大帝国記 ケンセイアとホルヴィアの物語

杏元介(あんずもとすけ)

序文

アーリッド――物語の舞台


 歴史家はよく、世界のはじまりから現在までの歴史を総括して〈アーリッド史〉と表現する。「アーリッド」という単語を訳すなら、たいていの場面において「世界」が適当だが、ニュアンスのわずかな差異から誤解を生じさせてしまわないよう、後述においてはこの二つの単語を異義に扱う。これはわれわれが用いる最も一般的なラインガートの言語体系が確立する以前に生まれた、ウルゴリック系古代言語群の原形であるエッサン語(旧ペルサイ語)の言葉であり、該当する意味を含む単語をほかの言語に求めるのは困難である。ひとつの固有名詞として扱うのが好ましい。

 古代ペルサイ人には、アーリッドという言葉のほかに、時代における自分たちの世界観を〈アトラレンス・マスパスウェニー〉と呼ぶ概念があった。これはエッサン語で「過去と未来の狭間にある地」といった意味を持つ。ヤコフやイオルクと交流のなかったこの時代、あたかも自分たちが世界の支配者であるがごとくにふるまっていた人間は、三千年余りの時を古代ペルサイの地で過ごした。この時代を歴史家は〈アトラル紀〉、もしくは〈唯人紀〉と呼ぶ。

 アーリッドではすなわち、人間、ヤコフ、イオルクという三つの種族が同時期に繁栄した。物語をはじめる前に、このアーリッドにおいて高度な文明を築いたそれぞれの種族について、まずは簡単に説明しておきたい。


ヤコフ――全ての文明の祖


 ヤコフは、現在こそ単にダワリ人(ダワリ地方を故国とするため)と呼ばれているが、かつてはアーリッド史上最も先進的な種族であったと考えられていた。世界の人々がラインガートを手に入れるよりはるか以前に、現在の完成されたドーメニア語を話していたことも、彼らが早期に高度な文明水準に達していたことを示している。

 世界最古のヤコフ遺跡であり、神の書物とも呼ばれる広大なベロデヴドの大石板(現ドーメニア領グラムデーニャ)からは、その時代に存在することの考えられない高度な技術や思想、超常的概念についての記述が解読され、のちに偉大なスパイアが生み出す〈魔獣〉や〈軍獣〉といった創造種が、このヤコフ文明を起源とするのではという、スパイアの伝説を基盤とした大帝国史観を根底から揺るがす大論争を引き起こした。個人名が明らかな最古の人物である唱導者ソノドゥラもヤコフであり、この大石板をはじめとした遺物や古文書によって存在が記録されている人物である。彼は人間とイオルクに共存共栄を訴えたことで有名な思想家だが、コデューン教会はソノドゥラの存在を含め、ベロデヴドの記述そのものを史実として是認していない。

 この古代種族の祖先は、深海に住んでいた甲殻類の一種であるネクテロプスといわれている。異常気象により陸地に這いあがり、ヤコフの直接的な始祖であるパリデオノクスに姿を変え、さらに長い年月を経て知性を身につけたという。

 ヤコフはその身体的な特徴から、大きく二種に分類される。頭部に巨大な一角を持つ華奢で長身のコレクプルクスと、角と首がなく小型のプロコンプルクス(あるいはゲステュルクス)である。マンダックやガオニドのような好戦的な部族を輩出したコレクプルクスはすでに絶滅しており、ダワリ人と呼ばれる現ヤコフはプロコンプルクス、超古代文明プロコンプリッドの末裔である。パリデオノクスがヤコフを自称しはじめた頃には、この二種族は政治的にも対立していたといわれる。

 最も偉大といわれる種族が、アーリッドにおいて最も影響力を持ち、広大な領土を治めた時代が、ガオニドの侵略主義的な帝国期だったことは嘆かわしい。ママルターの架け橋を経由してウルゴア大陸(現ブレンティア)北部に突如出現し、人間世界のメシルとウヴィドゥナを破壊したガオニドは、ウルゴア各地に都市国家を林立していた人間にとって恐るべき侵略者だった。このときカメリタやイパラゲオン、フィトシュバ、パルポットの人々が逃げるように大移動をおこない、新パレスティア紀の主役となるオピック、小ペルサイ、イッポス、メノン、デフィア(オルトゥ=アトゥア)、モンゴレドーリア、ユフソーリアといった王国を興すことになる。

 ガオニドの脅威に対し、人間とイオルクは史上初めて手を結ぶ。これはアーリッドで最初の〈大同盟〉と呼ばれ、皮肉にもかつてのソノドゥラの理想がヤコフ以外の種族間で実現したことになる。この戦争は凄惨をきわめたが、ヴァルデラ平原での決戦に勝利した大同盟によってガオニドの王カンニボスが倒され、ウルゴアに君臨したヤコフの一大帝国は完全に滅ぼされた。だが、ガオニドの猛威によってアーリッドはあまりに多くを失った。総じて〈クカントゥウェルト〉と呼ばれる人間の諸王朝のうち、ボイセン、アルゴワ、エザヤ、ルガイ、ソレンサは滅亡し、これらに仕えていたさまざまな奴隷種族もまた、歴史から姿を消したのである。

 大同盟はその後、厳密には共存の道を歩むことはなかったが、スパイア王国樹立の礎をもたらしたことは明らかである。ガオニドの敗北後はプロコンプルクスの諸部族がモア大陸(現ドーメニア本土)で存続し続けるが、その数千年後、〈第二次赤銅戦争〉と号される壮絶な世界大戦の中で悲劇的な大虐殺に遭い、現ダワリ人の祖先に当たる少数の難民を残すのみとなった。


イオルク――アーリッドの策略の民


 パリデオノクスが濡れた甲羅を陽光に晒しはじめた頃、イオルクの祖先は熱帯のアヌンバエという地にいた。ファルコディクトゥスと呼ばれる知的な爬虫類であった彼らは、俊足で名高い肉食獣クラオニクスを仕留める狩りの達人で、パリデオノクスの三倍ほどの巨体であった。やがて大規模な天変地異によって住処を追われ、烈風吹き荒れる水のない荒地イオに移住したファルコディクトゥスは、この地で未発達だった翼を最大限に利用できるようになると、遠方のオアシスを求めて空を駆り、長い年月を経て鳥のようなイオルケルナスに姿を変えたという。

 アーリッド史上、パリデオノクスとイオルケルナスが目覚め、文明の産声をあげた時代を〈ボロア紀〉、もしくは〈万象紀〉と呼ぶ。

 ヒンゲル地方は現在もイオルクの故郷といわれるが、ここはかつてイオルケルナスが生態系の頂点に君臨していたイオであり、ファルコディクトゥスの発生地であるアヌンバエの位置は解明されていない。

 イオルケルナスは天空を制する種族として、しだいにアーリッドを支配する野望を抱きはじめる。きわめて突飛な学説だが、一部の研究者は、ママルターの架け橋こそ航空の先駆者であるイオルケルナスの創り出した大陸間移動技術の産物であると論じている。その真意はどうであれ、パリデオノクスと決定的に違う点として、肉食性であったイオルケルナスは種族全体が侵略的な性向を持っていたのである。現在でも、イオルクが実権を握る国々は世界各地に存在する。

 アーリッドの歴史に潸然と輝き残るブーム文明は、プラカトリウムと並び、パレスティア紀におけるイオルクの最盛期であることは間違いない。だが、重要なのはそれ以上に、スパイアやその後のペレシカ、ドーメニアといった〈ケンセイア〉における彼らの文化的、政治的な影響力である。事実、スパイアの帝王パテクーシャンはイオルクであった。大帝国史上最強の覇者と謳われる大人物を輩出し、同時に魔獣を生み出したこの種族は、支配者として、人間やヤコフを凌ぐ資質を秘めている。

 ブーム文明を興したイオルクは、彼らの言語でリーエビンと呼ぶが、この人々が現在のマイシャンの祖先である。スパイアの侵攻によってブームが滅亡すると、イオの都市を追われた人々は新天地を求めて世界中を放浪した。行き着いた地がロービエンでありアヌヴェルドーシュクであり、モアのマイシャナであった。かつてのアヌンバエに似た熱帯であるマイシャナに移り住んだリーエビンたちは翼の退化と引き換えに絶滅を逃れたが、ほかの植民は戦争や飢餓に苦しみ、ほとんどが大地から滅び去った。生き残った人々がマイシャンと呼ばれるようになるのは、それからほんの数世紀のあとからである。人間とイオルクが共存したアーリッドにおいて、マイシャンは自分たちこそが正統なイオルクの末裔であり、プラカトリウムを根源とする人々より高等な存在であると信じている。ドーメニアの時代においてもなお、彼らの一部の原理主義的な思想が、イオルクの社会全体に大きな暗雲を漂わせている。


人間――ホルヴィアの創始者


 人間は多くの種がアーリッドで歩んできた進化の歴史をもたず、その起源は明らかにされていない。人間が興した最古の文明はクカントゥウェルトとされるが、旧ペルサイの歴史のほとんどが謎に包まれているため、アトラル紀にそれ以上の大きな文明を築いていた可能性も否定できない。プロコンプリッドの時代のもので、人間は天空から降り立ったと解釈されるような痕跡のある遺物も発掘されており、「海から来た地の民、ヤコフ」、「大地から舞い上がった空の民、イオルク」、「空から舞い降りた海の民、人間」という三つ巴の関係性をあらわすこともある。コデューン教会は、この美しい太古の世界観を宗教的に活用し、ホルヴィア聖典にその信憑性を見出そうとしている。

 ガオニドによって存亡の危機に直面した人間は、イオルクと利害の一致を見て結託したことは前述のとおりであるが、その後はスパイアに代表される大帝国を繁栄させた種族として、アーリッドの支配者という地位を得ることとなる。彼らは航海技術に優れ、その領域を海に広げていたことが最も大きな要因だったといえる。また、クカントゥウェルト諸王朝の遺産であり、のちにシシン王が再構築する〈ミューマニズム〉の興隆も、人間がアーリッドにもたらした驚異の変革のひとつであった。

 大同盟に参加していた人間はほとんどが遊牧民族であったが、そのうちのいくつかの部族はヴァルデラの戦い以降、ウルゴアを安住の地として再生するべく砦や城を築き、その周辺に町を作った。大王ヘラウェオス一世のスパイア王国は、このとき勃興した諸都市を一気に支配下に置き、イダイア以東のオピック王国、アーヴル海峡以南のメノン大公国と国境を接した版図を形成して始まる。かつてトゥライアとウヴィドゥナの地を支配していたボイセン王朝を丸ごと飲みこむ広大な領域であった。ヘラウェオス大王は、遊牧民たちが口承していた伝説を体系化したホルヴィア聖典に基づいて宗教国家体制を樹立し、その治世は三十五年間に及んだ。

 ホルヴィア帝国の覇権時代が幕を開ける。ガオニド、ブーム、クカントゥウェルトの時代を〈前パレスティア紀〉と呼ぶのに対し、その後のスパイアの時代を〈新パレスティア紀〉、もしくは〈紅紀〉と呼ぶ。


絶世時代からケンセイアの時代へ


 さて、スパイアの王系表は大帝国正則教会が所蔵しているが、それは神話と史実が絡まる謎に満ちた古代遺産のひとつである。歴史は、後代の人々によって念入りに調整され、失われた部分は時の権威によって補完された。しかし、どうしてもつじつまの合わないことがアーリッド史にはあった。ママルターの架け橋といった神秘的な言葉は、そのような謎めいた事象を解釈するために苦しまぎれに作られた。〈絶世時代〉と呼ばれる歴史の空白は、アーリッドが経験した最大にして最悪の暗黒期といわれている。二千年以上に及ぶスパイアの歴史が終焉を迎えた黎明期、そしてその後に台頭するペレシカが覇権を握ったほとんどの期間は、絶世時代の闇に閉ざされているのである。

 第一次王政、そして第二次王政を経たスパイアは内乱の時代に突入し、王系表によると紅紀一五二二年~一六〇〇年の間に分裂、旧クカントゥウェルト地域に当たる北部は領土がかつての五分の一ほどとなった。王政から帝政に移行した北スパイア帝国は、その後も旧南東部を領土とする南スパイア王国とウルゴアの覇権をめぐって争い続け、さらに〈第一次赤銅戦争〉の勃発により疲弊していく。旧南西部を領土とするフロンク=ターミュル王国は、一七五三年にダラキアとメノンの侵略戦争にさらされ、滅亡した。赤銅戦争から約六〇〇年後の二二三九年、北スパイア皇帝プロセリオンが瞑目したとき、長きに渡ったスパイアの歴史は幕を閉じたとされる。

 絶世時代の巨星は、ペレシカである。新パレスティア紀が具体的にいつまでの時代を指すかは意見が分かれるが、近代アーリッド史においてはペレシカの英雄伝説が現在の暦の基点となる。紅紀未明、モア西端のベリンにて、賢聖ディマシオスの子エルザリウス・パーツが誕生する。コデューン教会はこれを帝暦一年と定めている。

 歴史の表舞台はウルゴアからモアに代わる。帝暦初期、この地は三つの大国に分かれていた。のちの盟主であるドーメニア、海洋国家マッセイジ、そしてペレシカである。いずれの国も、多くの魔獣によって守護されていた。具体的な分布は定かではないが、〈パテクーシャンの一二八の魔獣〉のうち、ペレシカは人語を解する六〇以上の賢獣を擁していたとされる。そして、スパイアが実現し得なかった聖典の大義とされる〈ホルヴィウム同盟〉を締結したのも、ペレシカが最初であった。

 厄介なことに、この時代の史料は大半が戦火に焼かれ、失われている。一説にはジクサリア(現ジクサルヴァトラ)やゴーディア(現ドキア南部)の建国民も、モア世界の住人であったとされる。世界規模の第二次赤銅戦争は、絶世時代におけるブラックホールである。

 帝暦四五〇年頃、ホルヴィウム同盟はペレシカを盟主〈ケンセイア〉として成立していた。構成する同盟国〈グリダイン〉は、マッセイジ、ニヴェキス、ケルツィア、セルヴェニア、ドーメニア、ドラヴィスゴフ、リコイア、ゴーディアの八か国である。このうちケルツィアとセルヴェニアを除くすべての国は、のちのドーメニア覇権時代においてもグリダインとしてケンセイアに恭順を誓っている。それぞれの国の後身は次のとおりである。

 マッセイジは、のちに自治体としてドーメニア帝国の一部となる。ニヴェキスはゴーディアをはじめとしたドキア諸国を併合し、ドキア諸侯連合を樹立する。ドラヴィスゴフは、ポーラ帝国としてさらに勢力を広げる。アトゥ派帝国であるリコイアは、古代デフィアの時代においてもスパイアの同盟国であり、盟主がドーメニアに変わってもケンセイアへの忠誠は揺るがなかった。

 帝暦一五八四年、すでに世界帝国に成熟していたドーメニアは、新たなホルヴィウム同盟の成立を宣言した。構成するグリダインは、ドキア、ヘミリア、ダタリア、ポーラ、オステファン=マルキア、リコイア、ジテニア、そしてアマストロ朝の八か国で、すべてが強大な軍事国家である。これに加え、イェズマラ、ヘクスラ、ガルソーブが準同盟国として恭順を誓い、さらに四〇以上の属国が従った。地理的には当然の成り行きだが、ダワリとマイシャナもまた、ドーメニアに与していた。

 ある魔獣によれば、ドーメニアは人間とイオルクとヤコフによって繁栄した唯一の大帝国であるという。かつてのスパイアやペレシカは、魔獣やミューマンの存在によって栄華をきわめた国である。魔獣は絶世時代が明けるとともに忽然と姿を消し、ミューマンはセルヴェニアやブルクジウェイ以降、大国を興すことはなくなった。アーリッドは再び、前パレスティア紀のような三大種族の時代へと突入したのである。

 だが、帝王パテクーシャンの遺志を受け継ぐ者は、辺境の地でひそかに生き長らえていた。

 世界は再び魔獣の前に屈する。セイナ・アスレイの登場は、アーリッドを第二の絶世時代へと導くか。

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