うらめし食堂

かめかめ

うらめしいやら、めしうまいやら

 窓の外からただよってくる、みそ汁のうまそうな匂いで目を覚ます。それが三百六十五日ずっと変わらない俺の朝だ。耳をすませば引き戸をガラガラと開ける音や「いらっしゃい!」という威勢のいいおやじさんの声も聞こえてくる。


 うちの裏には『うらめし屋』という冗談みたいな名前の飯屋がある。年中無休で早朝の朝めしタイムから深夜の夜食タイムまで、おやじさんが一人きりで店を切り盛りしている。どれだけスタミナがあればそんな仕事ができるのか謎なんだが、おやじさんはいつも大柄な体で楽しそうに働いているから、健康面の心配をする必要はなさそうだった。


 目が覚めてしまえば、二度寝は出来ない。このうまそうな匂いにあらがって布団に潜り込むことなんて、食べ盛りの高校生男子にできるわけがない。俺は勢いをつけてベッドの上に起き上がると、カーテンを開けた。日差しが目につきささる。今日も馬鹿みたいに晴れている。透き通った初夏の空を見上げていると、なにやらいいことでもありそうだと思えてきた。


「さて!」


 短いひとり言を口にしてから顔を洗いに行くことにする。今すぐにでも外へ出てうらめし屋に行きたいのはやまやまだけど、隣の家の佳織に見つかったらぎゃんぎゃん文句を言われるから気が抜けない。本当なら無精ひげのままで一日過ごしたって平気なんだけど、そんなこと言ったらキックが飛んでくる。空手で鍛えられた蹴りは、十分に手加減されていても恐ろしい。俺はキックに打ちのめされる前に飯を食いたい。さっさと身づくろいをすませると、財布と鍵だけ抱えて家を出た。


「こらー! 裕司ー!」

 

 隣の家の二階から飛んできた大声に思わず首をすくめた。


「寝ぐせくらい直しなさーい!」


 振りあおぐと佳織が窓から顔を突き出して俺をにらみつけていた。たいそうな迫力に押されて慌てて髪を押さえつけたが、寝癖を直せと言った当の佳織のショートカットの頭の方が爆発でもしたようなひどい有り様だった。


 とりあえず佳織のお気に召すくらいには髪をととのえ、やっとうらめし屋の戸を開けた。


「いらっしゃい!」


「朝定食」


「あいよ!」


 毎日のやり取りを今朝も繰り返す。この店にはメニューは四つしかない。

『朝定食』『昼定食』『夕定食』そして『夜定食』だ。

 だったら「定食」とだけ言えばいいものを、わざわざ「朝定食」と頼むのは、昼だろうと夕方だろうと深夜だろうと「朝定食」を頼むことができるからだ。もちろん、逆に朝っぱらから「夜定食」を頼むことだってできる。

 だが夜定食は寝る前の胃に優しいようにだろう。とても軽い、ライトミールだ。半熟卵が乗ったお粥と、梅干、ザーサイ、たくあん。それとプーアル茶。ダイエット中の女性でも安心な夜食なのだ。俺には全然足りない。


 ひるがえって、朝定食は豪華だ。

 だし巻き卵、焼き鮭、ほうれん草のおひたし、冷ややっこ、ポテトサラダ、揚げとワカメのみそ汁。それと炊きたての白飯。うらめし屋の飯はいつでも炊き立てで、お代わり自由だ。もりだくさんのおかずを相手に俺は丼みたいにどでかい茶碗で三杯はお代わりする。

 つやつや光る白米から上がる湯気はどこか甘くて、ほお張るごとに口いっぱいに幸せがあふれていく。


 まずは白飯を口いっぱいに。それからみそ汁をすすって飲み込むと、白飯の甘さとみそ汁のかつおだしの香りが溶けあって、俺は日本に生まれた幸運に感謝する。

 だし巻き卵はみそ汁とは違って、アゴだしというトビウオのだしで香ばしく仕上げてある。ふんわりとした黄色のだし巻き卵を白飯の上に乗せて飯といっしょに口に入れる。とろけるようなやわらかさのだし巻き卵はほんのりとした甘みもあって飯とともにするりと喉を滑り落ちていく。それを追いかけるようにまたみそ汁を飲む。至福だ。

 

 次々とおかずを攻略して俺の腹はようやく人心地ついた。いつもなら飯を掻きこむと慌てて店を飛び出して学校へ向かうのだが、今日は日曜日。心ゆくまでまったりできる。

 さいわい他に客はいない。店の隅の本棚から先週号の漫画雑誌を取ってじっくりと読む。そうしていてもおやじさんは何も言わない。長居する客に嫌な顔もせず、じゃがいもの皮をむいている。窓から斜めに入る光がきらきらと輝いて、炊飯窯から上る湯気が光の中に消えていく。


 こんなにのんびりと満足な日曜日を、俺は生まれて初めてむかえた気がする。腹はいっぱいで静かで心驚くことなど何もない。いつまでもここにこうしていたかった。

 だけどそろそろ退散しないと、いくらなんでも長居しすぎた。それでもなんだか去りがたくて、トイレでも借りてみようかと席を立った。

 店の奥、ウサギの絵が描かれたのれんをくぐってドアを開けると、そこに幽霊が立っていた。


『うらめしや~』


 冗談みたいなセリフを言って、幽霊は俺に憑りついた。

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