1-4
「…………」
これは死んだ。社会的にとかじゃなく、ここで俺の命は潰える。
少女と俺の距離はほぼ零に等しく、飛び退くにも応戦するにもスカートに突っ込んだ右手が邪魔でどうしても遅れる。援護を頼んだとしても、由実が構えて撃ち出すよりも先に少女の手刀が俺の首なり心臓なりを貫く。
そして、コンマ一秒が過ぎ、コンマ二秒が過ぎ、一秒が過ぎ、二秒が過ぎた。
「……ん、っ」
少女の全身の内、最初に動いたのは口だった。あるいは喉かもしれないが、少女はこの状況には合わないやたらと官能的な声をあげていた。
不思議に思い状況を見直すと、死から逃れようと少女のスカートの中の俺の右手が必死にもがいている。
もしかしたらこの少女は、衝撃や痛覚には強くても、痒さやくすぐったさには弱いのかもしれない。ならば、もっともがいて時間を稼ぐ!
「ぅおぉっ!」
少女の背越しに聞き慣れない野太い声。そして、白の軌跡が視界の端を掠めた。
由実が間に合ったのだろう。
期待を込めた俺の目は、だが白の弾丸が少女の肩を越えて俺の顔面へと向かってくるのを捉える。この距離、体勢で避けるのは不可能。目を閉じてせめて額で受け止めると、強烈に脳を揺らされる感覚。
「お前、これ、野球ボールじゃねぇか……」
ああ、なんて状況理解力の無いパートナーなんだ。
絶望の中最後に目にしたのは、羞恥と驚き、そして心配を内に秘めた少女の瞳だった。
「――おい、下種。その気絶したふりを止めろ」
ふりでは無い。断じてふりでは無いが、現に俺は今意識を失ってはいない。俺は瞬間的に意識を失い、すぐに意識を取り戻したわけだが、一歩間違えば脳に障害を受けていた可能性も否定しきれない。しかし、事実として今の俺に何の障害も残っていない以上、目の前の羅刹を止める要因には成り得ないのもまた事実であった。
ゆっくりと開いた瞳に映る由実はらしくもなく怒りを顔に出し、左手で俺の胸倉を掴んだまま右腕を後ろに大きく引いている。零距離で矢を放つつもりか、それともそのまま俺を殴りつけるつもりなのか。痛いのは嫌いなので、どちらも勘弁してもらいたい。
「やぁ、由実。おはよう、今日も綺麗だね」
柔らかく微笑み、甘い言葉を掛ける。
曰く、女たらし。『ゲーム』風に言えば遊び人。あるいは、この状況においては猛獣使いとでもいうべきか。手先、口先、そして目線一つで対象を操るその職は、ある意味この俺に最も向いているかもしれない。
「何がおはよう、だ。この性犯罪者め」
微笑みを続ける俺に対し、由実は怒りを込めて睨んでくる。それも、目ではなく先程まで少女のスカートの中にいた右手を。
まずい、これではどうしようもない。
打開策を探して視線を彷徨わせると、俺から庇うように由実の後ろに追いやられた少女が視界に入った。
化物染みた先程までの様子から一転し、不思議そうな表情で辺りを見回す少女は、端正な顔立ち以外はごく普通の少女に見える。少なくとも、今すぐ暴れ出す事は無さそうだ。
「そう結論付けるのはまだ早いんじゃないかな」
と、なると、当座の目標は由実の怒りを抑える事。由実の怒り、もしくは義憤の原因は俺が少女に痴漢行為を働いたと由実が認識している事であり、事態の解決に必要な行動はその誤解を解く事だけだ。
「変態的言動に変態的行動、それだけで十分に犯罪者の要因は満たしているだろう」
問題は、パニックに陥った俺が実際に由実の言う変態的行動を行ってしまった事実を否定できない事にある。少女にそれを証言されたら最後、由実に一撃を喰らうだけでは済まず、犯罪者として警察に追われる身になってしまうかもしれない。
「…………?」
背筋を走った冷や汗に現実へと意識が引き戻され、偶然にも少女と目が合っていた事に気付く。少女の目には意外にも俺への恐怖も嫌悪も浮かんでおらず、ただ今自分がおかれた状況への困惑だけが見て取れた。
きっと、少女は今の状況を本当に何一つ理解していないのだ。俺の事も、気付いたら目の前にいた見知らぬ少年くらいにしか思っていないのだろう。希望的観測は混じるが、スカートに手云々は有耶無耶になっている可能性が高い。
つまり、この状況において最も重要な少女の証言は、まだその方向性すら確定していないという事になる。
だが、由実がこのまま少女に俺が痴漢行為を働いたのかどうかを聞けば、まず間違いなく少女はYESと答える。実際に行為自体は行われてしまった事もあり、状況的には否定される要因が無い。そして何より、同年代の同性である由実がそう証言している。俺の経験上、女というものは、男と女が真逆の主張をしていたらとりあえず同性である女の主張を信じるものだと相場は決まっているのだ。
「弁明が無いのであれば、とりあえず頭に一発いく事にするが」
そうこうしている内に、無情にも弓使いの声が時間切れを宣告する。
「まぁ、まずは話を聞いてくれてもいいじゃないか」
「嫌だ。お前がそういう口振りの時は、大抵ろくな事を考えていないからな」
対等な条件ならまだしも、圧倒的に不利な状況で由実を言い負かすのは不可能に近い。
論点のすり替えに、極論と屁理屈による絡め手。手の内は嫌というほど知られている以上、それらによる時間稼ぎを許してくれるほど甘い相手ではない。
ならば、俺の敗北は決定したのだろうか。
「俺の話じゃない。その子の話だよ」
いや、それは違う。
俺は遊び人であり、化物ではない今の少女なら堕とすことはそれほど難しくはない。少女の口から俺の無罪が告げられれば、由実が何を言ったところで意味はない。
「あぁ、たしかにそれはそうか……君、口にしたくないかもしれないが、答えて欲しい。あの下種に、その、いやらしい事をされたんだろう?」
由実がここぞとばかりに味方アピールをして、少女の好感度を稼ぐ。その上いやらしい事、の辺りで口籠る事で俺への好感度まで稼ぐのだから強欲に過ぎる。
だが、無意味だ。
少女の目をじっと見つめ、そのまま二秒。それだけで事は済む。
「えっと、その、多分、そういった事はされてないと思います……」
勝った。
少女の言葉に、由実は悔しそうに唇を噛む。友の無実が明らかになったというのにその反応はどうかとも思うが、見方によっては無実の俺を疑った事を悔やんでいると受け取れない事もない。
「でも、その、良くわからないですけど、お財布は取られてしまったのかな、と」
だが、続いた少女の言葉には俺も笑っていられない。
たしかに、それは失念していた。二人の間で当たり前となっていた、倒した相手の財布を抜くという行為もまた、一般的には犯罪行為である事は間違いないわけで。
「「あ、ああ……」」
俺と由実、二人の動揺の声が重なり、同時に途切れる。
そもそも、倒したはずの敵が目を覚まし、なおかつ正気に戻る事など今までにはなかった。少女はもちろんの事、俺と由実だって今の状況について把握できているとはとても言い難い。そもそもが異常である土台の上に起きた異常事態など、理解できる人間がどれほどいるだろうか。
「――しょうがないなぁ、私が今の状況について説明してあげよう」
硬直した場に、大地を揺らすような声が響く。いや、揺れているのは俺の脳だろうか。
由実と少女も声に気付いたのか、緊張と怒り、単なる驚きとそれぞれ反応を示していく。
「まぁ、そりゃあ、お前なら知ってるだろうけどな」
宙に突然現れた小柄な人間大の影は、だが普通の人間ではない。そこにあるのが実体のないただの像であるというだけではなく、そもそもその影の主が人間を超えている。
「久しぶりだな、魔王さま」
「うん、久しぶり。遊び人くん」
多分世界最強の魔王であり、そして俺の幼馴染の一人である佐久間謳歌の姿は、昔から変わらぬ可憐な少女のままだった。
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