5-2 お願いだから空気を読んで
「…………」
廊下は走ってはいけません。とは言っても、廊下を走る程度の事、大して危ないとも思えないわけで。それならもっと、椅子の後ろの二本脚だけでバランスをとっちゃダメだとか、掃除の時に箒でチャンバラしてはいけないとか、そういった学校に潜むよくある危険への対策をメジャーなルールにするべきではないだろうか。そうしないから、俺がバランスを崩して椅子から転げ落ちたり、振り回した箒が女子に当たって理不尽な叱責を受けたりするのだ。
幼き日の過ちを振り返りながらも、あえて廊下で後ろを振り返る事はしない。
そう、例え放課後になって教室から出た俺を、自分では気付かれていないつもりの可乃が必死でストーキングしてきている事に気付いていたとしても。
「…………」
あの日、告白未満のあれ以降、俺と可乃の関係に変化があったかと言えば、別段そういった事はなかった。あくまでただの、譲歩して少しだけ仲のいいクラスメイト。少なくとも、教室で顔を合わせている間はそれ以上ではない。
ただ、あの日から今まで、俺と可乃が二人きりになる機会がなかったのもまた事実であり、可乃があの日の話の続きをする機会を窺っているのでない保証はどこにもなかった。
そして、今、この状況、可乃は明らかに俺の後をつけている。あくまで推測だが、人通りのない場所に着いた瞬間、「あらあら、偶然ですわね」なんて白々しい演技を装って声を掛けてくるつもりだろう。それは困る。
「…………?」
俺が玄関に向かっていない事を確認した後も、やはり可乃は離れていかない。
だが、それは想定内。だからこそ、俺はこうして写真部部室に向かっているのだから。
「こんちわっす、先輩いまっすか?」
「弘人くん? それに、海原さんも」
予想通り、部室にいたのは月代先輩ただ一人。ノートに何かを書いていた先輩は、俺の呼びかけに顔を上げると、俺とその後ろの可乃を見て意外そうに首を傾げた。
「あ、あらあら! 偶然ですわね!」
俺の四歩ほど後ろ、足を止めた可乃が、予想通りの台詞をなぜか怒鳴り飛ばす。
「さっきお前に同じ事言われた気がするけど、それで騙せると思ってるのか?」
そもそも、近すぎるだろ。どんな追跡だ。
「なんの事かしら? 私は偶然、そう偶然! ここを通っただけですわよ」
「と言うか、なんでお嬢様口調なんだ」
「……さぁ?」
自分の事も良くわかっていない可乃は置いておいて、先輩へと顔を向ける。
「どうも、おひさしぶりです」
「ひさしぶりと言っても、始業式の日にみんなで集まったばかりじゃないか」
写真部という部活は、その実、社交場のようなものだ。普段はまともに活動していないが、時折、誰が決めるでもなくなんとなく集まる。全員が集まるわけでもなければ、写真部以外の奴が紛れていたりもする会合は、つい数日前の始業式に行われたばかりだった。
「でも、あの時は先輩とはほとんど話せなかったですし」
「たしかに、そうだね。こうして話すのは、私が弘人くんに告白して以来かな」
「そう、ですね?」
和やかに進んでいくと思われた会話は、しかし先輩の一言で一気に流れが変わる。
「告白!? そんな、だから『弘人くん』って……」
いつの間にか隣に並んだ可乃が、驚愕の瞳で俺と先輩を交互に見つめる。
「やってくれましたね、先輩」
「甘いよ、弘人くん。私は空気を読まない!」
いくら先輩でも、他人、それも可乃のいる場ではその話を持ち出して来ないと思ったのが失敗だった。互いに抑止力となってもらうつもりが、これでは修羅場だ。
「ふふん」
なぜか得意げに胸を張る先輩は、自分のした事がわかっているのだろうか。まさか俺が可乃に告白されかけた事を知ってはいないはずだが、先輩なら知った上でやっていてもおかしくない、と思わされてしまう。
「それで、二人は付き合ってるの!?」
「いや、付き合ってはいないよ」
人を殺さんばかりの剣幕で俺に詰め寄る可乃に、脇から先輩が答える。
「えっ……じゃあ、先輩、こいつに振られたんですか?」
「そんなに私の不幸を喜ばれると、いっそ嬉しくなってくるね」
「あっ、えっと、その……」
絶望から歓喜、そしてバツの悪そうな表情へと百面相を見せる可乃を、先輩は悪戯っぽい笑みで眺めていた。
「なんて、ね。ごめんね、質の悪い冗談だよ。実際のところ、振られたというより、キープされてるというのが正しいかな」
「キープ、ですか?」
「そんな人聞きの悪い。保留と言ってください!」
「保留を英語で言うと?」
「……キープですか?」
「残念、リザーブだよ」
なんて事だ、俺は先輩をリザーブしていたのか。なんて恐れ多い。
「キープはどうしたんですか!?」
俺の代わりに可乃がツッコミを入れるが、それは野暮というものだ。
「って言うか、先輩をキープするとか、何様のつもりなのよ。それに、先輩がキープなら本命は……まさか!?」
「いや、無いから」
「ド畜生め!」
何をどうすれば、先輩をキープしておいてド畜生とか抜かしやがる猫派の女を本命に据えるという結論になるのか、俺には理解に苦しむ。
「それで、妹の友達と付き合うかどうか、結論は出たかな?」
「ああ、それ。そこまで本気で言ってたの?」
先輩と可乃の言葉に、なぜかすぐに返答ができない。
「……妹の友達は、やっぱり中々手強いですね」
冬休みが終わり、学校が始まってなお、俺はいまだ妹の友達と付き合うための手掛かりすら見つけられていない。可乃や先輩をキープなりリザーブなりしてまで、このまま夢を追い続けるのが正しいのかどうか、俺には正解がわからない。
「当たり前でしょ。あんた、妹いないんだから」
当たり前の一言が、俺にとってはひどく重い。そんな事はわかった上で、俺は妹の友達と付き合うと決めたはずなのに。
「……よし、帰る!」
このままではいけない。挫けそうな時、めげそうな時、諦めそうな時、そんな時のために俺は一枚の書を用意している。一刻も早く家に帰り、あれを眺めて英気を養おう。
「あれ、もう帰ってしまうのかい?」
「すいません、先輩。俺は書を眺めなくてはいけないのです」
「それなら、私も行っていいかな? 話すのもひさしぶりだし、もう少し一緒にいたいな」
素早く身を寄せてくる先輩に、更に加速度的に心が揺らぐ。告白してしまい吹っ切れたのか、以前より遠慮のない振る舞いが心臓と股間に悪い。
「じゃあ、私も! 私も行くわ!」
可乃に関しては、距離感は変わらないが、俺と先輩の触れ合った部位を親の仇のように睨んでおり、心臓に悪く股間にはいい。股間にはいい?
「よし、二人でも三人でもどんと来い」
部屋に二人きりという状況よりは、まだ三人いた方がマシかもしれない。かくして、俺は月代先輩と可乃を引き連れ、自分の部屋に向かうのだった。
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