三ノ四、恋慕

 四人目に続いて五、六人目も腕の一振りで泥へと葬り、桜大海はその矛先を今度は餓蝶に向ける。対峙して計管委員も正面から夜虚綱を見据えるが、その姿はまだ土俵入り前のままだ。ただでさえ餓蝶の現役最高位は小産巣日なのだから、これで勝てるとも思えないはずだ。だがその信念が不敗の気概を餓蝶に備える。計算資源の管理者であるのだから、ただの計算実行者に負けるはずがないではないか。餓蝶麻子の自信は、その一点によってのみ支えられている。本人にとって、その信念は大黒柱のごとく頼もしい一点であった。


「それで? 私とやる気なのかしら、身勝手な夜虚綱さん。協会に処罰されたければ、かかってくるといいわ」

「協会? 市間などと一緒にいるところを見ると、勝手な行いは餓蝶、おまえの方だろう。処罰を受けることになるのも、な」


 桜大海としては市間を捕らえたいところだが、それには奴と手を組んでいる餓蝶が邪魔をしてくるだろう。餓蝶を倒すことは難しくはないだろうが、桜風部屋に因縁がつくことは避けたい。それに今は片足で踏んでいる紙土俵しかなく、自ら踏み出すとなれば元の姿で動くことになる。となれば餓蝶との勝負はやや不透明になってくるだろう。市間が向こうに加勢すれば、なおさらだ。松井を餓蝶に渡さないことで、最低限の手掛かりを確保するのが安全策ではある。

 一方の餓蝶としても、気持ちで負けてはいなくても、身体は相手の強さを自分自身を含めた誰よりも良く知っている。何度も押し倒され、突き倒され、投げ飛ばされ、はたき落とされ、裏返されたこともある。顔でも背中でも土俵の味を覚えていて、ゆえに身体は相手に向かって動き出そうとしない。意志とは別に、鍛え抜かれた戦闘本能が最適解として撤退プランを組み上げつつある。できるだけ安全に。そうなるとやはり、市間の死に装束軍団を投入してもらうのが一番か。だが借りを作ることになる。であれば、見逃すと言葉で諭して、向こうから去ってもらうか。そうならずに、夜虚綱が攻めてきたらどうなるだろうか。逃げるしかない。逃げたい。――黙れ、計管委員のメンツを潰す気か。

 先に動いたのは、意志の力で経験と勘を捻じ伏せた餓蝶の方だった。


「市間、土俵をよこしな! どれでもいいから」


 理器士にとって正式な勝負は、互いが土俵の上にあるときに決する。たとえ密造品であろうと、土俵上での決着に餓蝶の意志はこだわった。


「ええーっ、もったいないなあ」


 倉庫の中身の搬出は終わったらしく、いつの間にか高みの見物を決め込んでいる市間が面倒くさそうに応じる。だが言い終わるや何かを思いついたらしく、死に装束たちに合図を送ると、餓蝶に従っていた人数の三倍以上が姿を現し、桜大海と松井をも含めて人の輪の中に囲み込んだ。


「いやあ、一度やってみたかったんだ、人体土俵。見ごたえあるねえ」


 相撲そのものは見えないけど、とは言うものの、市間は楽しげに人垣を眺める。

 囲みの中では、餓蝶の肉体に理器士としての変化が現れていた。筋肉と脂肪が四肢にて盛り上がり、胴回りにおいてもしっかりとした体格を見せる。餓蝶は理器士にしては細身の方であった。それでも常人よりは倍もあろうという太さの手足に、腹も立派に太鼓を張っている。素早く相手の懐に潜り込み、足をかけたり廻しを持ってひねることでバランスを失わせるといった取り口を得意としていた。

 ふたりの理器士が囲いの中で死霊波動を発生させたことで、通常の半霊半人よりもずっと安定して稼動できていた死に装束たちの中でも、最も内側を囲っていた数体は、あっという間に黒い泥へと化してしまう。あとには熱した鉄板に落ちた水滴のような音と、薄い黒色の靄のようなものが空気に混じって消えた。


「このあたしに勝てるつもりってわけかい」


 言って桜大海は足元の紙土俵を蹴り捨てる。もちろんその姿は変化したまま変わらず、ふたりは同時に足を開いて身を低くし、いつでも相手にぶちかませる姿勢をとった。桜大海も餓蝶の得意な形は見知っている。これまで何度も対戦はあったし、何度も倒してもいる。餓蝶の形を崩す方法も、熟知しているのだ。ただ、今は後ろの松井を餓蝶に渡さないようにしなくてはならない。受けて下がり、いなして転がすような相撲はできない。自ら前に出ていく必要があった。しかし。


「正義は勝つのよ」


 冷静というよりも暗ささえ感じさせる調子で平板に声を発しながら、桜大海の先を取って餓蝶が前へと突き進む。理器士というものは、断ち相において死霊ビットの初期状態を同調させるために、相手と呼吸を合わせることが習慣付けられている。ゆえに行動の開始は呼吸の区切りと一致する。その裏をかいて呼吸リズムの途中に動き出した餓蝶は、それゆえに異様にゆっくりと踏み出したように見えた。だが餓蝶本人は既に桜大海の目の前にいて、夜虚綱の前褌に手を伸ばしている。

 掴み取った。確かに手にした感覚があった。だが次の瞬間には餓蝶の視界は水平方向に一回転している。桜大海の帯を取った餓蝶の腕の上から、相手の腕がのしかかっていて、せっかく掴んだ前褌を引くことができない。しかも、のしかかっている桜大海の腕の先では、がっちりと餓蝶の帯が掴まれている。その逆側の半身を引いて体を開いた夜虚綱の上手出し投げうわてだしなげが、餓蝶の突進力を利用して綺麗に放たれたのだ。だが桜大海は、通常通りに地面へ向けて引き落としはしなかった。水平に振り回し、その勢いで餓蝶が掴んでいたはずの自身の帯を強制的に解放させ、相手が元いた方向へと投げ返す。

 ぎゃっと松井の声がしたのはそのあとだった。餓蝶の勢いに対する慄きと、その迫力が半回転させられたときに蹴り飛ばした砂埃が降りかかったことに対する悲鳴が、同時に口から漏れたのだろう。それほどの速さで行われた一瞬の攻防であった。

 間髪入れず、桜大海はバランスを崩した餓蝶にぶちかましを決める。なんとか受けて夜虚綱の腕なり帯なりを取ることで体勢を立て直そうとする餓蝶に対して、構わず桜大海は突進の勢いのまま、餓蝶の身体を死に装束の人垣へと押し込む。ごぼ、と餓蝶の背を受け止めた死に装束が黒い泥になる音がする。そのおかげといえるだろう、餓蝶はなんとか体勢を整えることに成功した。胸に突き刺さっている桜大海の背が見える。その後ろ腰の帯に、再び地を踏みしめられた今の餓蝶ならば手が届く。左右両腕が桜大海の肩越しに上手うわてを取った。そのまま力づくに夜虚綱の腰を浮かそうとする。

 当然ながら餓蝶の思い通りにさせるはずもなく、桜大海は足腰の屈曲を保ちながら、相手の前褌を両手でがっちりと掴み、片脚を腹に膝がつくほどに踏み込むと、そこを支点にして餓蝶を肩の上に担ぎ上げた。そのまま後ろへ放っては松井に当たりかねない。大雑把に四半回転ほどしながら、両足をバタつかせて抵抗する餓蝶を背後へ投げ捨てた。

 死に装束たちの頭上へと放り出される餓蝶を見て、いつの間にか人垣から顔だけ出して見物していた市間は、掌で額を押さえながら残念そうにのたまう。


「あちゃあー。最初はなんとかなるかと思ったんだけど、全然ダメじゃあないか。まったくもう、仕方ないなあ」


 顔を引っ込めたあたりから、指を鳴らす音がした。市間の指示する声が聞こえる。


「そおれ、一斉に揉みくちゃだあ!」


 とたんに死に装束の人垣は一挙にその輪を縮めて、中の人間を押し潰すように攻めてくる。松井を捕らえようと桜大海の伸ばした腕も、視界ごと死に装束に埋められてしまう。今度は悲鳴も聞こえなかったが、理器士を見た衝撃からはもう立ち直っていたらしい松井のことだ、この混乱に乗じてうまく逃げようと立ち回っているのだろう。それを追おうとする桜大海だったが、死に装束に触れられるたびに、相手を黒い泥へと変えてしまうために、体中が黒まだらになりベタついて動きを鈍らせる。ひとしきり夜虚綱の視界と動作を妨害してから、波が引くように死に装束たちは姿を消した。あとには何も残らない。市間も餓蝶も、松井さえも見当たらず、足音すら聞こえなかった。

 取り残された桜大海は、顔についた黒い泥を拭い、盛大な舌打ちとともに地へと叩きつけていた。


  ■


 車の後部座席に倒れ込むように乗った松井江利は、そのままシートに突っ伏して盛大にため息をついた。


「どうしましたあねさん」


 待たせておいた運転手役の手下が声を掛けてくるが、黙って手振りで車を出すよう指示する。その手を身体と座席の間に突っ込んで、すっかりひしゃげてしまった煙草の箱を取り出し、器用に片手で一本を摘み上げた。箱の方が重力に引かれて座席の下へと落ちて、間の抜けた音を立てる。手下が車のエンジンを始動させた音が重なり、走り出した震動をシートが吸収してふわふわと揺れた。


「ああ」


 理器士というものが、あんな存在だったとは知らなかった。もちろん土俵の上で戦っている姿は映像を通して何度も見たことがある。だが、つい一瞬前までは色気のある女だったのが、あれほどまでに力強さを感じさせることができるとは。


「たまんないわ」

「何がっすか姐さん」

「うるさいよ」


 ぴしゃりと運転手を黙らせて、松井は手の中の煙草を転がしながら記憶を反芻する。強い女こそ、松井の理想とする存在だ。今の自分だって、数人とはいえ男も含めた部下を使って、大勢の客と交渉して違法な物品を売買しているのだから、決して弱いわけではないはずだ。客の中には変な因縁をつけて、金を払わずに物だけ奪おうとする奴もいた。そういう連中にも一歩も退かずに対応してきた。自分は十分にこの世界に一人で仁王立ちできる人間になっている、と信じることができていた。

 でもそれも、すっかり吹き飛ばされてしまった。しかも悔しいとは欠片も思う余地さえない。全く悔しがっていない自分に、驚嘆とも呆れともつかない感覚だ。完全に呑み込まれてしまっている。あの姿に。あの強さに。あの桜大海という理器士に。


「たまんないわ」


 もういちど言うが、さきほどの言いつけを守った運転手は何の反応も返してこない。


「なんか言えよ、馬鹿野郎」

「うっす。すんませんっす」


 八つ当たりにしては力ない声色に、素直に手下が謝るのを聞きながら、手の中の煙草を握り潰す。身を起こしながら、それを運転席に向かって投げつけた。


「ライター無くした」


 死に装束たちを掻き分けて逃げたときに、ポケットから落ちてしまったのだろう。言うと運転手は黙って自分のライターを差し出してくれた。この男は全く喫煙はしないというのに、松井のためだけに常備している。吸えばいいだろ、と言ったことがあるが、車の中にボス以外の煙草の匂いがつくのは嫌だとかいう答えが返ってきた。そんなふうに手下たちから慕われれば慕われるほど、松井は自分が強くあらねばならないという決意を塗り重ね続けてきていた。

 夜景が背後に流れ去る窓ガラスに、薄暗く自分の顔が映る。幸福をたらふく食ってひと息ついたあとのような、安心しきった表情をしているのが、自分で見ても分かる。見たことのない松井江利だ。またため息をついて、座席下から煙草の箱を拾い上げ、一本摘み出す。箱はポケットに戻して、手にした一本に手下がくれたライターで火をつけた。

 深々と吸い、長々と吐き出す。


「これじゃ、ダメだな」

「金のことですか」


 運転手に言われて、ようやく松井は市間から金を受け取っていないことに気付いた。しかし、それについて攻撃的な気持ちが起きてこない。血反吐が出るまで市間を滅多打ちにして倍の金額を奪おうという気にならない。今までなら絶対にそうしていた。


「やっぱ、ダメだわ」


 自分が松井江利として機能しなくなっていることを実感する。なんとかしなくては、このまま土俵ブローカーなど続けられるわけもない。どうすればいいかも理解してはいる。桜大海の姿を超えるだけの強さを手に入れればいいのだ。だが、そのために取るべき手段に躊躇がある。


「あの客、ヤっちまいますか」


 まだ松井が金の話をしていると思っているのだろう。手下が意気込んで言ってくるが、もういいよ、と力なく返事をした。するとルームミラーでちらちらと後部座席を伺いながら、手下はやや遠慮がちに心配してくる。


「どしたんすか。姐さんらしくもない。こうと決めたらすぐにやって、徹底的にやるのが姐さんじゃあないっすか。あんなふざけた野郎にナメられてていいんすか」

「うるさいよ」


 応じるが、手下の言葉にも説得力を感じる。自分はいったい、何を躊躇っているのだろう。それが最も良い手段なら、松井江利を強くするために桜大海の傍にいくことなど、ただそうすればいいだけのことじゃあないか。そして徹底的に理器士の強さを取り入れようじゃあないか。


「とっとと帰るよ」


 まずは眠ろう。そして目覚めてから会いに行こう。桜大海夕という当代最強の夜虚綱に。

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