短編集、なんてね
葉亜芯戸
そらめのねこ
家に帰るとベッドの上で猫が寝ていた。しかしそれは空目であった。僕の猫はずっと以前に死んでいた。
空目はなかなか消えなかった。何度か瞬きをしてみてもそこにいた。目をみはるといよいよ鮮明に映った。
ぎん、と名前を呼んでみた。ぎんならしっぽを振るはずだった。猫は黙っていた。
ぎんではなかった。しかしよく似た猫だった。毛並みも顔も同じだが、ぎんより一回り小さかった。
ぎんではないなら誰だろう。
僕はそらめ、と試しに呼んでみた。しかし猫は黙っていた。
そらまめ、と呼んでみた。
猫は尻尾を振った。
そらまめ。どうやらそれがこの猫の名前であるようだった。
ぎんとは僕の母親が名付けた。毛の色が銀色だからぎん。単純だが美しい名前だった。
ぎんはぎんと呼ばれたときだけ尻尾を振った。自分のことをぎんと知っていた。
不思議なものだ。僕はそれまでぎんのことを猫とか、にゃあとか、適当に呼んでいたのだが、それでしっぽを振ったことはなかった。まるでこの猫は母が名付けるずっと前からぎんという名前であったかのように。
名前とは、付けられるものではないのかもしれない。世の中のどこかには自分の本当の名前があって、みんなそれを探しているのかもしれない。ある人は見つけられるし、ある人は見つけられない。見つけられた人はきっと、それを子供につける。
そうなると、世間一般の親というものは、せっかく見つけた自分の名前を子供につけてしまうから、子供はまたみんな、自分の名前を探すのに躍起にならなけらばならないのかもしれない。せめて、猫のようにお尻に立派なセンサーでもついていたら、少しは救われるのかもしれないが。
そらまめはずっと寝ていた。僕がそらまめ、と呼んだときだけ、しっぽで床を叩くのだ。
一体この猫はどこから来たのだろうか。部屋の窓はみんな締め切られているし、戸もしまっていた。
やはり空目であろうか。僕は猫に触れてみた。柔らかい毛の感触が伝わった。猫はどうやらここにいる。
それにしても美しい猫だ。この猫の毛は月の灯りのもとで最も美しくなる。息をするたび上下するその胸はそよぐすすきのように色を変える。
僕はもう一度ぎん、と呼んだ。返事はなかった。
僕はもう一度呼んだ。なんだかどうしても返事をして欲しかったのだ。今は写真の中にしかいないあの猫にもう一度会いたかったのだ。
猫は沈黙していた。どうしたってそらまめと呼んだときにしか尻尾を振らない。
そのうちにだんだんと僕は眠くなった。そらまめの隣で横になって眠った。
朝、そらまめはいなかった。
そういえば、壁にはぎんの写真が貼り付けられてあった。その写真は昨日見たそらまめと同じくらいの大きさのように見えた。
はて、化かされたか、と思ったが、それはありえないことに気がついた。
あの猫は空目であって、そらまめなのだ。
ぎんはもうどこにもいない。
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