随筆もしくはエッセイ
紫喜 圭
好きということ 『魯山人の料理王国』から
『料理王国』 北大路魯山人
書評をしようという物じゃないから肩の力を抜いてほしい。
北大路魯山人という怪人を名前以外に知っている人はどのくらいいるだろうか。とにかく私は伝え聞く彼の男の姿を怪人と以外に示す言葉を思いつかない。
魯山人という男について知りたければ彼の文を読んでみるのが一番良い。青空文庫に行けば読める。それが億劫ならアンサイクロペディアを読むといい、雰囲気は大いにつかめるものと思う。またせっかくアンサイクロを訪れたらついでにハンス・ウルリッヒ・ルーデルの項も見ることを強くお勧めする。ただし本文を読み終えてからにしてほしい。今ここで飛んだらきっと面白くてこっちの続きを読むことを忘れてしまうだろうと思うのだ。
さて魯山人の話に戻ろう。彼の何について語れば私の言わんとすることが伝わるだろうか。とにかく彼は美を表現することが好きなのであった。その方法として料理や書道や絵画という手段を用いる、というのがおおよそ彼のスタンスである。
そんな彼の料理や物事に対する一家言たるや素人の私が見たって尖った論の多いことがよくよくある。トランプ米大統領の報道される破天荒さなんかはそれに近いものがあるのではないか。
しかしそんな彼は料理で最重要なこととして真心を挙げる。思いやる心が料理には不可欠である、と。トランプ氏がかつては柔軟で落ち着いたビジネスマンであったという記事を読んだことがあるが、通底に共通するものを感じずにはいられない。
とにかく魯山人は美が好きでトランプ氏はお金が好き、という極端な違いはあれど両者とも好きな事柄がある人物には間違いないのだろう。
そんな魯山人の生き方は徹底的な実践主義であったという。とにかく美を表現するのに必要なことなら何でもやった。作った料理に見合うお皿がないと思えば自分で焼くのだ。ちょっと長くなるので恐縮だが彼の思想を示すものを一つ引用したい。
一人の男がいた。女房が去った後は独りで暮らしていた。その男はこんなことを考えた。
「まず土地を見つけることだ。よく肥えた土地を。そしてそこへ野菜を植えるのだ。毎日野菜が食べられるぞ」
けれど、男は土地を探すことをしなかった。家の中でごろごろしていた。それでも、おなかがすいてくるので、パンをかじった。男はあくる日、こんなことを考えた。
「野菜もいいが、牛を飼うのだな。そして、豚も飼うのだな。おいしい肉が食べられるぞ」
でも、男はなにもせずにごろごろしていた。おなかがすいたので残りのパンをかじっていた。その男の頭が、なんだか少しふくれているようだ。
あくる日、男は考えた。
「女房がいなくとも、ちゃんとこうして食べていける。待て待て、自分で料理だってできるぞ。そう動きまわらなくとも、手をのばせば用事ができるような便利な台所をつくることだ。清潔な明るい台所を」
だが、男は実際はなにもしなかった。おなかがへってきたので、パンを食べようと思ったが、もうパンがなくなったので、米びつの米を生のままかじって考えた。
「待て待て、台所もいいが、それより先に、働きやすいような、身軽な服装をこしらえることが第一だな」
それでも、なにもしないで、女房が部屋のすみの棚においていったりんごをかじった。
その男の頭が、少しふくれたようだ。
「そうだそうだ、果樹園を作ろう。新鮮なくだものを木からとってすぐ食べることはすばらしいぞ」
でも、男はなにもしなかった。そして米びつの米をかじった。
こうしてこの男は考えてばかりいるうちに、だんだん頭が大きくなっていった。少しも働かぬので、手や足はだんだん小さくなっていった。家の中にも、もう米もくだものもなんにも食べるものがなくなった。それでも男は考えることを止めずに、考え続けた。だんだん男の頭は大きくなって、手足や胴は小さくなっていった。
とうとう食べるものがなくなると、男は小さくなった自分の足を食べてしまった。でも、男は考えを止めなかったので、いよいよ頭が大きくなっていった。食べるものがないので、自分の胴を食べ、手を食べてしまった。
おしまいに、この男はもう食べるものがなくなって、考える頭と食べる口だけになってしまった。この男の考えることは、一つも間違ったことはなかった。ただ一つも行わなかっただけであった。世の中には、こんな頭の大きい男がたくさんいる。わたしは、この気味のわるい男の話をときどき思う。
正しいこと、いいことを考え、間違ったことを少しもいわないひとびとがいる。そして一つも実行しない人間もいる。
料理をおいしくこしらえるコツは実行だと思う。わたしのいうことが正しいか正しくないかをまず批判していただきたい。そして、ああそのとおりだと思ったら、必ず実行していただきたい。
非常にわかりやすい、また料理に限らず大切なことであると思う。これが楽器でも語学でも、とにかく何か技能を身につけたり学んだりするには実行すること以外にできることはない。
その実行に至るまでの熱やモチベーションを抱き続けることができるか、ということが”好き”ということの本質に近いものなのだろうと思う。
それは興味や関心、好奇心というようなものに誘発され発展していくものだ。もしかすると幼少からの習慣が”好き”という感情すら超えて実生活に寄り添っているような人もいるかもしれない。
私の場合はいうまでもなく書くことが好きだ。メモ魔という癖が高じて日記を書くようになり、果ては小説なぞ書きたいと思うこともある。
ただとにかく書いていると落ち着くというか、私にとって書くという行為はそういうものであった、そういうものでしか当時はなかったとも言える。
しかし大学入試で小論文を書くようになり、大学で論文を書くようになると必定読み手をこれまで以上に意識する必要が出てくる。それはいい評価を得ようということではなく、全くバックボーンの違う相手の心に自分の文章で何かしらの化学変化を起こそうという試みである。
そう思ったとき、私にとって自慰的行為でしかなかった書くという行為が”表現する”というものに変わった気がしたのだ。
私はきっと伝えたいのだと思う。実行せよ、と。何だったらそれを研究する研究者になれと。実行が発見を呼び発見は興味をそそり興味は観察として再度実行され、また発見を呼ぶのだろう。まるで科学者がする実験のプロセスではないか。
このループが熱やモチベーションを再度発生させるのだ。
私の趣味に散歩があるがそれだって研究すると面白い。万年筆が好きですなんていう人のブログの中には詳細なデータと見分が織り交ぜられて論文として成立しそうなものすらある。そして私にはそういう”好き”が狂おしいほど愛しい。
能動的に何かを楽しもうという気合に満ちた人生を送りたいものだ。当然、いつでもそういうわけにはいかない。しかしよく食べよく寝ることで毎日通る道にも変化や感慨を発見し歩けるものだ。そうすると私はつくづく散歩というものの良さを実感して"好き”という気持ちを新たにする。
実行しよう。人生という喜劇の舞台を大いに舞おうではないか。
参考文献
北大路魯山人 (1980) 『魯山人の料理王国』文化出版局.
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