memories:オオイヌノフグリ



「あ」

 そう呟いた遥の視線の先を辿って、私も「あっ」と小さく声を漏らした。

 吐く息も白い2月頭の寒空の下。たまたま通りかかった空き地の隅に置かれた段ボール。そこからちょこんと覗かせたこちらを窺うその姿を見るや否や私は「可愛い!」と声を弾ませ駆け寄った。

「遥、遥! 仔犬だよ、仔犬っ」

 段ボールの前に座り込むと私は遥を手招きする。

 A4サイズくらいの茶色い段ボールの中、白いストールを敷いたその上にベージュ色の仔犬がちょこんと座っている。更に覗き込めば、白いストールの上には青い小さな花が散乱していた。良く見れば、仔犬の身体にも幾つかくっついている。

 それを優しく摘み上げ、空にかざしてみる。

「オオイヌノフグリ、かな?」

「だな」

 私の背後から覗くように遥が相槌を打った。

 なんでこんなところに散乱してるんだろ?

 そんな疑問もクンクン鼻を鳴らす仔犬に視線を奪われた途端消えてしまった。

「もぉ、めっちゃくちゃ可愛いんだけどぉ」

 仔犬の顔がぐしゃぐしゃになるまで撫でまわせば、キャンと小さく吠えた仔犬がころんと寝転がりこちらにお腹を見せる。

「───は、遥っ、遥!」

 その誘惑に私は右手でお腹を撫でまわしながら、左手で遥の脚をバシバシと叩く。

「はいはい、わかった、わかった」

 呆れるように零しながら、それでも遥もポケットからスマホを出し仔犬にそれを向けながら口元を緩めている。

 ふさふさの小さなお腹を暫く撫でまわしていると、仔犬は私の手袋の感触が気にいったのか小さなその手を伸ばし、ちょいちょいと犬パンチを繰り出してきた。

「これが気に入ったの?」

 お腹から手を放し右手の手袋を外して仔犬に差し出せば、待ってましたとばかりに勢いよく後ろ足で立ち、手袋を両手で器用に挟むとごろんと倒れ込み白いストールの上をゴロゴロと転がった。

 ふっと口元が緩む。

「お気に召したようでなによりです。おまけにもう1つあげちゃおう」

 そういって左手の手袋も外して段ボールの中に置く。

 置いた端から、右手左手どちらも選べないと抱えるように手袋にジャレついている。

「めっちゃ可愛い……」

 溜息を吐くように想いが溢れる。

「遥、ねぇこの子飼えないかな? うちペット禁止だから無理だけど、遥のお店で看板犬として飼ったりとかさ」

 お願いっ、と両手を合わせ上目使いで頼んでみる。

「ん~、飼えなくはないけど一応うち喫茶店だからなぁ。飲食扱ってる手前……ん~」

 両手を組んで眉間に皺を寄せてはいるものの、気持ちとしては連れて帰りたいに傾いているらしい。

 これはあと一押しかな。

 気づかれないようにほくそ笑んでから、もう1度「お願い」と言いかけた私の言葉を遮るように、

「あのっ」

と、背後から子どもの声が聞こえた。

 振り返れば服の裾をギュッと握って真っすぐこちらを見据えた男の子が立っていた。真っ赤になった鼻をズズッと啜ると、もう1度「あの」と今度は消え入りそうな声で呟くように言葉を紡いだ。

「お姉ちゃん達、その子連れて帰っちゃうの?」

 私は、あ~と小さく声を漏らし立ちあがると遥に視線を向けた。

 私の視線から逃げるように遥は顔を反らしたが、暫くするとはぁと大袈裟に息を漏らし、頭をガシガシと掻くと男の子をちょいちょいと手招きした。そうして恐る恐る近寄ってきたその子と同じ目線まで膝を曲げた。

「君はこの子と一緒に帰りたいの?」

 うん、と小さく返事が返る。

「……なぁ、命を連れて帰るって大変なことなんだよ。君は毎日この子にご飯をあげなきゃいけない。毎日散歩に連れていってあげなきゃいけない。この子が具合悪そうだったらすぐに病院に連れていってあげなきゃいけない。この子が君のいうことを聞いてくれないときだって、君が好きなことしたくても君が我慢しなきゃいけないときだってある。だってこの子には君しかいないから」

 透の言葉に初めは「うん」と声を出していたその子も、段々と泣きそうな顔になり、やがて自信なさげに小さく頷くだけになってしまった。

 さすがに言い過ぎなんじゃないかな。

 透と男の子の姿に交互に視線を移し、内心オロオロする私の気持ちなんてきっと露も知らず、透は真っすぐその子の顔を見つめて、少し冷たく言葉を紡いだ。

「それが命を連れて帰るってことだよ。それでも君は最後まで面倒みられる?」

 その言葉に、それまで泣きそうなのをぐっと堪えていたその子の目から大粒の涙がぽろぽろと際限なく零れ落ちた。

「ちゃんと、面倒みれるもん。絶対、この子のこと、僕がちゃんと守るんだ。だってこの子と僕、家族になるんだもんっ!」

 叫ぶように発せられた言葉。小さな掌は固く握られ、微かに震えていた。

「……そう」

 興味なさげな吐息と共に言葉を漏らすと、すっと遥の腕は男の子の頭に伸びた。

「じゃあ、この子のこと、君がちゃんと守って幸せにするんだぞ」

 ぐしゃぐしゃと頭を撫でるその大きな手は、そういうとニカッと笑った。

「うん!」

 揺れていた瞳に星が差し込み、これまで聞いたどの返事よりも大きな声が返る。

 男の子は仔犬の傍に駆け寄ると「これからよろしくな」と弾む声で話しかけるとそのまま仔犬が入った段ボールを小さな手が大事そうに抱える。

 駆け出しかけたその後ろ姿に、「あっ」と私は声を掛けた。

「おうちの人にはちゃんと連れて帰ってもいいって言われたの?」

 この子がこんなに固い決意を抱いたのに連れて帰って、はいダメでしたでは可哀想すぎる。そう思ったからの言葉だったけど、横で「大丈夫」と遥が呟いた。

「大丈夫っ。ママは飼ってもいいって!」

 お兄ちゃん、お姉ちゃんありがとう。

 そう大きく手を振って駆けて行く男の子の背中に手を振る。そうして「ねぇ」と隣に立つ彼に向き直った。

「もしかして全部気づいてたの?」

「なにが」

「あの子がお母さんに許可貰って仔犬を拾いに来たこと!」

 きゃんきゃん吠えるなよ、と五月蝿そうに片耳を塞ぐと

「あの仔犬の段ボールにはオオイヌノフグリがたくさん散りばめられてただろ。あれは多分、あの子が飼う許可貰うために家に帰ってる間寂しくないようにっていれたんじゃねぇかな。空き地に咲いてるの見えたし、あの子の服にも1つ着いてたしな。なにより、飼うつもりもない奴が今にも連れて帰りそうなこんな大人にあんな風に話しかけてくるかよ」

 だろ? そう何てことない風に答えて私に視線を送る。む~と頬を膨らませれば、返事とばかりにはぁと大袈裟な溜息を返される。

 不貞腐れたように男の子が去っていった方へもう1度視線を向けた。もう男の子の姿はどこにもなかった。

 あの子なら大切に育ててくれるだろう。あの仔犬もきっとあの子となら幸せになるだろう。

 もう見えない後ろ姿を思い描いてそっと目を閉じた。

「可愛かったね」

 そう振り返れば、

「ん、あぁ」

と、生返事を返しながら私を置いて先に進み始める。

 吐く息は白い。

 冷たくなってしまった自身の指先に息を吹きかけてみる。少しも温かくならない手になんだか寂しさが募る。

 ……あーあ。

 そうやって視線を移した先に、ポケットに手を突っ込んだ遥の後ろ姿が映る。

 悪戯っ子のようにニヤリと口角を上げると私は後ろから勢いよく彼の両ポケットに手を突っ込んだ。

「つめてっ」

「いや~、遥の手は温かいねぇ」

 お道化たように言えば、呆れたような溜息が1つ聞こえた。

 あ……やり過ぎたかな?

 ひゅっと冷たくなる心を気取られないようにそっと離れようとすれば、両手をがしっと掴まれポケットから引っ張り出される。

 え、っと戸惑っているうちに私の右手は遥の左ポケットに勢いよくお招きされる。

「そっちの手は自分のポケットに入れとけ」

 仏頂面はこちらに目もくれずただ前を向いていた。

「……うん」

 そうして2人並んで歩みを進める。

 ───なんか、寒いのどっかに消えちゃった。

 にやける口元を俯いてどうにか見られないよう努める。

「なぁ、お前明日仕事は?」

「え、明日はお昼までだよ」

「なら昼から出かけるぞ───手袋買いに」

 思わずズッコケそうになったのに耐えた自分をちょっと褒めてやりたい。

「は? この流れはペット買いに行こうぜって流れじゃないの?」

「お前の手が冷たすぎるのが悪い」

 そういって視線を前に向け続ける遥の耳は赤い。

「俺の心臓がもたねぇ」

 ギュッとより一層強く握られたその左ポケットに目をやる。

 いやいや私の心臓だってもちませんから。

 ───なんて言葉にはしませんけどね。

 はぁ。

 白い息が登っていくのを目で追えば、真っ青な空が広がっていた。



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