四、魂を奮わせること
四ノ一、原料の調達
小川の脇の小さな日本家屋、それが市間内郎の住まいであった。舗装路から未舗装路へと曲がり、しばらく田畑の続く風景を通り抜けた先に、塀や生垣もなく一軒だけの
本当にここで合っているのだろうか、と餓蝶は半信半疑ながら木製の引き戸を叩いて呼ばわった。
「市間、いるか? 私だ、餓蝶だ」
がたがたと音が聞こえて、扉が少しだけ揺れる。中で閂を外したらしい。粗末な見た目に反して、扉は音もなく横へとスライドして、中から市間が姿を見せた。白いスーツ姿でネクタイはしていなかったが、手には軍手をはめている。
「いやあ、これは餓蝶さんじゃあありませんかあ。今から畑仕事をしようかと思ってたところなんですよお。どです、ご一緒に?」
「スーツで、か?」
苛立ちを隠そうともせずに餓蝶が問い返すと、市間はゆっくりと大きくひとつ頷く。
「もちろんですよ。土には正装で向き合う。当然でしょう」
真剣な表情で述べながら、市間は傍らから片手サイズの草刈鎌を両手にひとつずつ取り、一方を餓蝶へと差し出した。
「あとにしてもらおう」
片手で横に払う仕草をして冷淡に断ると、餓蝶は押し入るかのごとく市間を下がらせながら家の中に一歩踏み込む。外観どおりに狭い家だ。大小の農機具が置かれた土間と、
「あのう、餓蝶さん? どうかしたんですか?」
困ったように問いかける市間に、用件は分かっているだろうとばかりに餓蝶は黙って、その顔を睨みつける。両手に持った鎌と一緒に首を傾げて市間は、もしかしてと前置きしてから、自信のない推測を口にするようにゆっくりと応えた。
「あれですか、コンビニみたいに、トイレ借りたいとか。ありますけど、外ですよ。汲み取り式でも良ければ」
沈黙で否定の応答を返す餓蝶に対して、それ以外の可能性は思いつかず、市間は鎌ごと両腕を挙げて降参の姿勢をとった。不貞腐れた声を出す。
「わっかりっますぇぇん。なーんでっすかー。おしえてくーださーい」
「協会と計算資源管理委員会を侮辱するつもりか、貴様は」
暗い響きを伴いながらの餓蝶の脅しを受けてもなお、市間には何故この理器士が訪問してきたのかに、思い当たる節がなかった。これでは埒が明かないと観念して、市間は話題を変えることにした。手にした鎌を元の位置に戻し、軍手を外しながら餓蝶に上り框へ座るよう勧めてから、自分は履物を脱いで部屋に上がり、キッチンでお茶を淹れる準備を始める。
「まあまあ、ともかく餓蝶さんも無事にあの場を脱出して、あの晩から元気でしたか。でしたよねえ。だから今日も元気なんですもんねえ。いやあ元気元気。いいことですねえ」
長々と無駄な言葉を継ぎながら、ちらちらと横目で餓蝶の様子を伺う。客人は、とりあえず座ってくれてはいたが、引き続き不機嫌であるようだった。板の間に置いた手の指先がトツトツと床を叩き続けている。
「それにしても、惜しかったですねえ。私も最初はいけるんじゃないかって期待しちゃってましたけど、いやあ、なかなか」
ヤカンで湯を沸かしながら、市間は茶筒を開けて急須に茶葉を振り入れる。湯呑み五杯分程度の水が沸騰するまで、さほど時間はかからないだろう。その間を、市間はシンクの縁に手をついてヤカンを待っている素振りをして、餓蝶と向き合わずに済ませた。
「市間」
餓蝶に名を呼ばれて、市間は無駄話を止める。用件を切り出してくれるなら、手っ取り早い。謎解き問答は疲れるだけだ。喜びさえ含んで市間が、はいはいはい、と応じると、餓蝶はリズムをとるような指先の伴奏にのせて、暗く恨み言の音色を突きつけてくる。
「あの晩のことを、そこまでよく思い出せるのであれば、よもや忘れてはいないだろうね」
「いやあ。いやいや。いやあ」
覚えているとも、忘れてしまったともつかない、否定でも肯定でもない無意味な声を発して、市間は下手なはぐらかしを試みる。だが結果的にそれは失敗した。ぎり、と聞こえたのは客人のした歯軋りの音だろうか。餓蝶の低めた鋭い声が市間を射抜く。
「どこへやった」
甲高い音が、沸騰の湯気を噴き出すヤカンの口から響く。それは餓蝶の低音と好対照であった。火を止め、用意したふたり分の湯呑みにヤカンから湯を注いで茶器を温めてから、その湯を流しへと捨てつつ、市間はなおも不可解な気持ちで応じる。
「どこへ、といいますと。何かお預かりしてましたっけ?」
「本気で、そう言っているのか?」
餓蝶の指先が立てる音が止まったかと思いきや、握った拳を床に打ち付ける鈍い音がひとつ響いた。作業の手を止めない市間の背中に向かって、餓蝶は殺意さえ込めた視線で睨み付けている。
「もちろんですとも」
客人の不機嫌はひとまず気にせずに言いながら、市間はヤカンの湯を急須にも注ぎ入れる。茶葉が広がるのを助けるために、それを片手でゆっくりとふた回しほどすれば、茶が浸出してくるまで、あとは数分の間だけ待てばいい。その隙間に、餓蝶の宣告が入ってくる。
「土俵だ。あの土俵ブローカーとやらから接収した土俵は、どこにやった」
「ああ」
そこまできて、やっと合点のいった市間は、掌の上にもう片手の拳を置いて納得の仕草を示す。そんな用事で訪ねてきたとは思いもしなかった。なにしろ、あの大量の土俵は、最初から自分のものにするつもりで、そのために餓蝶を利用しただけなのだから。あの晩に邪魔が入らないで松井を捕らえられていたら、思惑通りにタダで報復の心配もなく、たくさんの土俵が手に入れられていたはずだった。そういう計画のために協会理器士の一人を釣り上げた餌が、密売土俵の接収だったことなど、市間は完全に忘れ切っていた。
「そのためにわざわざ、こんな遠くまで来てくれたんですねえ。お一人で?」
「もちろんだ。私がおまえと組んでいると、協会に知られるわけにはいかない」
それを聞いて市間はすっかり嬉しくなった。なるほどなるほどお、などと言いながら、キッチンの引き出しから小さな包みを取り出す。紙を折り畳んだそれは、薬包である。自分の身体で湯呑みを餓蝶の視線から隠して、解いた薬包から片方にだけ粉末を入れた。その上から、急須の茶を注ぐ。瞬く間に薬は茶に溶けて、それと分からなくなった。自分用の湯呑みは茶だけにして、ふたつに少しずつ交互に注ぎ入れてから、最後の一滴まで急須からしっかりと振り落とした。
「さすが餓蝶さんですねえ。用心深くていらっしゃれられろれるられれる」
などと言いながら市間は湯呑みを運び、間違いなく薬入りを餓蝶に差し出す。薬の名は、幽根湯という。根の国と現世との境を幽かにする飲み薬であり、湯に溶いて服用する。薬包ひとつは一日分であり、一日二回に分けて半分ずつ飲まなければならない。さもなくば。
「で、土俵はどこへやった。教えねば貴様を縊り殺してでも吐かせるぞ」
もういちど、餓蝶の拳が床を叩く。身を乗り出して迫ってくる餓蝶に対して、市間は胸の前で両の掌を見せて振り、敵意のないことを示しながら弁明した。
「いやあ、こちらから連絡しなかったのは、餓蝶さんもお疲れだろうなあと思ってのことですよう。ちゃあんと土俵はお渡しするまで、とっておいてありますから。まあどうぞどうぞ、ぐいっとどうぞ」
「ならば良いわ、いただこう」
ふうーっと長い吐息を出して、餓蝶は警戒心を残しつつも、その声からは脅す調子はなくなっている。一人合点をして息巻いたことを恥じるのか、俯いたまま手早く湯呑みを掴み、ぐいっと傾けてふた口ほど流し込んだ。用量の倍の薬が溶け込んだ茶が餓蝶の喉を下るのを見て、市間がにんまり笑む。さあさ、となおも市間が勧めてくるので、餓蝶はもうひと口啜る。お気に召さないので? と言われて、なぜそうも勧めるのかと思いながらまた啜ったところで、視界が明滅しながらぐらぐら揺れた。
「い、いち……なにお、のまっせ……」
出したはずの言葉は麻痺した口舌で削られて、曖昧な音声になって漏れた。身体が言うことをきかない。上り框に座った姿勢から、餓蝶は室内に向かって仰向けに倒れ込んだ。半開きの白目と半開きの口を見て、市間は薬の効きを確認すると、まだ残っている湯呑みを餓蝶の口元へと運ぶ。
「いけませんよお。ちゃあんと最後まで飲まないとねえ。はあい、お薬でちゅよお」
流し込んで、口を閉じさせるために餓蝶の顎を下から押し上げると、むせて少し噴き出しながらも、ほとんどを嚥下した。誰でも最初の一回は昏倒する。それが倍量なら、暫くは起きないだろうし、その間にたくさん改造してあげられる。
「楽しみだなあ」
市間がこれまで手に入れた玩具の中に、高位の理器士はいなかった。相撲も分からぬただの人間や、せいぜい三段目までの取的だった。もちろん王鬼や勇王山も楽しいのだけれど、あれらは玩具にしきれておらず、どうにもわがままなところが抜けないのが残念ではあった。餓蝶もそうなる可能性はあるが、それでは面倒なので、もっとちゃんと薬漬けにしよう。しっかり言うことをきかせて、そうだ、まずはあの松井を潰して、後顧の憂いを断つとしよう。楽しみだなあ。
「楽しみだなあ」
じつに楽しみだなあ。
■
世界中で散発し続けている半霊半人による襲撃は、一部の地域では戒厳令を発令させ、また一部の地域ではそれを実施する人間の存在を消し去っていた。事象予報が襲撃者を生み出す原因であるという噂はネットワークを通じて瞬時に世界中で共有され、
そういった状況に、協会がどう対応しようとしているのか。鬼天はその情報を得ようとして、桜風部屋に足を運んでいた。桜風親方なら市間のことも知っているので、国内での危険性をうまく協会に話してくれているだろうという期待もあってのことだ。ところが、あいにくと桜風親方は不在で、どうも餓蝶麻子が居なくなったとかいう話で協会に呼ばれたのだという。そんなことを、師匠の代わりに迎えてくれた桜大海が、寝不足の目をこすりながら教えてくれた。
「一晩中、説教されてたのか?」
「一晩中、説教されてたのよ」
鸚鵡返しに肯定して、桜大海は盛大にため息をつく。このところ頻繁に稽古をサボって探偵の真似事をした挙句に、餓蝶と事を構えてしまった。松井さえも取り逃がしてしまったあの晩に、桜風部屋に戻ってきた桜大海を待っていたのは建物の前で仁王立ちをして、腕組みをして、あとラップを口ずさんでいる桜風親方だった。深夜にも関わらず。
挙句の果てには、色恋沙汰だったらまだいい、とまで言われてしまい、男を求めて夜中に出歩くなら、せめてもっと色艶のある話にしろ、という謎の説教にすら発展した。勇王山と相撲をとるために出かけていたのだから、男を求めてというのは間違っていないのだけれど、たしかに色っぽくはないなあ、などと思いながら桜大海は師匠の話を聞いていた。
「それで、桜風親方も寝ないままで協会の会合に行ったのか?」
「らしいね。ババアのくせに徹夜のひとつやふたつも平気だってんだから」
言葉では憎まれ口であっても、そこには桜大海が師匠を心配する内心が透けて見えている。それを思って鬼天が微笑むと、軽く睨まれてしまった。
稽古場の隅である。ふたりが立って話しているのを、他の親方や弟子たちに聞き耳を立てられているような気もする。そのくらい桜風部屋の誰もが、周囲の環境に注意を向けていた。つまり、稽古にちっとも集中していない。国技館での土俵を潰せデモなど、気がかりなことが多すぎて情報に敏感になっているというわけだ。だが。
「ダラッダラやってんじゃねえ!」
桜大海が一喝する。小波のようにあった少女たちのお喋りは、一瞬にして静寂の凪へと姿を変える。鏡面のごとく凹凸を失った一同へ、そっと桜大海は説く。
「あんたら、そんなで強くなれるっていうのかい。今日一日でちょっとでも強くなれなきゃ今週かけても強くなれないし、今月かけても、一生かけたって強くなんかなれるもんか。ささいな稽古でも真剣に強くなろうって気持ちでやんな。
言い終わると、妹弟子たちから一斉に、はい姉さん、という元気のいい返事が飛んでくる。ちゃんと部屋頭をやっているんだなあ、と鬼天が感心して桜大海の顔を見ると、夜虚綱は大きな欠伸をしていた。尊敬交じりの気持ちがあっという間に呆れに変わる。
「おまえ、よくそれで人望あるよなあ」
「なんだい兄さん。藪から棒に」
「なんでもねえよ」
そんなことを言い合いながら、熱気を増した稽古場を眺めていたが、ふと鬼天は思い出して訊ねてみる。
「そういえば、あれどうなった。そもそも円根宗に誘ったっていう弟子の件」
「ああ、靖実か。どうにもなってないよ。その後、とくに変わった様子もないしね」
桜大海は言うが、その声色には安心よりも心配が強く滲んでいた。稽古場を見回せば、谷村靖実が他の弟子たちと変わらずに真面目に稽古をしている姿がある。だというのに、部屋頭は妹弟子の何を気にしているのか、その理由を問う代わりに鬼天は、そうか、とだけ言って黙った。話したいことがあれば桜大海の方から切り出すだろう。鬼天の思惑は、ちゃんと伝わっていたらしく、やれやれ、などと前置きしてから夜虚綱は心配を口にした。
「まあ、ちゃんと稽古もしてるし、他の妹弟子たちとも変わらずに接してるみたいなんだけどね。なんか、ちょっと外出が増えたって聞いてね」
「稽古をちゃんとしてるなら、どこかの夜虚綱よりは真面目だな」
「うるさいよ」
鬼天の茶化しに応じてから桜大海は、やっぱ男とかなのかねえ、と呟く。そういうことであれば別に問題はないのだろうと判断して、鬼天は投げやりに、そうかあ、とだけ応じた。円根宗から勇王山や市間へと辿るルートは、今はもう遠くなってしまった。向こうも警戒しているだろうし、しばらくは彼らが表立つことは少なくなりそうだ。ただ、世界中で発生しているゾンビパニックに便乗しないかは懸念事項ではある。
「ねえ兄さん。今度、勇王山と会ったら、あたしに譲ってくれるだろ」
「いいや、やるのは俺だ」
にべもなく鬼天が断ると、けちー、などと幼女のように言って桜大海はそっぽを向く。そんなところに妹弟子のひとりが駆けてきて、桜大海に来客があると告げた。誰だい、と照れ隠しのように言う桜大海に、なんか怖そうな人でしたと印象を述べながら、客から渡された名刺を取り次いで妹弟子は去っていった。怖そうな人と聞いて、桜大海も鬼天も桜風親方の顔しか思い浮かばなかったが、部屋の師匠が客で来るはずも、師匠の顔をいくら下位とはいえ弟子が忘れるはずもない。あとは桜風の悪戯の可能性があるくらいだが。
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