memories:イヌタデ
頬を伝う汗を手の甲で拭う。拭いきれなかった汗が首筋から背中に流れ何処か冷たい。呼吸が浅いのがわかる。……ちょっとこれはまずいかもしれない。急いで生徒会室に戻ろうと足を踏み出すとぐらりと視界がねじれ、突然、目の前が真っ暗になった。あ、まずい。身体に力が上手く入らず、支えを求め記憶を頼りに壁を手探りで探す。その間にも力は抜けていき、支えを求め伸ばした手は虚空を握る。……何処か遠くで私を呼ぶ声がする。誰だろうか。あぁ、誰であろうと迷惑をかけてしまうな。そんなことを思いながらそのまま私は意識を手放した───。
ガサッとと近くで物音を感じて、ゆっくりと重い瞼を開く。身体の上に感じる柔らかい重みに、ここは保健室であろうとあたりを付ける。あぁ、誰かがここまで運んでくれたのだろう。誰かの手を煩わせてしまった、と小さく息を吐く。気怠い身体は暫く上手く動きそうにない。まだ幾分はっきりとしない思考のまま視線だけ動かし辺りを窺えば、ベッドの脇で丸椅子に腰かけ船を漕ぐ寺嶋の姿が目に入る。
「っな」
思わず漏れた声に「んあ?」と気の抜けた声を漏らし彼はぼんやりとした様子のまま目を擦るとこちらに視線を向けた。そして私と目が合うや否、
「あ、良かった。会長目ぇ覚ましたんだ」
そういって安堵の笑みを浮かべる。
「あぁ、君がここまで運んでくれたのかい。済まない、迷惑をかけてしまった」
「別に気にしなくていいって。気分悪いとか、大丈夫? 熱中症らしいよ。会長、ちゃんと水分とか塩分とってた?」
「……生徒会室に戻ったら摂ろうと思っていたんだ」
「それ、絶対忘れてたやつじゃん。今日なんて特に暑いんだからこまめにとらないと倒れるに決まってるじゃん。会長は頭もいいし、何でもできるしすげえけど自分のこと後回しにするの、俺良くないと思う」
「いや、そんなことは……」
「暑いときはしっかり塩分水分とるってバカの俺でも知ってることだからね」
そうして自身のポケットをガサガサと探ると黙って拳を突き出してくる。
なんだろうと拳を見つめたまま小首を傾げると「ん」と再度促すように拳を突きつけられる。訳も分からないままそっと両手を差し出せばその上で掌が開かれる。私の手の平にぽとりと落ちる飴。
「とりあえず会長はそれ食べて」
包装の袋に塩分と大きく書いてあって思わず笑う。
「あぁ、ありがとう」
包装を破り口に運ぶと舌に少しだけ酸味が広がる。
その様子を見届けると「あ、あと水もあるよ」と寺嶋は鞄を探るため私に背を向ける。ぼんやりとその様子を見ていると、ガザゴソ鞄の中を探る寺嶋の後ろ頭に紅紫色の何かを見つけた。なんだろう。まだ鈍い身体をゆっくりと起こし、そちらに手を伸ばす。まっすぐ伸びた茎に小さくした稲の先のような2センチほどの紅紫色の穂が実っている。取るために触れた彼の髪は見た目よりも存外柔らかくてドキリとする。
びっくりした様子で勢いよくこちらに振り返り、私を見つめると寺嶋はキョトンとした表情で
「え? なんかついてた?」
「君は全く、何処を通ればこんなものを頭に付けられるんだい」
少しだけ苦笑を漏らし取れたそれを差し出せば、彼は少しだけ思考を巡らせ、あっけらかんと
「あぁ、もしかしたら木から飛び降りたときかも。これあの辺咲いてたの見たことあるし。急いでたからすごい蹴散らしちゃった気がするし」
「木から、飛び降りた……?」
私の声色の変化に、寺嶋はピクリと肩を揺らして、あ、だの、え、だの言葉を幾つか漏らしてから観念したように「補習の紙、飛ばされて……」と溢す。つまり君は補習中に外を出歩いてたのかい。
思わず呆れて大きな溜息を漏らすと
「だけど、補習の紙が木に引っ掛かってくれたから、遠くで会長が倒れたの見えて。俺、それで慌てて……」
弁解をする寺嶋の声が徐々に小さくなっていく。
確かに危険な行為とはいえ、寺嶋の行動はやむを得ないことかもしれない。急に見知った者が倒れる様を見たら確かに焦ってしまうのも無理はない。だが───。
「ここまで私を心配して運んでくれたことには感謝する。しかしな、もし、それで君が怪我でもしていたら私は───」
きっと寺嶋は私に怪我の理由を告げないだろう。木から落ちたと正直に言ってくれるかもしれないし、ただ遊んでいて怪我をしたというかもしれない。そうなったとき私のせいで負った傷を、私は気づくことなくともすれば叱咤してしまうのだろう。なにも知らないまま、彼の優しさに甘んじてしまうのだろう。そんなの……そんなこと……。喉の奥がひりつく。あぁ、そして、それに気づいたとき私はきっと自分の身勝手さに酷く後悔するのだ。
唇を噛み締めた。
「………すまない」
頭を下げると「え、なんで会長が謝るの。悪いの俺じゃん」と慌てたように寺嶋はこちらに詰め寄る。
「いや、私の怠慢で君が怪我でもしてしまったら忍びないからね。君が無茶しないようにこれからは気を付けるよ」
本当に、君が怪我しなくて良かったよ。
そう微笑めば、寺嶋は俯き、ゆっくりとその身体を椅子に預けた。
「……俺もね、会長が何ともなくて良かった」
そうして、こちらを真っすぐ見やると柔らかく微笑んだ。
遠くの方で蝉の鳴く声が、保健室に微かに木霊する。
「もう、絶対無理しないでよ?」
「あぁ、肝に銘じておくよ」
君に心配をかけない、頼れる人間で在るように。
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