第二幕第一場――クシロの町
1. クシロの町
「また帰ってくるよね、姉様」
邸宅の門前で小さなジョセフィン――本来ならジョセフィーヌですが、アメリゴで生まれたからその愛称で呼ばれている――はそう言いました。
姉様と呼ばれたのは当時十七歳だったレオノーレ様。屈むと小さなジョセフィンと同じ目線で微笑みかけました。
「心配しなくても大丈夫よ」
「約束だよ」
別れを済ませると、レオノーレ様を乗せた車が去っていきました。
――でも、姉さんは帰ってこなかった。
クシロの街の東西を結ぶ路面電車の中でアルトゥール様はしみじみとそう述懐しました。
「次はクシロ西大通り前――」
いつも通りの手馴れた声音で運転士のアナウンスが終わると電車はゆっくりと減速して西大通り前の乗り場で停止しました。
西クシロの大通りは繁盛していて、あちこちの路線へ分岐する路面電車やボンネットが少しだけ張り出したデザインのバスが行き交っています。
降車しようとしたアルトゥール様はふと足を止めました。脇に目をやると、ロングシートに腰掛けた制服姿の少女と目が合いました。
歳はオトゴサのチェシャとそう変わらない、一つ上くらいでしょうか。黒目がちで童顔のチェシャとは対称的に切れ長の眼で、ハポネの雛人形がそのまま人になったかと思わせるほど整った顔立ちです。ええ、紺のブレザーがよく似合ってましたよ。
アルトゥール様の視線に気づいたその少女は頬を赤らめ、すぐに目をそらしてしまいました。
「お人形さんみたいだな」
「よく一緒の電車になりますね」
そう言い合いながら二人組は電車を降りました。
※
市場で仕入れてきた品々が詰まった紙袋を抱えながらアルトゥール様とチェシャは大通りの端まで進むと、脇にそれ、細い路地裏に入りました。
細い路地をひたすら進んでいくと、T字路となった曲がり角で左手の通りの道幅が急に拡がりました。
そこで立ち止まったアルトゥール様は不思議そうな面持ちで広がった先をしげしげと見やりました。
「どうなさいました?」
「いや、いつもあっちに行きそうになるから」
そう、広小路にさしかかると、一瞬方向感覚を失ったような気がするのです。
チェシャは微笑しました。
「このまま、真っ直ぐです」
二人は小さな広小路で曲がらず、再び細い路地裏へと入っていきました。
ずっと昔、オトゴサの種の里から世界へと散った者たちは移り住んだ街に小さな広小路を作っていきました。そうして広小路の裏通りにひっそりと不思議な種の店を構えているのです。
ええ、彼らが扱っている種や薬草、薬の類は誰もが手にしてよいものではありません。必要とした者だけが探し当てることのできる、そんな魔法の空間なのです。
逗留先の薬屋はその細い路地裏の角にありました。
「ただいま戻りました」
元気一杯、勢いよく帰ってきたチェシャを店番の老婆が迎えました。
「はい、お帰りなさい」
アルトゥール様は抱えていた紙袋をレジの片隅に置きました。
「仕入の明細です」
明細を受け取ったお婆さんはざっと目を通すとうなずきました。
「すみませんねえ。このところ、どうにも膝が痛くて」
一旦店の奥に入ったチェシャが顔を出しました。渡り鳥の柄模様をあしらったエプロンをかけています。はい、デニムのオーバーオールにエプロンがチェシャのトレードマークです。
チェシャは後ろ手で腰紐をしっかりと結びました。
「では、店番交替します」
それでお婆さんは店の奥へと下がりました。
そうです、逗留先で店の手伝いをしながらアルトゥール様とチェシャは世界を巡っています。主だった街には大抵小さな広小路がありますから、それで十分でした。
翌朝もアルトゥール様とチェシャは買出しに出かけました。
クシロは大きな河の両岸に沿って発展した街で、東側を男神、西側を女神が開いたという言い伝えが残っています。
市場は河の東側にあるので、いつも朝早く出かけては必要な品々を仕入れるのです。
その帰りでした。路面電車に乗ったアルトゥール様が奥の席で座っているお人形さん――アルトゥール様がそう名づけた制服の少女を目ざとく見つけました。
「おや、帰りでも一緒だ」
路面電車が河の両岸を結ぶ橋にさしかかると、ガタンと大きく車体が揺れました。その拍子にチェシャの抱えた紙袋から橙が一つこぼれ落ちました。
橙は電車が揺れるのに連れてあっちへ行きこっちへ行き、ころころと転がっていきます。ようやく動きを止めたのは制服の少女がそれを拾ったからでした。
「はい」
お人形さんがチェシャに手渡しました。
と、
「よく一緒になるね。学校?」
アルトゥール様が声を掛けました。制服の少女は頬をほのかに染めると黙りこくったままコクリと頷きました。
それからです、私たちが会話を交わすようになったのは。
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