源氏物語サイドストーリースピンオフ

真夜中 緒

橘の名残

 満には母が二人いる。

 一人は満が生まれた時に怨霊にとり殺されたとかいう生みの母だ。

 満は元服するまでの間、この母の両親である祖父母に育てられた。この祖父母の元で一緒に育てられたのが、母方の伯父の娘である恭子だ。満はこの恭子と恋愛事件を起して父である源氏の手元に引き取られた。

 この時母代として引き合わされたのがもう一人の母夏子だ。

 その頃まだ六条院は造営中で、夏子は二条東院の西の対に暮らしていたが、すでに夏の方と呼ばれていた。

 夏子に聞いたところによると、もともと幼名が小夏で、ずっと小夏君とか夏の君とか呼ばれてきたのだそうだ。

 正直に言えば艶福家として名を馳せている父の相手としては地味な人だと思った。特に権の北の方である二条院の女君は美貌と教養で名を馳せた人で、嫡男である自分の母代がなぜ その人でないのかと訝しんだということもある。

 ただ、結果的に夏子は素晴らしい母だった。

 控えめだがよく気が付き、大切なところを外さない。満への様々な助言もまことに時宜、道理を心得たものだ。

 元服も済んでから引き合わされた母ながら、満は夏子に親しんだ。

 二条東院に移ったころ、満には様々な屈託があった。大きなものはまず恭子との仲を割かれたこと。それから元服際して蔭位の特典を受けられなかったことだ。

 大臣の父のただ一人の男子でありながら、満は叙爵を許されず、下位貴族の子息に混ざって大学寮に通う羽目になった。

 恭子と引き裂かれたこともそれが原因のように思えて、満は鬱々とした日々を送っていた。

 満の位階の低いのを伯父に侮られているのだと意地になり、恭子に手紙を書こうとさえしなかった。

 幼い頃から親しんだ伯父であっただけに、裏切られたような気持ちだったということもある。

 その満に、こっそり文を書くようにけしかけたのが夏子だった。

 「邸の内の女には見えないことも多いのです。きっと不安に思っておいでですわ。何かツテはおありなのでしょう?」

 恭子もまた、引き立てられるように父の邸に引き取られていた。もちろん素直に文を届けられる訳はない。ただ、祖父母の邸の女房を仲立ちにすれば、時間はかかっても文通は不可能というわけでもないだろうと思われた。

 「大丈夫。きっとなんとかなります。それまで姫君を支えて差し上げなさいませ。」

 自分が娘を持つ親となった今ならわかる。伯父もまた裏切られた気分だったのだと。

 娘と姉弟のように育った甥が、その娘に手を出して来るなどと考えたこともなかったのだろう。東宮妃にあげようかという心づもりのあったこととは、多分また別の話なのだ。

 結局、恭子のことは、夏子に言われたようになった。

 ついに伯父の邸での宴を口実に、恭子を許される話が舞い込んだとき、装束を整えてくれたのも夏子だ。

 それは普段着ているのと同じ染の下襲で、こういう場合には少々軽々しいようにも思ったのだが、夏子は少女のようにうふふと笑った。

 「大丈夫。まずはお父上のもとに挨拶に行かれませ。」

 源氏はどうやら次第を知って待ち構えていたようで、こういった場合の心得を細々と聞かされた。

 「その下襲の色は軽々しくて良くないな。」

 そう言うと、自身の為の新しい衣装から一枚を選んでくれもした。

 「なかなか男ぶりが上がったぞ。自信を持って行きなさい。」

 着替えた満に笑いかける源氏を見て、満は気づいた。夏子はこの一幕のためにわざと軽めの色を選んだのだ。源氏の寿ぎを満に纏わせるために。

 それはおそらく夏子以外、誰にもなし得ない心遣いだった。


 夏子は美しい女ではなかった。満が出会った頃には髪も幾分薄くなり、明らかな老いの兆しがあった。若いときであっても華やかな美貌に恵まれてはいなかっただろう。

 ただ、この人独特の可愛げのようなものがあって、それは確かに得難いものと思われた。源氏が彼女を夏の御方に据えたのは、その辺りが理由だったのかもしれない。

 六条院の三人の御方。

 彼女たちこそがただの通い所ではない源氏の妻たちだった。

 やがて春の御方が薨じ、源氏が出家すると、夏子もまた出家した。

 いや、そこはいい。

 普通に尼削いで夏の庭に持仏を据えたのは、年齢的にも常識的な行動だ。驚いたのは源氏の死後の行動だった。

 夏子は髪を切るのではなく、剃り落としてしまったのだ。

 女房からの報せを受けて駆けつけた満が見たのは、青々とした頭で麻の衣を纏い、持仏を荷造りしようとしている夏子の姿だった。

 何を考えているのかはすぐにわかった。

 夏子は源氏の結んでいた庵に引き移ろうとしているのだ。

 満は夏子に自力で歩いて庵にたどり着く難しさを指摘して、とりあえず夏子を二条東院に移した。

 そうしておいて空き家になっていた庵に手を入れて、夏子を迎える支度をさせた。

 二条東院は夏子が相続していたが、あそこには源氏が引き取った女たちがいる。行き場のない者だからこそ引き取られていたわけで、源氏の没後もそのまま住まわせておくより他はない。その場所に夏子を置くことは、源氏の女たちの世話をさせるようで、息子としてはためらわれる。そのぐらいならいっそのこと山中の庵の方が、夏子には気楽だろう。

 満は目立たぬよう庵の住み心地に気を配り、最後に夏の庭から橘の一本を庵に移させて、夏子を庵に迎えた。

 

 満は夏の庭を見る。

 橘の白い花が咲いている。

 今、この六条院の夏の庭には、満の妻の一人である香子内親王が暮らしていた。

 彼女をここに移したのは夏子の意向で、それはつまり二度とは京に戻らぬ意志を示しているのだろう。

 夏子にも誰にも言ってはいないが、髪を剃り落とした夏子は不思議に美しかった。

 顔に刻まれた皺も、老いも、何一つ変わってはいないのに、あの独特の可愛げが急に花開いたように、少女じみた印象だった。

 満が夏子に引き合わされた頃には、すでに男女の中ではなかったらしい源氏も、あの夏子には食指を動かすのではないか。

 もしかしたらそんなことはわかった上で、夏子を夏の庭に据えた源氏だったのかもしれない。

 わかって、手放さずに夏の庭へ据えたとすれば源氏の慧眼はたいしたものだし、わからずにただなんとなく手放し難く愛着をもっていたのだとしても、それはそれで源氏らしいような気もする。

 夏を呼ぶ橘の花。

 やがて枝をしならせる、時じくの香ぐの木の実。

 夏の庭は夏子を失って、はじめての夏を迎えようとしている。

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