8. 暗転

 それから二人は何度も手紙を交わしました。はい、筆跡でそれと悟られぬようチェシャが代筆したものです。


 ――おお、レオノラよ。正直に心の内を語ろう。かつてあなたほど美しく光り輝く娘をみたことがない。


 ――それは殿方の方便ではありませんの?


 ――私は汚れなき乙女の前に跪くユニコーン。あなたの囁きを耳にした瞬間、深い眠りに落ちてしまうでしょう。


 ――まあ、私が汚れなき乙女とどうして決めつけるのでしょう?


 ――レオノラよ。あなたの過去は知る由もない。あなたが告げるまで訊くつもりもない。太陽のように輝く今のあなたが全てなのだ。


 ――試すようなことを言ってしまい衷心よりお詫び申し上げます。私は庶民の出ですし庶民の暮らししか知りません。ジネディーヌ様はアフランシの貴族と聞きます。どうして私ごときが釣り合うことができましょうか。


 ――地位なぞ当の昔に捨て去りました。私が望むのは旅の終わり。長旅で疲れきった船を優しく迎え受け入れる港なのです。


 ――そこまでおっしゃってくださるとは、私は感涙にむせぶ想いです。ああ、ジネディーヌ様、あなたを一目見たい。私の胸は高鳴り甘く締めつけられます。かつてないこの高揚感はどうしたことでしょう。


 下書きするペン先が震えます。まるで古典の世界の恋愛。端からみると失笑もののやり取りですから、書いている本人もときに笑いをこらえられなくなります。


 しかし、慎重にことを運ばねばなりません。未だ手紙だけのやり取り。ふいに気分が変わって見向きもしなくなるやもしれません。相手の反応を用心深く伺いつつ、気をもたせるよう文章を練り上げます。


         ※


 公園で待ち合わせたチェシャとワンチョペが互いの恋文を交換します。


「恩に着るでやんす」


 苦手意識もあってか、ワンチョペはすっかり平身低頭です。


「うまくいくといいですね」


 チェシャはいつもの笑顔です。


 では、とワンチョペは踵を返しましたが、ふと立ち止まりました。


「ついでにノビル嬢を見ていくべし。なにせご主人はこれまでになく上機嫌。おすそ分けに与れるかもしれないさね」


 むくむくと助平心がもたげてきたのでした。


 ワンチョペは商店街へいそいそと足を運ぶと甘味処トバツの前に立ちました。


 ちょうど学校が引けた時間帯で、娘たちが連れだって来ています。


「今日もアルトゥール様いらっしゃるかしら」

「一生懸命なのが可愛いのよね」


 と笑いさざめき合いながら暖簾をくぐり、入店していきます。


「はて、チェシャがいるってぇことは近くに旦那もいるはずだね」


 つつつと壁際に寄るとワンチョペは聞き耳を立てました。


 と、出てきたのは例の娘でした。


「レオノラ嬢?」


 娘姿のアルトゥール様とすれ違ったその瞬間、ワンチョペは鼻をひくつかせました。


「む、この香り? もしや――」


 アルトゥール様はワンチョペが見張っていたことには気づかずそのまま行ってしまいました。


         ※


 それからしばらく後、扇形をしたヨノヲスの街の劇場は新作劇の上演初日です。ホールは大勢の人々で賑わいをみせていました。


 娘らしく着飾ったアルトゥール様もやって来ました。繊細な透かし模様をあしらったレースとフリルで飾られたそのドレスはアルトゥール様のためにジネディーヌ様がハポネ一番の店からわざわざ取り寄せたものです。


 ここでジネディーヌ様と一緒に観劇する約束ですが、


「劇が終わったら軽くお酒でも飲んで――」


 上演終了後の予定でアルトゥール様は頭が一杯です。


 と、目の前にワンチョペがやって来ました。


 おや、ワン――と言いかけて、アルトゥール様は慌てて口をつぐみました。


「レオノラ嬢でいらしますな?」

「ええ、私がレオノラです。あなたのことは従者から聞きました」


 声音をやや高めにおっとりと伏し目がちにアルトゥール様はトバツで特訓した娘言葉で答えました。


 ワンチョペは一礼すると静かに切り出しました。


「申し訳ありやせん。ジネディーヌ様は急用で遅れるでやんす」

「あらそうなの」


 こいつ、私と気づいてないぞ、アルトゥール様はにやけそうになると慌ててつくり笑いをしてその場をつくろいました。


「それで待ち合わせ場所を変更したいとジネディーヌ様より申し出が――」


 ワンチョペが言うには、急用で観劇に間に合わないので近くのレストランで待っていて欲しいとのことでした。


 それではと観劇を取りやめにしたアルトゥール様はワンチョペに連れられ、指定されたレストランへと案内されました。


 中に入ると、空席だらけのテーブルがいくつも並ぶ侘しげなフロアでした。


 ジネディーヌのことだ、今日は貸切かもしれない、そう考えたアルトゥール様はワンチョペの勧めるままに席につきました。


 しかしどうも人気がしない、客がいないのはともかくウェイターやウェイトレスすら一人としていないのはどういうことか、アルトゥール様は怪訝そうな表情で周囲を見回しました。


「ジネディーヌ様は?」


 アルトゥール様が上ずった声で尋ねると、


「残念ですが、ジネディーヌ様は来やしません」


 ワンチョペが口許を歪めました。


「香水を替えるとは考えましたな。さしものあっしも気づきませなんだ」


 それでようやくアルトゥール様もまんまと謀られたことに気づいたのでした。


「バレてたか。で?」


 どうせ他の女と逢引でもしてるんだろう、アルトゥール様はジネディーヌとワンチョペをどうしてくれようと考えはじめました。


 が、


「アルトゥール、いや、ジョセフィン。どうやらあんたが夢の娘らしい」

「はあ?」

「だが、あんたが今ジネディーヌ様を勝ち得るのは正直大迷惑でさあ」

「どうして?」


 ワンチョペの言葉にアルトゥール様は、何のことかよく分からない、こいつ何を言ってるんだという顔をしました。


「あのお方にはドン・ジョバンニの記録を超えてもらわねばなりません」


 ワンチョペがそう答えると、床に突如ぽっかりと暗い穴が開きました。


「わっ!」


 支えを失い、逃げる間もなくアルトゥール様はその暗い穴に落ちてしまいました。


「ワンチョペ、お前一体――」


 愕然とした表情のアルトゥール様にワンチョペは、


「知る必要はないさね。時空を超えてもらいやしょう。尤も戻れぬ旅だがな」


 ワンチョペはそれまで決してなかった低く暗い声音で囁きました。そしてアルトゥール様はそのまま亜空間の闇の中に呑み込まれてしまったのです。

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