10. 伝説の放蕩者

「そう、私がドン・ジョバンニ」


 男はそう答えました。


「ドン・ジョバンニは地獄に堕ちたはず」


 さしものジネディーヌ様もドン・ジョバンニの発する強烈な圧迫感に警戒心を隠せません。


「ああそうだ。地獄には飽き飽きした。だから身代わりが必要だったのさ」


 地獄の番人と取引したドン・ジョバンニは自らの記録を超える男を身代わりとして差し出すことで地獄から逃れようと謀りました。そのためワンチョペという従者の姿に身をやつし、密かに機会を伺っていたのです。


 ジネディーヌ様の瞳の幻像が宙に浮かぶとすさまじい衝撃を放ちました。


 しかし、対するドン・ジョバンニも<邪視>の持ち主でした。互いの<邪視>がぶつかり合い、激しい嵐となりました。


「うわっ!」


 衝撃のあまりの激しさにアルトゥール様は倒れ伏しました。


「ジネディーヌ、貴様なぞ私の前では雛っ子に過ぎん」


 ドン・ジョバンニが指先で空を切ると、突如地面に大きな穴がぽっかりと開きました。


 支えるものがなくなったジネディーヌ様の体がすとんと落ちると、亜空間に捕らわれてしまいました。


「う?」


 ジネディーヌ様は必死に身をよじりますが動きがとれません。じわじわと呑み込まれはじめました


「待ってろ! 今助ける!」


 すかさずアルトゥール様が手を差し伸べましたが届きません。


 下を覗くと灼熱の溶岩の中に城塞都市のような影が見えました。カグツチの地獄です。


「私はいい。しかし生まれてくる子は頼んだぞ」

「え、私が?」


 アルトゥール様は驚きました。未来の自分はジネディーヌの子を宿している?


「目が曇っていたのは私の方だ。望まぬ許婚と疎んじる余り蔑ろにして省みることがなかった」

「ジネディーヌ……」


 なおもジネディーヌ様は地獄へと沈み続けます。


「一人では行かせない。行かせるものか!」


 どれほどまでに健気なのでしょう、アルトゥール様が自分も後に続こうと暗い穴に身を投げかけたそのときです。ドン・ジョバンニがにじり寄ると彼女の手首を掴み強引に引き寄せました。


「きゃっ!」

「ふん。アルトゥール、いやジョセフィン。次はお前を頂くとするわ」


 ドン・ジョバンニは舌なめずりします。


「無神論者で恐れ知らずのドン・ジョバンニ、人が変わったか?」

「生憎地獄は居心地が悪くてな」


 稀代の放蕩者ドン・ジョバンニは一面では神をも恐れぬ男、古き因習からの解放の象徴として庶民の人気を集めていました。しかし、今目の前にいるドン・ジョバンニは心が荒んでしまったのか、まるで別人です。


 さしものアルトゥール様もドン・ジョバンニの前では手弱女に過ぎません。嫌がるアルトゥール様をドン・ジョバンニがねじ伏せようとしたそのときです、朗々とした声が響きました。


「お待ちなさい!」

「む、お前はオトゴサの」


 待ったをかけたのはオトゴサのチェシャでした。


 ドン・ジョバンニは向き直るとチェシャと対峙しました。互いににらみ合います。


 その隙を突いてジネディーヌ様が動きました。注意がそれ幾分自由になったとみるや地獄へと至る穴から身を伸ばし、ドン・ジョバンニの足首をむんずと掴みました。


「やめないか! やめろ! 私まで地獄に堕ちてしまう!」


 背後をとられたドン・ジョバンニは慌てふためきます。


「今までよく私に仕えてくれた。だから地獄でも一緒だ」


 今まさに地獄へ堕ちようとするその瞬間、ジネディーヌ様は滅多なことではみせぬ笑顔となりました。


「えい!」


 隙をみたチェシャが渾身の力を込めドン・ジョバンニの膝元に体当たりしました。


「おおっ!」


 バランスを崩したドン・ジョバンニが地獄へ至る穴に落下しました。もがき苦しむもののジネディーヌに取り押さえられ、そのまま沈んでいきます。


「ジネディーヌ!」


 アルトゥール様は懸命に叫び呼びかけます。


 チェシャが腰の巾着から種を取りだし地獄へ至る穴へと投げました。種はすぐさま発芽し蔓草となって伸びていきます。


 ジネディーヌ様とドン・ジョバンニはとうとう亜空間の彼方へと消えてしまいました。

 地獄へ至る穴が閉じたその瞬間、蔓が入り込みました。


 蔓草をぐいと引っ張ると、手ごたえがありました。チェシャはそのまま蔓草を引き寄せます。ですが、戻ってきたのは切れた蔓のみでした。


「ああ!」


 アルトゥール様はへなへなと思わずその場にへたりこんでしまいました。


「大丈夫。どこか別の時空に飛んだはずです」


 チェシャが微笑みました。


「これでお終いじゃないのか……」


 嘆息したアルトゥール様の許にチェシャが寄ると、目線を合わせました。


「アルトゥール様。お願いがあります」

「?」

「過去の私にこの日が来ることをお伝えください」

「しかし、どうやって帰ればいい?」


 チェシャは微笑むと、巾着から別の大きな種を取り出しました。


 チェシャの合図でつぼみが芽生えるとすぐさま大輪の花が咲き、アルトゥール様を包み込みました。


「ご無事で」


 花は閉じ、再びつぼみに戻りました。


 はっとしたアルトゥール様ですが、気づくと元いた世界――人気のないレストランの床にへたり込んでいました。


 既にワンチョペの姿はありません。


「いかがなさいました?」


 何事かとチェシャが駆け寄ってきました。

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