第3話
「アクシュは大事よ。力強くかはその時々だけどね」
死確者は、小説から視線を私の目に移してくれた。昨日とは違う小説だ。読みふけっているのか、テレビを付けてはいるもののそちらは一切見ていなかった。
昨晩、死確者の母親はあのまま部屋に泊まり込んだ。死確者は体調を崩したのを心配したからだ。結局、未練を聞けずじまい。だが、今朝体調は回復し、また母親が“パート”という予定があるらしく、夜まで来れないらしい。
距離など関係ない私は、待合室から諸々の情報を得た。聴覚からだけでない。視覚的にも得たことがある。暇つぶしがてら、昨日から観察をしていたのだが、以前と同じように医者やナースはほぼ一定間隔でやってくることが判明した。同時に、その時間はある程度定まっているのも同じだった。つまり、母親がしばらく返ってこない今は、素晴らしくタイミングがいい、というわけだ。別に一晩を無駄にしたわけではない。
そのため、早速こうして部屋に入り、続きを話した。そして、まあなんやかんやあって先程、「力強いアクシュって大事ですか?」という私の問いに答えてもらっていた、という次第だ。
いやしかし、昨日はねのけるような言葉を投げつけられた時は、どうなるかと思っていた。言葉としては辛辣さはなかったが、ニュアンスに淡々した拒絶を感じていた。こういうのは、激昂されるよりも大変である。芯があるという言い方が正しいか分からないが、言葉に耳を貸さない場合が多く、難航する可能性が高いのである。
正直、ある程度心を許していないと不可能な雑談をここまで早く出来るとは思わなかった。一晩が経ち、死確者自身気持ちの整理がついたのか、それとも考えにまとまったのか、死確者は打ち解けてくれたのである。読書から視線を向けてくれてるのもその効果が表れてる証拠だと言っていいだろう。
何故突然に態度が豹変したのか、言葉は間接的にして和らげながらだが尋ねてみた。曰く、「話し相手がいないってわけじゃないけど、ほら、天使と話できるなんてそうそう出来ないし、なんか楽しそうだから」とのこと。予想外な返事に少々驚きつつも、私は胸をなでおろした。未練についてはまだ確定していないがとりあえず、大きな壁は越えることができた。
「アクシュすると、なんて言うんだろうな……」死確者はアクシュについて解説を続けてくれた。「こう、生きてるんだなぁ〜って感じがするんだよね。流れている血の流れを、拍動を手のひらで感じることできて、あっこの人も人なんだって、確認できるっていうかさ」
「それが大事なんですか?」
私がアクシュしたのは、死神とである。拍動などこれっぽっちも感じないため、必要なことなのか分からなかった。
「大事よ。凄く大事」
軽く揺れる死確者の頭には包帯が巻かれていた。髪はなくなり、幾重にも巻きつけられていた。痛々しさを感じるのは私だけではないはずだ。
「アクシュするだけで不思議と安心できたり、穏やかになれたり、信頼できたりするの。それに、握った手から相手の気持ちを察したりもできるんだから」
「ほ、本当ですか!?」私は思わず少し高い声が出た。目が自然と開いているのを感じる。
「凄いでしょ、アクシュって」
「は、はい……」
そんな、まさか人間にそんな能力があったなんて。だけども、そんなこと初めて聞いた。もしかしたら、初めてこの事実を知った天使かもしれない、と心からの嬉しさと興奮が体を駆け巡った。同時に、確認したい気持ちが出てきた。
「つまり……つまりですよ、人間は皆さん、超能力者ということですよね」
「……なんでそうなる?」何故かキョトンとする死確者。
「いや、だって今さっき手を握れば気持ちが分かると」
私もキョトンとしながら話すと、死確者は何故か吹き出して笑った。初めて見た笑顔だった。
「さっきのはあくまで、たまにって話。そんな毎回毎回分かるわけじゃないんだ。伝え方が悪かったね、ゴメン」
「いえ……」少し残念だったが、納得がいった。どおりで今までその事実を知らなかったわけだ。
「でも」死確者はまたも表情を崩し、和らげた。「人間はみんな素質はあるのかもね」
突然、耳をつんざく高音が部屋に響いた。私も死確者も導かれるかのように、テレビに顔を向けた。死確者はそのまま、動かず釘付けになる。やはりそうなのか。
「好きなんですよね?」
「えっ?」
このような時の顔のことを鳩が豆鉄砲を食ったようというのだろう。
「これ」私は画面を指差した。「バンドというんでしたっけ」
テレビでは、日本の男性バンドグループが海外でのツアーが決定した、というニュースが流れていた。先程のは、売れた有名曲を年代順に流していた音だ。
「うーん……正直言っちゃうと、この人たちはあんまり好きじゃないんだよね」
あっ、言葉不足に気づく。
「ではなく、演奏の方です。昔やってたんですよね、ギター」
死確者は目を見開いてじっと見てきた。
「どうして……」
「天使ですから」
その言葉で死確者は納得の笑みを浮かべ、「そっか……そうだったね」と呟くと、本を押さえていた手を離す。本は勝手にのどへと向かってページを閉じた。
「ホワイトグリッター」
「えっ?」
「バンド名。ガールズバンドで、私はボーカルギター」
続けて、「プロ目指してたんだけどね……」と死確者は寂しそうに口角を上げた。
「目指してた、ということは今はもうメンバーの人とは……」
「いやいや」慌てて訂正しようと首を振る死確者。「仲が悪くなったとかじゃないよ? むしろメンバーのみんなとは仲いいし、今だって、まあたまにだけど、会ってるから」
「では、何故無理なんです?」
死確者は視線を落とし、「この手のせい」と毛布の上に置いた手をじっと見つめた。
「腫瘍が大きくなっちゃったせいで、運動を司るとこを圧迫しててね、そのせいで手足を上手く動かせなくて。要はさ、ギター、弾けなくなっちゃったんだ」
死確者は演奏できない悔しさ、できない自分への苛立ちが混じった複雑な表情をしている。確か資料には、中学の入学式で知り合い、中学1年の夏に結成したと書かれていた。つまり、約5年間もの間、演奏をしてきたということになる。
好きでなければそこまで時間を割いて、またかけて続けられるものではない。本当に心から好きなのだろう。
「足なんて酷いもんだよ、もう一人じゃ歩けないんだから」死確者は力なく口元を緩ませた。「だから、あれ使ってるんだ。凄い嫌だけどさ」
死確者は私の左後ろをおもむろに見た。そこには、壁に立てかけられた車椅子が折りたたまれて、ひっそりと置かれていた。
「もうできないんだよ、音楽は……」
「ですが、作詞はまだ出来るんじゃないんですか?」
死確者は「へぇー……」と感嘆の声を上げた。
「流石は天使。何でも知ってるのね」
「何でもというわけではありませんが、ありがとうございます」私は突然褒められたことへの返事に、白い帽子を掴んで上下に傾ける動作をした。
「作詞も一緒だね」
死確者は手を丸めた。だが、完全には丸くならず、直前で痙攣し始める。
「力入れると震えが止まらなくなっちゃうの。ろくにペンも握れない状態なのに、書くことなんてままならない。できないよ」
「しかし、本は読めてますよね」
「かろうじてね。ほら、こうやってどこかに置いて少し指をずらせば、自然とめくれてくれる」
「はぁ」
あっいかんいかん。ただでさえ、時間がないのに。私は逸らしたテーマを軌道修正する。
「ギター、弾きたいですか?」
「そりゃあ当然。弾きたいよ。弾いて弾いて弾きまくりたい」
私は腕を後ろで組み、「そしたら未練は果たせますかね?」と上半身を少し倒し、死確者に顔を近づける。
「どうだろ……あっ」突然顔が明るくなる。「そうだ、うん、あったあった。果たせることができる……かも」
確かこういう時、“ビンゴ”というのだったはずだ。
「……けど、そんなの無理でしょ?」という死確者の言葉と重なるように、私は指を内側に巻いた手を口元に添え、咳をした。油を買っている状態から、仕事に戻る意味を込めての咳だ。
「では、弾けるようにします」
死確者は「だから冗談だって」と嘲笑い始めた。
「問題ありません。大丈夫です」
死確者の表情がみるみるうちに真顔になっていく。「……できるの?」
私はさっきも使った文言を繰り返す。「天使ですから」
「……本当に?」
「はい」
「あっ、なら足もできる? 足も一緒に動かせるようになる?」
少し体が前のめりになる。
「可能です。では、両手両足をしっかり動かせるようにしますね」
「……お願い」
「了解です」
私は両手を死確者の両手にかざす。そして、念を込める。
実を言うと、私は待合室で待っている間、もう一度封筒の中身を見た。その際、ギターをやっていたというのを知ったのである。恥ずかしながら、見逃していたこの事実に関して、すぐさま上に確認を取った。力を使っていい事柄についての許可や確認を上に取ったりと時間があったのでやってみた。時間がかかる可能性も考慮したが、幸い早めに帰ってきた。結論としては、癌を取り除かないのであれば、手足を動かすことや痛みの緩和等のために力を使うことへの許可が下りた。
「終わりました」
死確者は自身の手を見つめた。恐る恐るゆっくりと手を握る。爪が手の内側に当たるまでしても、震えは出なかった。
開く。そして閉じる。握る、そして離す。
「ハハ……ハハハ……」
死確者の開いた手が震え出すと、下半身にかけられた布団にシミができ始めた。目が流れ落ちた水滴がボタボタと落ち、円形のあとを作っていく。そのまま死確者は手で顔を覆う。隙間から流れた水はシミのあとを多く濃く、濡らしていく。鼻水を出さぬまいと必死に何度も吸い込み、肩を上下に激しく揺らしていた。
どうやら、成功したみたいだ。
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