一ノ四、過去から来た男たち
何も、起きなかった。理器士であれば、その死霊計算力に応じて発動するはずの肉体変化が、鬼天仁太郎には見当たらなかった。
「仁……理器士を辞めたのか」
引退というのは協会への登録を抹消することでしかない。民間の理器士として、その後も死霊計算を行い続けることはできる。その肉体が死霊回路を有する限りは。そして、土俵に入ることで活性化される死霊回路は、肉体変化を起こすはずだ。現に勇王山は鬼天との
「問いたければ、来い。そうだろ」
同じ台詞を鬼天は投げ返した。勇王山が背後にしているポールは白く塗られている。西方を表す色だ。真反対にある東方の青いポールに凭れ掛かって、真っ直ぐに兄弟子と視線を交錯させる。鬼天の右手側の注連縄に沿っていけば、南方である赤いポールがあり、その反対側は北方の黒いポールとなっている。東西南北に青白赤黒を配する、四神の土俵である。
広げた両脚の間に腰と肘を落とし、拳と目が相手を狙う。互いに同時にその姿勢になったのは、死霊回路共振の為せる業である。けれど動き出したのは勇王山だけだった。弟子の勇疾風ほどの速さはない、けれど全体重がのった迫力のあるぶちかましが、頭から弟弟子を襲う。それを受け止めることも、まして吹き飛ばされることもなく、鬼天はやや右へ脚を開いて中心だけ避けると、右手を伸ばして勇王山の帯を掴みにいく。ぶちかましの軌道上に残した左を相手の前で平手にして、喉元から
鬼天の動きを勇王山が読んでいないはずはない。共に修行を積んだ長年からは、数年が過ぎてしまっていたが、忘れられる日々ではないのだ。肉体にとっても、記憶にとっても。弟弟子が回り込んで開いた体の中央へ手を伸ばし、ベルトのバックルを掴むと、その左手を支点にぶちかましの威力を回転力にして、こちらも回り込む。待ち構えていた相手の平手は胸で押しのけて、右手でもベルトを掴むべく伸ばすが、それを嫌った弟弟子の左腕が落ちてきて払い除けられた。
だが片手に握り込んだベルトだけでも勇王山には十分であった。ぶちかましの余波も手伝って、そのままぐいぐいと鬼天を押してゆく。払われた手でなおもベルトを狙い、攻防を繰り返すうちにも、数歩押し込む。だがそこで止められてしまった。自由であった鬼天の右手が、勇王山の帯を掴んだのだ。罠である帯を。じりり、と肉の焼ける音がして、鬼天はすぐに手を放した。その隙に逆側での攻防を制して勇王山は、再び払い除けられぬように鬼天の左手を掴み止める。
気合一閃、好機を逃さず勇王山は有利な姿勢のまま一気に、相手を注連縄まで押し切った。鬼天の踏ん張った両足は押し摺られて、まるで床に直線を引くようであった。
ぎしり、と土俵が軋む音に重なって、勇王山の醒めた言葉が聞こえた。
「弱くなったな」
背中に食い込む注連縄の、綯い合わせたひと目ひと目が感じられるほどの圧力に抗しながら、鬼天は応じて乱れた呼吸の中に問いの言葉を混ぜる。
「なんだ、それは」
鬼天は勇王山の帯の灼熱がために掴み損ねた右手を、代わりに相手の左脇に押し付けていた。その腕を臍の方向へ絞り込み、バックルを掴む勇王山の腕を外側から抑え込んで、そこから伝達してくる突進力を削ぐべく対処している。その効果によって、ようやく勇王山の押す力をぎりぎり食い止められていた。
「敗北の理由でも探したいのか。見損ねたぞ」
だがまあいい。鬼天を詰ったあとに、ひとりごちて勇王山は、冥土の土産とでもいうわけなのか、念仏でも唱えるように訥々と述べた。
「この廻しこそ、
「化生……?」
それは怪奇異形の生物たちの総称であった。鬼天にも、死霊の目を通して見たならば、勇王山の腰周りを激しい火炎が取り巻いていることが分かっただろう。その赤く揺らめく高温の中に、光の無い黒い目がふたつ、帯の正面に開いていた。ぎょろりと鬼天を見上げて、人の言葉を発する。
『こいつ、弱いな』
ああ、と自分の帯に同意する声を勇王山は落として、同じ方向に視線も落とす。鬼天の腰はまだ浮いておらず、膝も余裕ある角度で曲げられていて、足の裏もぴったりと床に着いていた。土俵際には居るが、このまま注連縄を突き切って押し出せるような姿勢ではない。床に埋め込まれたポールと注連縄の軋む音を響かせながら、ふたりの攻防は力の持続勝負になっていた。
一見すると体勢としては勇王山が有利である。ベルトを掴んだ左手と、相手の手首を掴んだ右手によって、押すことも投げることも可能であるように見える。だが鬼天は、上体こそ反り気味ではあるものの、足腰の強靭さに加えて、ベルトにかかった勇王山の腕を外側から抑えることで、相手の動きを封じてもいる。肘を曲げる余地を減らして、勇王山が投げを撃ちにくくしていた。
それでも勇王山は全身の筋肉をフル稼働させて力をかけ続ける。鬼天が防ぎ続けているかぎり、一分の隙も見せはしない。たとえ掴んだベルトから感じる鬼天の足腰が根を下ろしたように重く、全く打つ手が無いように思えたとしても、時が機会をもたらすことを理器士たる者は、いついかなる場面でも確信しているのだ。
「諦めろ、仁。円根宗はこれからも世に死霊計算を広め続ける」
ぎりぎりと歯軋りのような音が、腕や肩、それらを支える足腰の関節から体内に響く。身体の伴奏に乗せるように平坦な声で通告し、勇王山はさらに鬼天を絞り込む。右の手中にある相手の手首を、捻り切るような回転方向の力を加えた。
耐える鬼天は詰問で応じる。
「その幽根湯とかいう薬の力でか。
「今はもう完成したのだ。死霊を最大限に理器士の役に立てられる力が、な」
やむをえないか。その決断は、ふたりが同時であっただろう。話して届かないのならば、相撲で語るのが人として理器士として採るべき方法だ。膠着状態が一瞬で解け、そのあとには白い布の細かい切れ端がいくつも舞い落ちていた。ふたりの姿は見えない。ただ反対側のポールが、くの字に折れ曲がったとき、その屈曲に背を埋めている勇王山の姿だけが突然に現れた。遅れて土俵中央にて鬼天は蹲踞をして、真横一文字に手刀を切る。その頭には、それまで存在しなかった魔解が大畏弔を開いており、その上半身に纏っていたはずの白いワイシャツは千切れて、背後の注連縄付近にようやく舞い落ち終えたところである。
「死霊を、役立てる、だって?」
鬼天が言いながら兄弟子を見やる。勝負はついたであろうと、勇王山の倒れ込む姿を予想していたが、意外にもその両足はまだ床にしっかりと着いていて、腿や脹脛で筋肉が再起を求めて伸縮し続けている。ポールに寄りかかっているとはいえ、まだ彼は土俵から出てもおらず、根の国に向かって伏してもいない。そして、鬼天に呼びかける声も聞こえてくる。
「なんだ、仁。今のは」
蹲踞の姿勢は尻を着けずに座るような形をしていて、上体は起こしてある。それをやめて鬼天は再び、臨戦態勢に戻った。頭を低く、腰を上げて、額から相手に突き刺さるための準備を整える。
「俺の相撲だよ。理器士が、役立つための、な」
鬼天の細身の身体は、戦闘に向かう気合を満たしてもなお、土俵による肉体変化を経た今の勇王山には歯が立つようには見えない。だがゆらゆらと立ち上がった勇王山の左腕は、上腕の半ばから折れて、力なく垂れ下がっていた。先ほどまで鬼天のベルトを掴んでいたはずの手だ。加えて勇王山の右脇腹には赤い手形がくっきりと浮かんでいる。鬼天の、抑えられていたはずの左手の形が。
頭を振って意識を明瞭にした勇王山の目は、むしろ純化された戦意で鋭利な光を発している。動くほうの右腕を腰溜めにやや引き、膝のバネに力を蓄えながら、半身になって向き合う。
「おまえの死霊回路が躍動しているのが分かるぞ、仁。おまえは分かるか、我輩のこの高揚が」
「もちろんだ。昔と同じく」
「来い! おまえの技は身体で見せてもらった。今度は我輩を知れ!」
勇王山の気合に引き込まれるように、今度は鬼天からぶつかって行った。床とほとんど離れない足裏が、数歩の距離を流れるように走ってゆく。勇王山の開いた体芯の前褌を掴むべく手を伸ばした鬼天に合わせて、勇王山も引いていた右手を突き出してくる。
「外法相撲技が
化生の火炎をまとった勇王山の右手が、鬼天の頭を張り倒すべく、残像を伴うほどの速さで弟弟子の突進に撃ち立てられた。逃れる余裕の全く存在しないタイミングは完璧であり、受けた鬼天の左肩は剥がれるかのごとく反って、勇王山の帯へと伸ばしていた左手が届く寸前で妨げられる。ばかりか、逃がしきれなかった衝撃が身体を斜めに突き抜け、右足に床を砕いて埋め込まされた。ぐう、と苦痛の声がたまらず鬼天の口から逃げ出す。
「まだまだァ!」
素早くまた右手を引いた勇王山が、怒号を発して二撃目を構える。横転しそうなほど崩れた上体が、鬼天にあらゆる攻撃を不可能とさせていた。ならば。
即座に二撃目が、また鬼天の左肩へと抉り込まれる。より重く、より熱かった。だが攻撃を諦めた分を防御に専念した鬼天は、なんとか姿勢制御を間に合わせ、しっかりと土俵に根付かせた両脚で支えて受け止めた。細身であったはずの黒スーツのスラックスが、今や内圧に押し広げられて、鬼天の皮膚そのもののように中の筋肉が力を蓄える様子を見せる。まるで土俵上の理器士が見せる肉体変化が、脚にだけ起こっているかのごとく。使い捨てのワイシャツとは異なり、特殊な高伸縮性の素材を用いたこのスーツを、鬼天は何着も所持して愛用していた。
漏れた声は両者の口から同時にであり、再びの苦痛による鬼天の一方で、勇王山のそれは技の受け止められた感嘆からであった。左肩に突き立った勇王山の腕を、鬼天は左手で外側下方から押し留めている。肘の動きを封じ、三撃目へと引き戻すことを妨げるためだ。焼け焦げる痛みを堪えて、鬼天は口を開く。
「その幽根湯とやらで、あんたは、半霊半人を世に撒き散らしているんだ」
「あれらは失敗作よ。廃棄物でしかない。より強い理器士をうみ出し、協会を超える事象予報の組織をつくり出すための、残滓だ」
ごうごうと炎に巻かれる左肩の反対側では、鬼天の右手が指を食い込ませんばかりに、勇王山の肩を掴み取っている。彼の折れた左腕を警戒してのことではない。それは上げることならば可能であったろうが、鬼天との力のぶつかり合いの中では無力に垂れ下がるしかなかった。ただ勇王山を組み止めるとなれば、左右ともに抑えなければ成し遂げられないからだ。
互いの腕の長さの分だけ離れた空間で、ふたりは額を合わせるように向き合い、睨み合う。どちらも食いしばった歯を剥き出して、その隙間からきれぎれに言葉を吐いた。
「そんなもの、つくって、どうしようって言うんだ」
「
「それをやったのは、市間ってやつの薬のせいだろうが」
鬼天の指摘を受けて、勇王山は一拍の間だけ口を閉ざした。見合った目の戦意の中に、微量の悲しみが混ざったような気がした。じわりと伝わってくる炎が鋭さを増す。体内に刺し込まれた熱が、内臓から全身を焼くように暴れまわる。
「おまえには、分からぬか。
死霊の炎は死霊を焼く。鬼天が死霊回路で根の国から取り込んだ死霊たちが、化生の火炎で焼かれて消滅させられてゆく。いくら鬼天の死霊回路が、かつては夜虚綱であったほどの力を持っていようと、このまま組み続ければ限界は遠からずおとずれるだろう。
しかし――勇王山がふと笑みを浮かべた――鬼天が反撃に移るよりも先に、最後を報せる声があった。
「円根宗は終わらぬ。だが仁、おまえとは、これで別れであろうな」
地が震動し始める。床の裂断される音が走り回る。鬼天の揺れる視界で、ふたつの光が灯るのが見えた。人の目だ。髪を掴んで無理やりに引き上げられたように、不自然な角度でこちらを向いた勇疾風の顔で、吐血の紅に化粧された口が緩く開く。そこから男にしては高めの声が聞こえてきた。
「あっれぇー。武雄くん、マリちゃん死んじゃったんだね。私がこうして体を使えるってことは、やっぱりそうだよね。ねえ武雄くん。聞いてる?」
それには答えず、勇王山は鬼天に向かって小声で報せてくれる。
「まだ会ったことはなかろう。あれが市間内郎だ。声だけだがな」
市間ならば訊ねたいことは山のようにある。王鬼に薬を渡していた理由、幽根湯とは何か、それにこれから何をしようとしているのか。その中で、まず問うべき疑問を鬼天は口にする。
「市間、今どこにいる」
鬼天の調査でも、その居所は未だに判明していない。だが問いかけた鬼天の声を、聞こえなかったかのように市間は完全に無視した。そうする間にも地の揺れはいっそう強くなってゆく。
「聞いてるよね武雄くん。きみはいっつも無愛想すぎるんだよ。まあ私は嫌いじゃないけどさ。それよりも、なんか暴れてるらしいじゃん? まだ早いよお。こっちにも準備とかいろいろあるんだって、いっつも言ってるじゃない。マリちゃんも無駄にしちゃったしさあ。ちゃんと持って帰ってきてよ」
「やかましい」
ひとことだけ勇王山は応じた。弟子を連れ帰るのは当然だ。桜大海がそうしようとしたのと同じように。
「あー、またそういうこと言うー。まあとにかく、もういい加減に終わらせて、帰ってきなよ。早くね」
ごつ、と勇疾風の頭蓋骨が床にぶつかる音がして、市間の気配は消えた。続けてひとつ、大きく床が鳴り、揺れが止まった。
「外法相撲技が
市間の声と床鳴りが途切れた空白に、勇王山の技が差し込まれる。止まった床が、ぐらりと、鬼天の背を下にするように傾いた。
「さらばだ、仁。
重力に引かれて背後によろめいた鬼天と、自ら背後へ跳んだ勇王山との距離が開く。四本のポールが突き立った床ごと、三重神域方形土俵が端から捲れ上がっていき、瞬く間に直角を経て裏返しに床へと戻ってゆく。その一辺は部屋の高さよりも長く、途中で上階の床に穴を開けて、事務机のいくつかを鬼天へと降り注がせた。
意表を突かれて対応が遅れた鬼天とは異なり、思惑通りに土俵外に出て弟子を掴んだ勇王山は、土俵が空けた天井の穴へと跳躍ひとつで到達すると、地下一階を経て姿を消した。
「兄さん!」
轟音に驚いて様子を見に来た桜大海が見たのは、中央に正方形の土面を露出した空の部屋だった。駆け寄る桜大海を慰めるように、方形の中心で静かに土の山がひと欠片、崩れ落ちた。
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