第10話
息子が中にいる、という叫び声は辺りに響き渡った。途端、周囲の野次馬たち含め、その場にいた全員がざわつき始めた。
えっ、嘘、本当なの、とてんでばらばらに、個々に呟いている。
「む、息子さんが?」
警官は吃りながらそう繰り返すと、小さくも口を開けたままになっていた。動揺しているのが手に取るように分かった。
「七階の三号室です」
動転している女性の隣にいる男性が口を開いた。口ぶりからして、おそらく彼女の夫だろう。
「階段からすぐそばの部屋だから、登ればすぐに見つかります。まだ燃え広がっていない今にでも行けば、息子を連れて外に……」
「い、いや、ここを通すことはできません」
夫はしかめ面になり、声を張り上げる。
「なんでだっ」
「危険だからです」
夫は唇を噛み締め、警官の胸ぐらを掴んだ。
「息子の方がもっと危険な目に遭っているんだぞっ!」
警官はなんとも言い返せず、目を逸らす。
「おい、消防はまだなのかっ」
周りに向けて、警官が高々に叫ぶ。だが、誰に対してではない。誰か答えられる者はいないのか、いてくれ頼む。そんな気持ちが混じっていた。
「もうまもなくですっ」
かろうじてそんな返答が来たものの、果たしてそれが正しい情報なのか信憑性などない。こんな混乱の状況下で、正確な情報など、無いに等しいのだろうから。
夫は荒く手を離す。掴まれた警官は何をするのだと言う事はなく、ただ視線を逸らしていた。
どうにかしようとしても、どうにもできないもどかしさ。集合的な思念のように辺りを渦巻く。嫌になるぐらいに、痛いくらいに、ひしひし伝わってくる。かと言って、出来ることはない。
となれば、ただ一刻も早く消防車が到着することを祈……ん?
視界の隅で動く人影。その位置にいるのは、死確者だ。
視線を向けると、死確者はその夫婦と警官を横目に進んでいく。
な、何故?
「何をしてるんです?」
「決まってんだろ」死確者はおもむろに私を見た。「助けに行くんだ」
またか、と、まだか、という顔を死確者に向ける警官。また別の若い、少し髪が長めの男性だ。
「ですから、中は危険……」
死確者は不意に足を止め、視線をその警官に向けた。
「るせぇよ」
低く太く、けれど大きく威圧感のある声を放つ。これこそ、ドスの効いた声、と表現するのだろう。刃物のように鋭い目線も相まったこともあるだろう。警官は止めようと伸ばした手を、恐怖と怯えで思わず引っ込めていた。
「ここで待ちぼうけしてろってのかよ」
「し、しかし……燃え広がるスピードが早く、中に入ることすら危険なんです」
「構わねえ。どうせ死ぬんだからよ」
「え?」
驚きと戸惑いを混ぜた感情が上げた眉に込められている。その隙に、死確者は少し小走りでビルの中に入っていく。
「あっ、ちょっとっ」
今度は周りで規制していた警官が一斉に駆け寄り止めようと試みる。
ガラスの激しく割れる音が聞こえ、野次馬の中からまたも甲高い悲鳴が上がる。しかし今度は、破片がビル入口近くへ落下。警官たちは反射的に顔を守ろうと、立ち止まる。死確者の行動を邪魔させない、とでもしているかのようだ。
地面で細かなガラスがはねると同時に、またも悲鳴が上がる。警官たちが次に視線を上げた頃、死確者はもうビルの中へと入って……あっ、いやいや何を私は平然と実況しているんだ。
私も行かなければマズいじゃないか。遅れを取り戻すため、私は小走りで追いかける。
階段を一歩一歩上がっている死確者。階を上がる程、燃え盛る炎に近づく程に辺りは赤みを帯び、煙の色は黒くなっていく。
私は熱さなど微塵も感じないので問題はないのだが、死確者は人間。当然感じる。
だから、「熱いですよ」と声をかけた。
「ったく、相変わらず空気読めねえ奴だな」
少し顔を後ろに向け、呆れた口調でそう言い放った。
「いいんだよ、熱かろうがなんだろうが、怖いもんなんかあるかってんだ」
登るのをやめない死確者。その行動が強がりではないという証拠となった。嘘偽りない、本心で話しているのである。だから、こんなにも臆せずに進めるのだ。
「無駄口叩かねぇで、黙って手伝え」
え?「手伝い、ですか?」
「なんだその口調。手伝うためについてきたんじゃねえのか」
「えっ、あぁ、そう、ですね」
「何でもいいよ。お前、何でも出来んだったよな? その都度指示すっから、とりあえずついてこい」
「わ、分かりました」
この状況下で、私は頷くことしかできなかった。
「んで、お前はどんな指示を受けたんだ?」
死神は平然とそう尋ねてきた。しかしながら、おかしいぞ。
「聞いてしまうのか?」
「あれ、聞いちゃ悪かった?」
「いや、悪くはない。悪いことでもない。けれど、ほら最初に話しただろう。順番に話すと」
「ああ」
「けど、聞いていることはオチではないが、オチに近い部分だ」
「ほーほー」
「要約は大切なことではあるが、物事は順序立てて話さなければ理解できない。掻い摘み過ぎると、何が何だか分からなくなってしまうんだ」
「へいへいへいへい」
「へいへいが二回ほど多い」
私はため息をついて、「最初は火を払い除けた」と、ご要望の事柄について話した。
「払い除けた、というと?」
「炎はビル全体を飲み込もうと盛んに燃えていたということは話しただろう」
「確か三階の雀荘から出火して、上下階にも燃え広がって……ああ、そうか」
気づいたらしい。
「子供助けるには、まず燃える炎を突破しなきゃいけないもんな」
「そういうことだ」私は人差し指を立てた。
「いつもの、天使様の特権を発揮したってわけか」
「まあな」
「そういや話は逸れるが、何が原因だったんだ?」
聞かれると思って調べておいてよかった。
「煙草だ。一人暮らしの中年男がちゃんと火を消さずに寝た。いわゆる不始末というやつだ」
「かぁー」死神は呆れたように目を覆うように手を添え、空を見上げた。
「いつの時代も火事の元だな。ったく、いつになったら人間は学ぶんだか」
それに関しては、激しく同意だ。
「んで、炎の中をくぐり抜けたんだろうから、辿り着いたんだよな?」
「ああ」私は頷いた。「そこで、私の特権の二回目を使ったんだ」
死確者はハンカチを顔に巻いて結んでいる。逆三角形の状態で口元を覆ってはいるものの、時折咳き込んでいた。
「ここか」
ドアの斜め右側のコンクリートにある表札を眺める。七〇三。ここで間違いない。
煙は既に七階にまで充満しており、嫌悪感のある黒い煙までもがちらつき始めていた。時間はない。
回転式のドアノブに手をかけ、左右に回す。しかし、どちらに回しても、押しても引いても開かなかった。
つまり、鍵は閉まっている。夫婦が外にいたということは、留守にするからと鍵を閉めたのだろう。
「両親から鍵もらうんだった、なっ」
死確者は扉に身体を打ち付けた。勢いよく、激しく。開けようと何度も。けれど、びくともしない。
「チクショウっ。ここまで来て……早く開けってんだよ、バカヤロウっ」
苛立ちを隠せない死確者。それもそのはず。火の手はもう六階にまで広がっている。時間は限られているのだ。
「変わります」
私は死確者にそう告げて、ドアの前から退かし、人差し指に力を込めて強く振った。
蝶番が無理矢理に、連続して外れる音が聞こえた。内開きだったのか外開きだったのか分からないが、とりあえず内側へ押し開けた。
隙間から入り込んだ煙が部屋を満たそうとしていた。
そのせいだろう。正面に見える居間で、子供がうつ伏せに倒れているのが見えた。
死確者は土足のままで踏み入ってくる。駆け寄り、膝を落とす。口元に右手のひらをかざし、左手のひらを胸の上に置く。指先に神経を集中させる死確者。感覚を研ぎ澄ましている。
「大丈夫だ、まだ息はある」
続けて肩を揺らし始める死確者。
「おいボウズ、しっかりしろ。おい」
波打つように揺れる子供。しかし、目は開けない。気絶してしまっているのだろうか。
あっ、そっか。すっかり忘れてた。
口元に手を寄せる。目的は当然、自分の声を拡げるためだ。
「この中に、子供の担当天使はいらっしゃいますかー」
周囲を見回しながら、大声で呼びかける。勝手に言っておいてなんだが、飛行機のCAになったようで、人間に聞かれているわけでもないのに小っ恥ずかしくなる。
肝心の反応だが、返答も挙手も何もない。
……うん、いなさそうだ。
ならば、子供の死期は今この時ではない、つまりは死確者が助けたとしても問題はない。
「何してんだ」
あっ。「こっちの話です」
「だ……れ」
幼い声。私と死確者の視線は落ちた。子供は目を細く開けていた。
「おじ……さん、だれ」
死確者は怖がらないようにと、笑みを浮かべた。
「パパとママの知り合いだ」
今にも閉じてしまいそうな眼で死確者を見つめている。
「しり、あい?」
「ええっと……じゃあ、友達だ」
「おともだち?」
「ああ、そうだ。ここは危ないから、一緒に出よう。ほら手を出して」
死確者はハンカチを片手で解き、子供の口元に被せ、そして優しく抱きかかえた。
「急ぐぞ」
「はい」
玄関へと出ると、階下にもう火の手が迫ってきていた。
「チッ、もっと遅くていいのによ」死確者は私に視線を向けてくる。「頼む」
「はい」
私は人差し指を炎に向けて振る。
あれ?
炎の間に空間が出来る。だが、一瞬のうちに消えてしまう。
今度は大きく振ってみる。
……よし、もう一度。
もっと大きく。
もう一回……あとちょっと。
「どうした?」
振り続けている素振りを見て、死確者が声をかけてくる。
「火が、言うことを聞かないんです」
「は?」
違うか。
「私の力が、効かないんです」
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