ったんです。ですが明らかにおかしい。広げた新聞が突然びりびりに破れる。縁側においてあるサンダルが片方だけなくなる。今日のお茶菓子だって、お二人で来られるというので三つ買ってあったんですが、いつの間にか一つ消えてしまいました」

 確かにお茶菓子は裕二とユキの分しかなかった。

「アイツはきっとわしを恨んでいるのです。何一つ夫らしいことをせず、挙句死に目にすら会えなかった訳ですから。だからこうして我が家に呪いを」

 そういって勝は項垂れてしまった。この老人が細くなったのは、もしかしたら奥さんの死後、こうして家で過ごすようになってからかも知れない。裕二はなんとなくそんなことを思った。

「……質問しても……いいですか……?」

「え、えぇ」

 ユキの言葉に勝は頭を上げてみせる。

「……奥様が流産なさった時……えぇと、どう元気に、じゃなくて……回復……も違って――」

「立ち直ったのか?」

「……うん」

 裕二の助け舟に、ユキは恥ずかしそうに微笑んで見せた。

「先ほども言いましたが、わしは妻が塞いでいた頃にほとんど傍にいてやれませんでした」

 それでも構わないなら、と前置きして勝は続ける。

「あれは結婚して二年ほどたった時でした。外出していたアイツは階段から足を踏み外し転落したのです。妻は助かりましたが、臨月だった腹の子は助かりませんでした。さらに、その時に子宮も痛めたようで二度と子を望めない体になりました。わしは正直アイツの命が無事だったことで胸がいっぱいでしたが、男と女の違いでしょうか、入院中アイツはずっと謝っていました。家に帰ってからは茫然自失といったふうで、痛く心配したのを覚えています。家事はおろか会話さえろくに出来ない有様でしたから。家に帰ったら死んでいるんじゃないかと気が気でありませんでした。そんな生活が一年は続いたと思います。ところがある日仕事から戻ってみると、以前の妻に戻っていました。何かあったのかと思いましたが、元気になったのならそれが一番と思い詳しくは聞き出しませんでした。ただ、『ありがとう』と言われたのだけは覚えています」

 現在であれば、双極性障害いわゆる躁鬱を心配する事柄なのだろうが、当時はそのような時代でもなかったのだろう。時代背景で言えば、離婚に発展していてもおかしくなかったのかもしれない。それを勝は一年待ち、心配し続けた。詳しく聞き出さなかったのも、また塞ぎ込んでしまうのを案じての事だろう。裕二には、勝は自分で言っている程、伴侶の事を理解していない非情な男ではないような気がした。

「実際何があったのかは分かりません。ですが、変な宗教や薬にはまったというのではなかったようです」

 これくらいでよろしいでしょうか、と訊ねて勝は話を切り上げた。

「……それと……電話でお願いした件ですが……」


▽  ▲   ▽   ▲


『……それじゃあ……捕まえて、来て』

 雇用主の一言で、裕二は庭に放り出され追いかけっこをしていた。なにをするにしても、ターゲットを捕捉しない事には何も出来ないからだ。

 だがしかし――

「待ちやがれぇぇぇぇぇぇ!!」

 ただでさえ素早い相手をたった一人で走って捕まえるのは無謀であった。全身全霊をこめたダッシュに裕二は早くも限界を感じている。一方のユキとはいうと、古い本をお手本に白紙の模造紙に何かを描いているところだ。

『……私の方法……その……かなり荒い方法だから……』

 ユキの方でも策は取るが、出来る限り裕二にとらえてほしいということらしい。しかしそうはいっても高校の時に卓球部を引退して以来、今日までまともな運動をしていない。せいぜいが通学時の自転車走だ。スタミナはすでに尽きている。そんな裕二をせがむようにターゲットは数メートル先でこちらを待っていた。

 右から回れば左に避けられる。

 左を攻めれば右を突っ切る。

 壁際に追い詰めれば足元を走り抜けていく。

 追いかけっこの達人は、ギリギリ捕まらないほんの数センチを把握しているようであった。勝から庭を走る許可は得ているが、庭を荒らすほどの体力は裕二には残っていなかった。

「この野郎ぉ!」

 庭に大きく体を投げ出して、上がった息を吐きだす。かれこれ三十分近く走り回っている。今年初の真夏日になぜスーツに革靴で全力疾走をしなければいけないのだろうか。まして野球グランドがすっぽりと入りそうな広大な敷地だ。裕二のメンタルは限界寸前であった。だが幸いにして、うだるような炎天下でも、木陰に入ってしまえばかなり涼しかった。さわやかな初夏の風が汗ばんだ体に心地よい。裕二のすぐそばでもう一つ独特の息遣いが聞こえる。向こうもどうやら疲れているらしい。

 息を整えながら辺りに視線を巡らせれば、白磁の鉢植えがいくつか鉢棚から落ちていることに気が付いた。使用人がいなくなったことと心労で、ここまで気が回らなくなっているのだろう。必ず解決しなければと裕二は心に誓った。

「ん?」

 と、鉢棚の陰にボールが転がっているのが見えた。恐らく先ほど勝が言っていたものだろう。

――これ使えるんじゃねえの?

 四つん這いになって拾おうとして、止めた。

「これ、ちゃんと伝えないといけないな」

 背後に首を向け小さく語り掛ける。理解したのかしていないのか、熱気を冷ます息遣いだけが返ってきた。

「ったく、お前のために皆大変な思いしてるんだぞ」

 こちらを見つめる能天気な顔に、ついついぼやいてしまう。

 ユキの準備が終わり次第、連絡が入ることになっている。出来ればユキにはもう少し時間をかけてほしいと思っているが、初仕事である裕二にはどの程度の時間がかかるかの見当もつかない。ユキの言う『手荒な方法』がどれだけのレベルなのか分からない以上、それまでに捕まえるか、その半歩手前まで追いつめておかなければならない。しかしながら、一人では実際限界なのもまた事実だ。せめてもう一人ほしいところだ。

「まぁ何か方法を考えるか」

 出来る事には全力で向き合う。そうすれば何らかの打開策が見えてくるはずだ。決意を新たに裕二は立ち上がる。

「……はい……捕まえた」

 そんな裕二の思いを知ってか知らずか、背後からユキがあっさりと手を回して捕まえてしまった。回復しかけた疲労を一気に感じ、裕二は膝から崩れ落ちた。


▽  ▲   ▽   ▲


 眼鏡をかけている。

 小学生にとって同級生にちょっかいをかける理由はそれで充分であった。桧村少年も小学校入学当初はそれがいやでたまらなかったが、夏を迎える頃には気にならなくなっていた。

 あるプールの授業の日の事である。

 更衣のために水着を取り出し、ふと教室の窓からプールの方を見ると、ぼんやりと人影が見えた。目を凝らして見てみると若い男のようであった。高学年用の深いプールのまわりをうろうろしているらしい。見覚えのない男ではあったが、元々教員でさえ名前を知らない大勢いる。事務員や用務員まで含めたらお手上げであった。

――大人は大変だなぁ。

 その男に対してもその程度の認識でしかなかった。何かを気にするでもなく、裕二は眼鏡を置き服を脱いだ。

「眼鏡取った!」

 それを見計らっていたかのように同級生の一人が眼鏡を取って去って行ってしまった。

「おい返せよ!」

「良いじゃん別に。少しだけ少しだけ!」

 そういう問題ではない。眼鏡を他人に触られるのは、内臓を直接触れられているような何とも言えない気持ち悪さがあるのだ。

「ちゃんと返すから」

 上半身裸のままつかみかかる裕二を、少年は軽くいなし、眼鏡を装着した。

「どうだ? 似合うか?」

「似合わねぇ!」

「返してやれよ! 桧村君嫌がってるだろ!」

「次俺な!」

「良いから返せって!」

 裕二が文句言うのも聞かず、数名の同級生たちがこぞって眼鏡をかけ始めた。どれだけ大きな声を出しても効果はなかった。

 現在ならば放っておいてさっさと着替えてしまえば良かったのだと分かる。同級生らはむきになる裕二が面白かっただけなのだから。だが当時は一大事であった。

「レンズに触るな!」

「お、誰かもういますねぇ」

 裕二の声などどこ吹く風。眼鏡が回ってきた同級生が、精いっぱいの優等生口調でプールの方を見て、言った。

「は?」

「何言ってんだ?」

「誰もいねえぞ?」

 瞬間、どよめきが走る。

「いや、いるだろ? 男の先生」

 同級生の困惑の意味が分からず、思わず裕二も口を出してしまった。優等生口調の同級生も眼鏡を取りながら続ける。

「いるじゃん。大きいプール――」

 だが、言葉は続かなかった。みるみるうちに少年の表情は困惑し、顔面からは血の気が引いていた。

「え、なんで!?」

 かけては外し、裸眼と眼鏡とでプールを何度も見比べる。それにおかしい事に気が付いたのか、別の同級生が眼鏡を奪い、同じようにしてみる。その彼もまた、同じように顔面蒼白になった。

「おばけだあああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 同じくプールを見比べていた、三人目の少年が耐えきれないように叫んだ。その声を呼び水にして、教室内にパニックが訪れる。隣のクラスの教員が慌てて駆け付けたが、子どもの要領を得ない説明に事態は収拾をつけられなかった。

 この出来事が原因となり、桧村少年は同級生らから腫れ物に触られるような小学生時代を過ごすことになった。

――桧村君は幽霊が視える。

――桧村を怒らせると呪い殺される。

――桧村の家ではやばい儀式をしている。

 噂はあっという間にクラス中、学年中のみならず学校中、学区中へと広まり、桧村少年を孤独にした。時折近づいてみる者もいたが、ほとんどは好奇心と憐れみで、中には噂をうのみにして利用しようとする者さえいた。それが嫌で、裕二は中高大と進学するにつれ地元から離れていった。その間に何度も眼鏡を買い換えたが、例え量販店で買った量産品であっても裕二が数週間使うと霊視能力を付与させてしまった。

「あぁ、確かに見えるね。面白れぇ」

「俺が使ってる眼鏡はそうなっちまうんだよ。嫌になる」

「コンタクトにすれば良かったんじゃねえの?」

「アレルギーが出たんだよ」

「そっか。じゃあ、あんまり人に貸さないほうが良いな」

 大学でのこのやりとりを最後に、裕二は他人に自身の眼鏡を触れさせていない。恐らく、死ぬまで触れさせることは無いだろうと思っていた。


▽  ▲   ▽   ▲


「ボアッ!!」

 裕二から受け取った眼鏡をかけると、勝は思わず叫んだ。

「金婚式の時の写真に写っていた犬で間違いないですか?」

「え、えぇ」

 裕二の問いに勝は答える。勝の目にはユキの腕の中で呼吸を整えている日本スピッツが見えている事だろう。

 この家に関するなるべく多くの関係者が写っている写真を用意しておいてほしい。

それが、ユキが電話で頼んでいたことだった。その求めに応じ、勝は結婚式、新築祝い、社長就任祝いなどの写真を用意していた。その中の一枚、この屋敷で撮影された勝夫妻の金婚式の写真に、一匹の日本スピッツ――ボアが写っているのを、ユキと裕二は見つけた。同時に今現在、犬を飼っているような形跡が敷地内に見当たらなかった。

 何より、勝家で起きた怪奇現象の数々が、人が恨みをぶつけるにしてはあまりにもイタズラじみていた。

「この子がきっと……犯人……」

「馬鹿なっ! ボアが死んだのは十年以上前だ!」

 ユキの言葉に勝はつい感情的になって反論した。思いがけぬ大声に、ユキが身をすくませる。一瞬力がこわばる隙を突いて、ボアはユキの腕を抜け出し勝の足元へ駆け寄った。

 十数年ぶりに見る愛犬の姿。死ぬ直前のよぼよぼの姿ではないが、大人になっても子犬のように垂れたままだった耳の形は間違いようがなかった。

 およそ三十年前、流産した時のように憔悴する妻に勝が贈った犬だ。名前はなんとなくの語感で勝が決めた。それから十数年。会社の人間や使用人たちを家族ごと呼んでの盛大な金婚式から一週間もたたずにあっさりと逝ったのを覚えている。まるで式が終わるのを待っていたようだった。十六歳での大往生だと使用人は言ったが、ならせめてあと一ヶ月待って十七歳になるまで待てなかったのかと思った。

 祓い屋の言う通りならば、それからもずっと住み着いていたことになる。にもかかわらずこれまで一切そんなそぶりを見せなかったのはなぜなのか、勝には合点がいかなかった。

「奥様がご存命だったからですよ」

「どういうことでしょうか?」

 裕二の言葉に勝の頭には疑問符が浮かぶ。まさか妻がボアの霊を従えていたとでもいうのだろうか。

「そのまさかです。もしかしたら躾けていた可能性もありますが」

「しかしアイツが霊を視えるなんて話、聞いたことがありません」

「言い出せなかったのだと思いますよ。私もよほど信頼できる人以外には話しません。おかしい奴だと思われたくないですから」

 言って、裕二は言葉選びを間違えたことに気が付いた。これでは信頼されていなかったといっているようなものだ。

「……多分」

 フォローの言葉を探していると、ユキが口を開いた。

「……多分、奥さんが言わなかったのは……心配かけたく……なかった、から」

「それは、わしにですか?」

 無言の首肯。これは我々の想像になりますが、と前置きして裕二はユキの言葉を引き継ぐ。

「おそらく奥様が霊視能力に目覚められたのは流産の後だと思います。最初に見たのは多分、水子――お腹の子だったのではないでしょうか」

 事故から一年経った時に現れた我が子。二度と会えないと思っていた子に会えた喜びと、これを主人に知られた時にどう思われるかの現実的な思考が入り交じり、夫には黙ったまま我が子を育てることにした。

「玄関のトレッキングシューズ、あれは奥様の遺品ですよね?」

「はい。アイツは登山が趣味でしたから」

「多分、お子さんと二人きりになるために始めたのではないのでしょうか」

 だが、母の愛を受けた子は霊と言えども大人になり、親元を離れる時が来る。流産からおよそ三十年、再び我が子を失った勝の妻は深い悲しみに沈んだ。誰にも理解されず告げられないその悲しみを勝の妻は懸命に隠しこれまで通りの生活を送ろうとした。

「けれど勝さんの目はごまかせなかった」

 なにか妻の気がごまかせないかと考えた末の贈り物、それがボア。

「それからは先ほどお話しした通りです。大往生の末息を引き取っても、霊となってこのお屋敷に住み続けた。奥様がご存命中に何もなかったのは、奥様が何かをされていたからでしょうね」

 しかし妻の死後、いたずらっ子の顔が表に出て、怪奇現象を引き起こした。

 もちろん、すべてユキと裕二の想像だ。勝夫妻の事情をより深く知る人ならば、また別の結論も得られるだろう。だが、裕二は思うのだ。

「奥様が勝さんを恨んでいるなんてこと、ないと思います。だって勝さん、奥様の事大切に思って行動してきたじゃないですか」

 裕二の隣でユキも大きくうなずく。

 勝はただ、不器用なだけなのだ。不器用なりに、伴侶を愛し寄り添ってきた。それが分かっていたから、妻も勝を思いやり霊視能力を黙っていたのだろう。互いを思いやり残ったのが恨みだけだと、若い二人は信じたくなかった。

 裕二の言葉に、勝は眼鏡を外すと掌で顔を覆い、嗚咽を漏らした。そんな勝を、二人ただ静かに見守っていた。


▽   ▲   ▽   ▲


 ボアの黄泉送りの儀式が終わると、勝は妻との半生を語りだした。勝は何もしてやれなかったと言っていたが、話し始めてから夕方までの数時間で九冊のアルバムと数えきれないくらい贈り物の品が出てきた。写真の中の夫妻はどれも笑顔に満ちていて、おしどり夫婦の理想形のようであった。

 また、馴れ初めからボアを飼い始める以前までの写真を時系列で追っていくと、小さな赤ん坊が美しい女性へと成長する姿が確かに記録されていた。この女性が勝らの娘だったのだろう。そのことを勝に伝えると目を潤ませて微笑んでいた。

 日が傾きかけたのを合図にして、二人は屋敷を後にすることにした。勝とともにバス停でバスを待つ。

「世話になったね」

「……お役に立てて……よかった、です」

 差し出された勝の手をユキはそっと握り返す。力強い握手を終えると、続いて勝は裕二へと向き直った。

「鉢棚、明日にでも移動するよ」

「ありがとうございます」

 裕二が鉢棚の裏に見つけたもの。それは丁寧に石を組まれて作られたボアの墓であった。木の影に建てられたそれを、ボアの霊は拠り所にしてきたのだろう。あるいはボールのみならずサンダルや、ちぎれた新聞紙の破片なども見つかったことから、ただの隠し場所なのかもしれない。ただ、ボアのみならず勝にとっても大切な場所であることには違いなかった。

「礼を言うのはわしの方だ。お陰で大切なものを知ることが出来た。ありがとう」

 言ってユキにしたような力強い握手をする。初めて見たような細い老人の姿はどこにもなかった。窓の外から何度も何度も深々と頭を下げる勝を置いて、バスは出発した。

「……どうだった? ……初仕事」

 真っ赤な夕日に照らされながら、ユキは裕二にポツリと問いかけた。

「正直きつかった」

 体を大きく伸ばして答える。つられるように大きなあくびも出た。体力の限界である。一刻も早くシャワーを浴びたい。今日はきっと泥のように眠れることだろう。

これから暑くなっていく中で、連日おいかけっこはごめんである。

「でも、同じような依頼ならまたやってもいいかもな」

 危ないものを排除する仕事ではなく、掛け違えてしまったボタンを付け直す仕事。誤解から生じる恐怖を安心へと変える仕事。そんな仕事なら自分のこの体質も役立てられる気がした。

「………………」

 そんな裕二の言葉に、ユキは考え込んでしまった。

「そんな顔しなくても、しばらくは付き合うって……」

 どうせ乗り掛かった舟だ。最初から一回だけで終わらせるつもりは裕二にはないのだ。しかし、ユキはそれで安心したのか表情を明るくさせる。

「あ、そういえば」

 気になる事があって裕二は、鞄から携帯電話を取り出し、勝のフルネームを検索した。そして検索結果が出ると、大きく溜息を吐く。

「就職先斡旋してもらえば良かった」

 誰もが知る巨大企業のトップ。それが企業人としての勝の顔であった。三流大学卒の裕二からは雲の上の存在だ。

「……もし良かったら、うちに――」

 小さく呟いたユキの言葉はバスのエンジン音にかき消された。

「ん? 何か言ったか?」

「な、なんでもない!」

 珍しく大きな声を出してしまった。慌てて窓の外を見る。

 窓側の席で良かったと、ユキは心の底から思うのであった。

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