3-9

「……今日は、楽しかった」

 冬の陽が沈むのは早い。いくらでもあると思っていた時間はすぐに過ぎ去り、俺達は公園のベンチからほとんど沈みかけた夕陽を肩を並べて眺めていた。

「最近はあんまりこうやって出かける事もなかったけど、やっぱり楽しいもんだな」

 ハンバーガー屋以外はあえて懐かしい場所を巡るでもなく、それでも俺と由実の間で話題は尽きず、時間さえあれば俺達はまだまだ遊んでいられたし、遊んでいたかった。

「ああ、本当に。変な意地を張らずにもっとこうしていれば良かった」

 夕陽に照らされた由実の横顔は、どこか寂しげな笑顔。

「謳歌の事も勇奈の事も全部忘れて……いや、全部覚えたままでもこうして宗耶と二人でいるのは楽しかったんだ。なら、そうしない理由なんてなかったのに」

 由実の横顔が、赤く、赤く照らされる。もうすぐにでも陽は沈んでしまう。

「きっと、宗耶は私が誘えばいつだって今日のように付き合ってくれたんだろう?」

「いつだってかはともかく、用事が無ければ断ろうとは思わないな」

「そうだな、そんな事はわかっていたんだ。全部わかっていたのに……」

 口元を歪めて笑う由実を見ているのがなぜだか辛くて、俺は顔を逸らしつつ鞄から小奇麗に包装された箱を取り出す。

「ほら、これでもやるから元気出せ」

「これは?」

「この時期にこんな箱で渡すものなんて、クリスマスプレゼントに決まってるだろ。その様子だと、由実は忘れてたみたいだけどな」

 はっと目を見開いた由実は、やがて申し訳無さそうに下を向いた。

「……すまない、その通りすっかり忘れていた」

「まぁ気にするな、それどころじゃなかったってのはわかってるから」

 かく言う俺もそうだったのだから、由実を責める気になどなるはずもない。だからと言ってここでわざわざプレゼントの存在に気付かせてくれた人物について口にするのが野暮だという程度には女心もわかっているつもりだし、見栄だって張りたい。

「でも……」

「いいから早い事開けてくれ。リアクションはできるだけ嬉しそうな感じで」

 遠慮しているのか、手元で箱を弄んでいた由実は、催促を受けてようやく恐る恐る包装を解いていく。

「あっ、かわいい……」

 開いた箱の中身、白いうさぎのぬいぐるみを目にした瞬間、由実の顔に浮かんでいた様々な感情が消え、代わりに柔らかな笑みが浮かんだ。

「喜んでくれたみたいで何よりだ」

「うん、すごく嬉しい。……でも、どうしてこのぬいぐるみを選んだんだ?」

 いつもよりも素直に感情を表した由実の表情からは、だが喜びと共に困惑も見て取れた。

「どうしてって、由実ってかわいいぬいぐるみ大好きじゃん」

「それは、でも昔の事で、もう部屋にもぬいぐるみは無いのに」

「なんでか知らないけど、俺が行った時に隠してるだけだろ。帰った後は猫撫で声でぬいぐるみ一つ一つに話しかけながら並べ直してる癖に」

「なっ、お前っ、隠れて見てたのか!?」

 完全に憶測で喋っていただけなのだが、どうやら図星だったらしい。その様子を思い浮かべるだけで抱きしめたくなるほどかわいらしいが、今目の前で顔を真っ赤にした由実もそれに負けないほど愛らしい。

「まぁ、どこまでかは冗談だけど、由実がぬいぐるみ好きなのはなんとなくわかるって」

「えっ、冗談!? という事はもしかして、墓穴を掘った……?」

 昔とは見た目も口調も変わった由実だが、性格や好み等、根の方まではそう簡単に変わるものではない。由実は今でもかわいいものが好きなかわいい女の子だった。

「いいじゃないか、ぬいぐるみが好きで夜な夜な話しかけてるなんてかわいらしい。ファンシーでクレイジーでキュートだと思うぞ」

「そ、そうか? ……って、やっぱりクレイジーって言ってるじゃないか!」

「今はキュートならクレイジーだろうがデンジャーだろうが許される世の中なんだよ」

「そういう話をしてるんじゃない!」

「俺もキュートでクレイジーな由実が好きだなー」

「す、好き……いや、やっぱりからかってるだけだろう! 騙されないからな!」

 混乱からか頭の回転がいつもより鈍い由実をからかうのは、最近は見られなかった素の彼女を見ているようで楽しい。

「……やっぱり、宗耶には敵わないな」

 声を出してすっきりしたのか、少し冷静さを取り戻した由実がぽつりと呟く。

「何言ってんだ、俺が由実に勝ってる事なんてほとんど無いだろ」

「そんな事はない。私はきっと宗耶にはこの先もずっと勝てないのだと思うよ」

 俺も自分に自信がないわけではないが、由実はそれ以上に文武両道を地で行く。直接戦ったあの夜だって、椿の乱入で決着こそ付かなかったものの実質的には俺の負けだ。

 にもかかわらず、由実は決して皮肉を言うでもなくただ淡々と事実を認めるように語る。

「昔、私は宗耶の事を完璧な男の子だと思っていた、と言っただろう?」

「どうもそうらしいな。俺はそんな風にはまったく思えないけど」

 今の俺だって完璧とは程遠いのに、昔の俺がそこまで大層なものだったわけがない。今よりは丸かったかもしれないが、俺だって根は変わっていない自覚がある。

「あれは、きっとあの頃の私が宗耶よりも子供だったからなのだろう」

 過去を懐かしむように目を細め、由実は話を続ける。

「あの頃の宗耶にだって欠点はあった。ただ、少し隠されるだけでそれを見つけられないくらいに私が子供だったんだ。そして、だから私は宗耶に憧れ、追い付きたいと思った」

 少しの躊躇いの後、由実は名残惜しそうにぬいぐるみを箱に納めた。

「勉強も頑張った。強くなろうと武術も学んだ。それでも、結局のところ肝心な時には宗耶に支えられてしまって、一人でも大丈夫だと思ってもらうためにもっと頑張った」

 魔王事件の直後、由実は一度、勇奈の喪失により壊れかけてしまった事がある。

 それを弱さと言ってしまうのはあまりに短絡的だが、それでもあの時の俺が由実を支えていたというのはきっと自惚れではなく。

「どうだ? 宗耶から見て、今の私は一人で立てているか?」

 口元だけで笑う由実は、俺の答えを待たずに言葉を継ぐ。

「そんなわけがない。私はあの頃と何も変わっていない、それどころかずっと未練を引き摺り続けたまま、ここまで来てしまったのだから」

 寂しげな由実の声にも、俺は何も言えない。

 由実だけでなく俺も、そしてきっと謳歌だって未練と後悔を胸に今まで生きて来た。だから、由実が言っているのはきっと、謳歌への感情、勇奈の死との向き合い方の違い。

「それでも、こんな私にも一つだけはっきりとわかった事があるんだ」

 張り詰めた声で、何かに耐えるように、由実が胸元で拳を握りしめる。

「……私は、宗耶の事が好きだ」

 噛みしめるようにゆっくりと、夕陽を眺めたまま由実はそう口にした。

「好きです。きっと、初めて会った時から憧れていて、一緒にいる内に情けないところも駄目なところもわかっていって、それでもずっと側にいてくれた宗耶の事が好きでした」

 沈み行く夕陽を背に、立ち上がった由実はもう一度、今度はまっすぐに俺の目を見据えて告白の言葉を紡ぐ。

「俺も――」

 好きだ。

 幼馴染として、友人として以上に、きっと一人の異性としても。衝動でも一時の気の迷いでも、もちろん同情でもなく、いつからかずっと由実の事が好きだった。

「それ以上は、今は言わないでくれ」

 しかし、答えを返そうとした俺の口は、屈み込んだ由実の唇に塞がれていた。

 唇を重ねるだけのキス。感触を確かめる間もなく離れていった口づけは、俺にとってのファーストキスだった。

「……私だって、自分が汚い真似をしている事くらいわかっているんだ」

 陽はいつの間にか沈んでいて、それでも俺のこの目は由実が今さっき重ねたばかりの唇を噛み締めているのをしっかりと捉えてしまう。

「でも、一度くらい、キスの一度くらいは許してくれてもいいだろう?」

 縋るような言葉は誰へ向けられたものか。言葉とは裏腹に、由実自身がそれを許せないように俯いているのに耐えられず、俺も立ち上がり由実を抱き寄せようと腕を伸ばす。

「駄目だ、それ以上は駄目なんだ」

 だが、弱々しい動作で俺を拒む由実の腕にただ単純に力負けして距離を詰められない。今ほどに、これほどに自分の力不足を恨んだ事はなかった。

「由実、俺は……」

「ただ私を傷つけないためだけに手を伸ばしてくれているのではない事は、わかっているつもりだ。だけど、それでも宗耶は私を選んでくれたわけじゃないだろう」

 そう言って顔を上げた由実は、ひどく穏やかな微笑みを浮かべていた。

「私は宗耶が、勇奈が、そして謳歌が同じくらい好きだった。宗耶もそうであってくれたなら、私でなくてはならない理由なんてないんじゃないか?」

 由実の、幼馴染のその言葉を俺は否定できない。俺達があのまま何も無く今に至っていたとしたら、俺は三人の誰を選んでいたのか。それを俺から選ぶ事はあったのか。

「下らない、子供っぽい、昔を引きずっているからこその意地なのはわかっている。それでも、私は宗耶に誰よりも、勇奈よりも謳歌よりも好かれていたい。そうでないのに受け入れられるのは、嬉しいけどやっぱり嫌なんだ」

 だから、と、由実は問いの形をした確認を俺へと投げた。

「もし、宗耶が他の誰でもない私だけを選んでくれるというのなら、改めて今、私のことを好きだ、と言ってくれないか?」

 俺は、由実の事が好きだ。

 それは間違いない事実だった。

 勇奈が死んで、謳歌も姿を消してしまって、それでもずっと二人でいた。辛い時期は傷を舐め合ったりもして、気付けば四人でいたのと同じくらいの時が過ぎていた。異性としてまともに意識し始めたのも、一番長い時間を共に過ごしたのも由実に違いない。

 それでも、今の俺が由実と謳歌、そして勇奈を天秤に掛けるわけにはいかないから。

「…………」

 だからせめて、弁解も謝罪もしない。言葉にできないなら、せめて無言で語るしかない。

「……うん、そうだろうな。そうでなくては、私は本当に卑怯者になってしまう」

 長い、あるいは短い沈黙は、普段と変わらぬ由実の声色によって打ち破られた。

「今日は本当に楽しかった。告白もできたし、キスまでしてしまった。それに、振られたわけでも無いのだから、やっぱり宗耶を誘って良かった」

 強がりでも何でもなく、由実は本気でそう言っていた。

「いつか、もう一度デートをする事があれば、今度はこの続きをできたらいいな」

 それは、このデートの終わりを告げる言葉。

 きっと、由実は最初からここで俺に告白するつもりで、そして俺の答えまでわかっていた。それほどまでに俺の事を理解している理由も、今ならばわかる。由実はいつからかずっと、俺が由実を見るよりも強く俺の事を見続けていたのだ。

「私はこれから、あの病院があった場所を見に行く。もし宗耶がそのつもりだったとしても、悪いがここからは別行動を取りたい」

 病院。勇奈がこの世界から去った場所であり、それ自体も欠片も残ってはいない、魔王事件の起きた現場である病院の名前すら俺は覚えていない。

「いや、俺は遠慮しとくよ」

 あの場所にはいい思い出など何一つとして無い。由実はそれを確認する必要があるのだろうが、俺にとってそんな事はただ辛いだけだ。

「そうか。じゃあ、これでお別れだな」

 由実は俺に背を向けるとゆっくりと、しかし立ち止まる事無く去っていく。

「……由実!」

 その寂しげな背中が、まるで永遠の別れのような最後の言葉が、よりにもよって由実が次に会う時は目的を違えた、ある意味では謳歌よりも敵同士であるという現実が、俺の喉から悲鳴のような叫びを絞り出した。

「また、明日」

 それでも、続いた声が自分でも驚くほどに穏やかに響いたのは、きっと毎日のようにこの公園で別れの挨拶をしていたあの頃の習慣が染み込んでいたからなのだろう。

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