【日記】【練習】文体の舵をとれているか?

 お久しぶりです。

 公募のほうは相変わらず結果が出ず(一次通過すらしていない)、まあまあ落ち込んでいます。

 もうなにをやっても駄目なんじゃないか……という気持ちが日に日に強くなってきているので、少しでも気分を変えるために小説や脚本の書き方の本を買ったり本棚から引っ張り出してきています。

 ということで今回は2021年最大の話題作、『文体の舵をとれ ル=グウィンの小説教室』をやったよ、という報告と成果物の公開です。

 去年話題になった時に購入し、半分ほど読んで練習問題も私にしては珍しくきちんと全部やっていたんですが、途中でやめてしまったものをこの機会に再開したかたちになります。

 一度やり始めるとかなり集中して取り組むことができ、一日に書いた文字数がここ数ヶ月でトップの値をはじき出したりしました。

 内容については各自購入して読んでもらうのが一番です。ここで内容について触れると営業妨害以外のなにものでもないですからね。

 で、練習問題で書いた文章を公開しておくかーとなったのですが、念のための注意事項をいくつか。


・練習問題の具体的な出題については触れない。載せるのは問題のタイトルと書いた文章のみ


 これは前に書いたのと同じ理由です。内容について触れるのは本という商品に対してよくないので、どういう意図のもと書かれたのか知りたい方は本を買って照らし合わせてください


・公開した原稿の内容について、この場での論評は求めないし受け付けない。私はあなた方とこの場で合評会を行うつもりはない


 該当書籍の「合評会の運営」の項を読めばわかることだと思いますが、もし手元に該当書籍と自分の成果物があったとしても、私に論評を求めたりしないでください。カクヨムというサイトで公開している時点で、論評を行うための適切なグループが形成されることはありえないと考えています。


 以上です。



練習問題① 文はうきうきと

問1

 絶版妖怪の逆襲は終わらない。うわん、ひょうすべ、ぬらりひょん、エトセトラ……。連中は人間に興味なんてない。ただ、ボコスカ襲って、バチボコに殴って、すっきりしたら帰っていく。連中にはミームがないし、ミームしか存在しない。うわんはうわん! と叫ぶ。ひょうすべはひょこひょこ歩く。ぬらりひょんはひょっこり茶を飲んで終わり。

 息を潜めて、百鬼夜行が通り過ぎるのを待つ。八雲にできるのはこれくらい。見つかったらどうなるのか、考えたくもないが、きっと叫ばれて歩かれて茶を飲まれるのだ。どうでもいいことのような気もするが、八雲にとっては一大事。連中のミームをいったん肯定してしまえば、もう手がつけなくなることくらいは知っている。

「ハーン、見たら駄目だよ」

 円了が声を潜めて注意する。教室のドアに背中合わせでぴったり張り付いて、廊下を進む百鬼夜行の足音に耳をそばだてていた。どんちゃんどんちゃん、ぴーひゃらぴーひゃら、なんでも貸します近藤産興とばかりに、馬鹿騒ぎは鳴り止まない。連中、チンドン屋でも雇ったか? 八雲はかそけき幽世の声とはほど遠いお祭り騒ぎに、知らず知らずにトン、トン、とリズムを刻んでしまっている自分に気づかない。円了は八雲をしっかり睨んでいるものの、まあいいかと諦観の体で構えている。

「終わったかや」

 ドア一枚を隔てた異界の騒がしい響きは止んでいる。百鬼夜行が去ったのか。ならば来る。奴が。陀羅尼陀羅尼の朝日、最強の妖怪とかいうデマ野郎。

「空亡だッ」

 こいつもまた絶版妖怪なのだった。二人を常闇の曙光が焼いていく。いつまでもかくれんぼは続かない。八雲がやるかと腕まくりをする。円了もやるかとスマホを取り出す。空亡退治にまでかり出されるとは、怪談集めもまったく楽ではないのである。




問2

 そいつを殺させてほしい、と八雲は願った。殺したい、でも、死んでほしい、でもなく、殺させてほしい、だった。自分には当然の権利があり、実行する手立ても握っている。だからあと一声、「やってもいいよ」と言われれば、八雲は即座に殺させてもらうのだ。手が震える。足が竦む。頭の中で藤岡藤巻の『死ね!バレンタインデー』が流れ続ける。やらねば。ならぬ。手に握り込んだナイフが汗ですべる。頭の中のリピート再生回数が二桁に乗ったころには、八雲は呼吸の仕方も忘れていた。


〈練習問題③〉長短どちらも

問1

 八雲は音を立てず教室に忍び込む。円了はぐっすりと眠っていた。これから俺はと考えて、目を伏せる。円了には多分な恩義を感じている。今日まで生き残れたのは彼のおかげだ。この先生き残るためには円了を殺す。必要なことだと八雲はもうわかっていた。円了の首に手をかけようと腕を伸ばす。だが思うように腕は上がらない。ナイフのほうが楽だったか。もっと楽な殺人マシーンもあった。八雲は選び取ることができなかった。選べば、円了を殺すことが明白になる。


問2

 八雲の祖父が病院のベッドで息絶える前に口にした妖怪の名は、家族の誰も知らなかったが、円了はよく知っていて、そいつがなにをするのか、どんな奴なのかと事細かに説明しては、八雲の目が輝いていくのを存分に楽しんで、君は家族の前ではそんな顔はしないだろうと言い当ててみせると、八雲の思い出の中の家族たちはみな一様に暗い顔ばかりしていたので、確かに妖怪に狙われるにはぴったりの陰鬱な家庭だったと述べてみたら、円了はそれを一笑に付し、馬鹿だなあ君は妖怪は陰鬱なご家庭にお邪魔したりしないよなどとうそぶくので、では祖父が口にした妖怪と八雲の家にはどんな因縁が存在するのかと若干むっとして問い返すと、そんなものは知らないし知りたくもないし妖怪に道理を求めるほうが馬鹿なんじゃないかと至極真っ当に言い返されてしまったからには八雲もムキになってそもそも妖怪の話をするほうが馬鹿だろうにと正論をぶつけたところ、円了はまったくもってその通りとばかりににかっと笑って、なんだ君も案外話がわかるじゃないか妖怪の話をする連中なんぞそろいもそろって馬鹿ばかりだよと真面目なのか不真面目なのかわからない顔でうんうんと頷いてみせるものだから八雲は怒ればいいのか呆れればいいのか見当を失ってしまい、結局長い逡巡のあとなにが妖怪だと悪態を吐くと、円了はわははと笑って、でも君の先ほどの顔はとてもよかったなあと、無邪気に妖怪の話に聞き惚れていた八雲のことをあげつらった――と八雲は感じ、当然気分を害して辞去しようとしたのだが、まだまだ妖怪の話はあるよと円了に誘われると、どういうわけかその話とやらがどうしようもなく聞きたくなり、そのままずるずると関係が続いてしまっている。


〈練習問題③〉追加問題

問1

 教室に忍び込んでみい、八雲。ちゅわれて入ってみたら円了が寝とる。俺がやらなあかんことを思ったら気が滅入るわ。こいつには恩義みたいなもんがある。今日まで生きとんのはこいつのおかげ。でもこっからはこいつが邪魔や。必要やって、もうわかっとる。ほっそい首に手ぇ伸ばしかけて止まる。腕が全然言うこと聞かん。ナイフ持ってくりゃよかった。もっとえぐつないもんもあった。でも選べるわけないやろ。選んだら、こいつ殺さなあかんくなる。


問2

 八雲の祖父が病院のベッドで息絶える前に口にした妖怪なんて家族の誰も知らない――そんな中出会った円了は博識、博覧強記、狂人、言ってしまえば同類――そいつがなにをするのかどんな奴なのかを事細かに説明してるうちに八雲の目は輝いて――円了はそれを見て楽しげに君は家族の前ではそんな顔はしないだとうと言い当てて八雲の思い出の中の家族たち――みな一様に暗い顔ばかりしている――をのぞき見られたような気がし、確かに妖怪に狙われるにはぴったりの陰鬱な家庭――なんて自嘲を円了は一笑に付して馬鹿だなあ君は妖怪は陰鬱なご家庭にお邪魔したりしないよなどとうそぶいてみせられれば八雲もさすがにむっと、では祖父が口にした妖怪と八雲の家にはどんな因縁が存在するのかと問い返してみると、そんなものは知らないし知りたくもないし妖怪に道理を求めるほうが馬鹿なんじゃないかと至極真っ当なご意見、でも八雲のほうもムキになるわそもそも妖怪の話をするほうが馬鹿だろうと至極当然の正論、まったくもってその通り――円了はにかっと笑えばなんだ君も案外話がわかるじゃないか妖怪の話をする連中なんぞそろいもそろって馬鹿ばかりだよと真面目なのか不真面目なのかわからない顔でうんうん頷き、起こればいいのか呆れればいいのか八雲は見当を失って――長い長い逡巡のあとなにが妖怪だと悪態、円了はわははと笑い、でも君の先ほどの顔はとてもよかったなあ――八雲にはこれが無邪気に妖怪の話に聞き惚れていた自分への罵倒のように聞こえてしまい、勝手に気分を害して辞去しようと立ち上がりかける中、まだまだ妖怪の話はあるよ――そんな悪魔の囁きを聞いてしまうとどういうわけかその話とやらがどうしようもなく聞きたくなり、そのままずるずると関係が続いてしまっている。


〈練習問題④〉重ねて重ねて重ねまくる

問1

 円了はスマホで音楽を聴いている。聴いているのはなにかという八雲の問いかけは聴いていない。足が小刻みにリズムを刻み、刻まれた空気に振動がリズムを伴って八雲のリズムと緊張を刻んでいく。踊ってないのに踊るように踊る場の空気。楽しい気分になれるのが楽しいと味わえることが楽しい。悲しい気分は十分に味わったのに、悲しい目をした円了を見ているとまだまだ悲しい思いに浸ってしまう。浸っているのは音楽なのか、円了が浸って出てこない悲しみの中なのか。円了の刻むリズムが変わった。曲が変わったのか、気分が変わったのか。変わっていないのはふたりの間に漂う、ふたりだけが感じられるどんよりとしたふたりの感傷だから、なにも変わっていないのと変わらない。


問2

「妖怪はいないよ」

 円了の言葉に八雲はまたかと呆れる。実際に今日までさんざ妖怪と戦ってきた円了と八雲なのに、こいつはまだそんなことを言い続ける。

「いるじゃないか」八雲は少し語気を強める。「さっきも戦った」

「それは関係のないことだね。僕の世界観において妖怪は存在しない。僕たちが出会ったのが実際に存在する妖怪だとしても、妖怪がいないことには変わりはない」

「屁理屈はやめてくれ。やる気が削がれる」

「やる気! そんなものは犬に食わせてしまえ。余計なものは持たないほうがよい」

 ふたりが閉じ込められた学校には日中、確かに生徒や職員がやってきている。ところが円了と八雲はこの現世の存在から、どうも位相がずれてしまっているらしかった。なにを言ってもなにを叫んでも、ふたりの言葉は隣には届かない。だからふたりはなにも憚ることなく好きなことを口にできる。

 現在は夜。丑三つ時。平時であっても誰も学校には寄りつかない時間だ。普段ならふたりとも常に警戒しながら眠っているが、先ほど妖怪どもの襲撃に遭い、神経が高ぶって寝付けずにいた。

 廊下を歩く音が響く。ふたりはまた妖怪かと警戒を強めたが、足音のトーンが、どうにも妖怪らしくない。連中はもっと粘っこいというか生臭いというか、陰気な音を立ててやってくる。ところがいま聞こえるのはカツカツと闊達で厳粛な靴音だった。

「妖怪はいないよ」

 廊下を歩く男の声。もうひとり隣を歩く男が、げんなりと口を開く。

「いるじゃないですか。さっきも出くわした」

「それは関係のないことだ。僕の常識において妖怪は存在しない。僕たちが出会ったのが本物の妖怪――真怪だったとしても、妖怪などいないのは変わりはない」

 むっと、円了が気色ばんだのを感じる。

 円了は教室のドアを開け、廊下へと躍り出た。八雲も慌ててあとに続く。

 どんな妖怪が待っているのかと思えば、廊下を歩いているのはふたりと変わらない人間だった。

「おや、真怪だ」

 八雲はあっと声を上げる。國男と信夫――この国で知らぬ者はいない妖怪狩りが、幽世

のただ中へと入り込んできていた。


〈練習問題⑤〉簡潔性


 円了は走る。八雲を置き去りにして。

 急ぐ必要があった。相手は真怪。今まで出くわした雑魚とは違う。

 人間では目で追えないトップスピードで校舎の廊下を蹴る。途中、仮怪の群れとぶつかるが、円了はひと睨みでそれらを退ける。八雲にも明かしていない邪視の力。まさかここで使うことになるとは。雑魚を散らすために用いるべき力ではないが、今は一刻を争う。

 校舎の最奥。校長室。そいつはこの中にいる。息を切らした円了は呼吸を整えることもせずに、ドアを開けた。

 瞬間、円了の頬を斬撃がかすめる。身を屈め、相手の姿を捉える。

 妖怪総大将ぬらりひょん――真怪。元凶。ターゲット。

 円了は相手を睨む。邪視の力が乗った視線がぬらりひょんの目に合わさる。妖怪ならば消滅せずとも昏倒させる威力。だがぬらりひょんは目を細めて笑って見せる。効いていないが、想定内。円了は口の中で真言を唱えながら、手を動かして印を結び続ける。

 この一発。二手目にして乾坤一擲。円了の全身全霊を乗せた拳が周囲の空間を引き裂きながらぬらりひょんへと放たれる。


〈練習問題⑥〉老女

一作品目

 河童の尻の中にも尻子玉はあるのか。私は死んで干からびている河童の三つある肛門へ順繰りに手を突っ込みながら、思索をすることで汚物に塗れた手の感触から逃れようとする。私の兄は幼い時分に河童に尻子玉を抜かれて、幼い私はそれを取り返して見せた。そこからは河童懲罰士への道へとまっしぐら。闇の世界で華やかに生きていけると思っていたら、今やっているのは河童の解剖。腐った臓腑から漏れ出たガスが鼻を突く。完全防護でもこれなのだから、もしこの部屋に普段着の人間が入ってきたら卒倒するのではないか。気を失いそうになるほど生臭い尻子玉を元の場所に押し込んでも、幼い兄は助からなかった。懲罰した河童を怒りのままに打ち据え、殺してしまったのが間違いの始まりだったのか。だから腐った、生臭いどころではない河童の尻の中に腕を突っ込むハメになる。


二作品目

 彼女は死んで干からびている河童の三つある肛門へ順繰りに手を突っ込みながら、河童の尻の中にも尻子玉はあるのかと考える。汚物に塗れた手の感触からの逃避である。彼女の兄は幼い時分に河童に尻子玉を抜かれた。幼い彼女はそれを取り返した。その先に待つのは無論河童懲罰士への道だと思われた。闇の世界で華やかな人生を送るはずだった。だが彼女が今行うのは河童の解剖。腐敗したガスが鼻を突く。完全防護でも彼女の意識を遠のかせる。普段着の人間が間違って入ってきたら卒倒するだろうな、と彼女は意識を踏ん張らせる。彼女はかつてこれよりももっとひどい臭いだった彼女の兄の尻子玉を元の場所に戻したが、幼い兄は助からなかった。懲罰した河童を怒りのままに打ち据えて、殺した。それが間違いだったのではないかと彼女は腐った、生臭いどころではない河童の尻の中に腕を突っ込むハメになっている。


〈練習問題⑦〉視点(POV)

 問一:ふたつの声

 ①

 円了は勝手に空き教室に陣取っている愚か者の妖怪狩りども――國男と信夫を睨んでいる。邪視の力は乗せていないが、それでも常人ならば耐えがたいプレッシャーを感じるはずだった。実際に信夫のほうは視線が文字通り痛いとでも言うように身をよじっている。こいつはまだいい。問題は円了の視線に物怖じひとつせず、ふんぞり返っている國男のほうだ。

 八雲は円了と妖怪狩りの無言のせめぎ合いに固唾を呑んで身構えている。このふたりが八雲に危害を加えることはまずないはずだ。問題はそれよりも――教室のドアが揺れる。

 國男がそちらを見て、一瞬肩に力を入れる。部外者にこの異界を好きなようにされてはたまらないので、円了は立ち上がって自らドアのほうへと向かう。八雲がなにか言いたげな顔をしていたが、今は無視する。

 ドアを開けた瞬間、胴に強烈な一撃が入る。身体が吹っ飛び、反対側の壁にしたたかに打ちつける。全部の息を吐き出し、それでも足りぬとばかりに血反吐が飛び散る。

 國男が険しい顔で立ち上がり、ドアに向かうのが見えた。杖でドアの外を突く。ギャッと悲鳴が上がり、円了に深手を負わせた妖怪が退散する。國男はドアを閉め、どういうわけかと円了を睨み返してきた。


 ②

 國男は彼らの一応の陣地であるらしい空き教室でも普段通りだった。隣にいる信夫はすぐにでも帰りたいらしいが、ここまで来てしまったからにはもう遅い。

 部屋の主らしい円了がこちらを睨んでいる。その目――邪視ができるな。だが國男たちに害を与えるつもりはないらしい。可愛らしいじゃないかと、國男は泰然自若とひりつく視線を受け止めてみせる。信夫のほうは視線が痛いらしく、もぞもぞと身体を動かしている。

 もうひとりの先客である八雲は、この無言の敵意と害意の確認作業に気づいておらず、ただただ険悪な――実際それは正しい――雰囲気に落ち着かない様子だった。

 円了は相当な使い手と見るが、八雲のほうはまるで物になっていない。おそらく今日まで円了がずっと八雲を守ってやっていたのだろう。

 教室のドアが揺れる。また妖怪――そんなものはいないが――が廊下を通り過ぎていくのだろう。様子を見てみるかと意識を向けると、円了がすっくと立ち上がってドアのほうへ向かう。國男に好きなように動かれるだけで腹立たしいらしい。

 ドアを開けた円了の身体が吹っ飛ぶ。反対側の壁に叩きつけられた円了は呼気と一緒に血反吐を吐き出す。

 安全地帯に入ってこられては困るので、國男は今度こそ立ち上がり、手に持った杖でドアの外をひと突きする。ギャッと悲鳴が上がって妖怪が逃げていく。ドアを閉め、この不始末をどう説明するのかと、床に倒れた円了を見下ろす。


 

 問二:遠隔型の語り手

 先ほどこの空き教室に新しくふたりの人間が入ってきた。常に険しい表情を浮かべた眼鏡の男と、不安げで落ち着きのない痣の男。

 もともとこの部屋にいた男はふたりの闖入者を同時に睨んでいた。ひとり蚊帳の外にいる隻眼の男は、部屋の主と言うべき男と闖入者をちらちらと窺い見ている。

 空き教室のドアがガタガタと揺れる。眼鏡の男がちらりとそちらを振り向くと、それを制止するかのように部屋の主が立ち上がる。そのままドアを開けると、男の身体が大きく吹き飛ぶ。教室の窓側の壁に叩きつけられた男は大きく仰け反り、血を吐いた。

 眼鏡の男が難しい顔で立ち上がり、手に持った杖でドアの外を突く。ギャッと声が上がり、何者かが逃げ去る。ドアを閉めた眼鏡の男は、床に倒れ伏す男に哀れみの目を向けた。


 問三:傍観の語り手

 八雲は空き教室に招き入れた國男と信夫の表情を窺い見る。超然とした國男に対して信夫は一刻も早くここを出たいと意気消沈しながら苛立っている。

 一方の部屋の主とでも言うべき円了は、不満げにふたりの妖怪狩りを器用に両方睨んでいた。國男は傲然とでも言うべき尊大さで円了の視線を受け止めるが、信夫のほうは視線が実際に痛いとばかりに何度も目を逸らす。

 教室のドアがガタガタと揺れる。また妖怪が廊下を闊歩しているらしい。國男がちらりと廊下のほうへと振り向き、円了は威嚇するように立ち上がる。そのままドアを開けて出ていこうとした円了に、八雲は声をかけられずにいた。

 円了の身体が吹っ飛ぶ。思い切り窓側の壁に叩きつけられた円了は肺の空気を全部吐き出し、血反吐をまき散らした。

 難しい顔で立ち上がった國男が、手に持った杖でドアの外を突くと、ギャッと声が上がって円了を襲った妖怪が退散していく。ドアを閉めた國男は呆れたように円了を見下ろしていた。


 問四:潜入型の作者

 新しくこの空き教室に入ったふたり――高名な妖怪狩りの國男と信夫は椅子に座って、部屋の主である円了に睨まれている。國男はふんぞり返りながら逆に円了を値踏みしているが、小心者の信夫は居心地が悪くて仕方がない。円了の視線には魔を退ける力があり、邪視という。今はこの力を使ってはいないが、それでも円了に睨まれれば痛みを感じることもあるだろう。

 長く円了とこの死地をともにしてきた八雲は、だが円了の邪視のことなど知らない。ただ新しく来た人間を円了が脅すように睨んで、無言のせめぎ合いが生じていると考える。実際にそれは正しい。國男は円了が邪視の力を持つことを見抜いて、それを自分たちに向けていないことから円了に害意がないことを見て取っている。

 教室のドアがガタガタと揺れる。相変わらず教室の外は百鬼夜行状態が続いており、大小様々な妖怪どもが横行闊歩している。國男がちらりとそちらを振り向くと、ほんの少し肩に力を込めたことを看破した円了が勝手な行動を制するべく立ち上がる。

 ドアへと向かい、開ける。ドアの外にはちょうどバカデカい妖怪が立っていて、いきなり現れた人間に向かって巨大な拳を振るう。円了の身体は簡単に吹っ飛び、反対側の壁にぶつかって血反吐をまき散らす。妖怪はさらに追撃を加えようと身をもたげるが、すぐに立ち上がった國男が手に持った杖を妖怪に向けて突き出す。いきなり目を突かれた妖怪は悲鳴を上げて、ほかの妖怪たちに混ざって退散していく。その隙に國男はドアを閉めて、さてこの醜態の説明を聞こうとばかりに、床に転がった円了を見下ろすのだった。



〈練習問題⑦〉追加問題

 ①

 その学校が通常の時間の流れから外れ、異界と化したことは今ではよく知られている。ところが渦中において、外部の人間はこの異変にまるで気づいていなかったとされる。時空から隔絶され、異なる位相の世界と化した学校を、通常の人間は知覚することすらできなかった。

 一方で異界の存在を察知し、自らこの死地に赴いた者もごくわずかだが存在した。高名な妖怪狩りである國男と信夫などはその筆頭であろう。このふたりが果たして生還したのか、はたまた異界に呑まれて異域の鬼となったのかは我々に確かめるすべはない。

 異界と化した学校の中は妖怪の巣窟と化していたという。数少ない生還者の生徒は、そのおぞましさを語ることすら耐えられない様子であった。


 ②

 気づいた時には夜だった。夜というのは少し違うかもしれない。ものすごく暗い夕方――そんな感じだ。

 学校から出ることはできなかった。校門は確かに開け放たれているのに、そこから出ようとすると校門の前に戻っている。

 外に助けを求めることもできない。スマホも校内の電話も、まるで機能しなかった。

 ところが助けはやってきた。あの妖怪狩り、國男と信夫のふたりだ。彼らは校内に巣くう妖怪どもなぎ倒し、僕たち被害者を外へと送還した。このふたりがそのあとどうなったのか、僕たちはなにも知らない。


〈練習問題⑧〉声の切り替え

 問一

 円了は勝手に空き教室に入ってきた國男と信夫を睨む。邪視の力こそ乗せていないが、相応のプレッシャーは与えられているはずである。

 *

 國男はそんなことは先刻承知で、自分たちに害意がないことを確認すると可愛らしいことじゃないかと尊大な態度を崩さない。

 *

 隣の信夫には円了の視線が痛くてたまらない。信夫の過敏な霊感には円了の視線は確かに毒だった。ただし自分から言い出すことはできない。

 *

 無言のせめぎ合いをしているらしいこの三人を遠巻きに見ながら、八雲は気が気ではなかった。どうやら円了はこのふたりの妖怪狩りが大嫌いなようで、見ての通りずっと不機嫌になっている。

 *

 教室のドアがガタガタと鳴る。國男はすぐに意識をそちらに向けるが、遮るように立ち上がった円了がドアに向かう。

 *

 妖怪狩りどもに自分たちの領域で好き勝手をされては困る。その意思を強調するため、円了は自ら廊下を通過していく百鬼夜行に関わりに行く。

 *

 ドアを開けた円了が大きく吹っ飛ぶ。反対側の壁にぶつかり、血反吐を吐いた姿を見て、八雲はとっさに助けに向かおうとしたが、國男に鋭く目で制されてしまった。

 *

 國男は素早く立ち上がると、手に持った杖でドアの外をひと突きする。*あの杖で國男はこれまで数多の妖怪どもを調伏してきた。ギャッと悲鳴を上げて退散していく妖怪の気配を見失い、信夫ほっと息を吐く。國男と一緒にいれば、ひとまず安心である――という己の経験則が異界の中でも間違っていないことへの安堵であった。

 *

 國男は床に転がった円了に向けて、この不始末への説明を求めるべく、冷たい視線を投げた。


 問二:薄氷

 円了は無遠慮に空き教室に入ってきたアホの妖怪狩りどもを睨む。円了の両眼は器用にもそのふたり――國男と信夫をそれぞれ捉えていた。邪視の力は乗せていない。それでもこれだけで信夫には耐えがたいほどであった。害意はなくとも、威圧は十二分に効かせてある。ただし國男にとってみればなんともいじらしい心遣いのようなもので、隣の信夫がいたたまれなくなっていることに気づいていながら円了の睨みを止める気はない。

 鬼気迫る緊張感であったが、八雲は幸い蚊帳の外だった。ただし切迫した空気はいやでも感じられるので、居心地が悪いことには変わらない。高名な妖怪狩りである國男と信夫をどうして円了はここまで毛嫌いするのか。おおよその理由は察しているが、口には出さない優しさか、性格の悪さを持ち合わせている。だから教室のドアがガタガタと鳴った時も、國男は殺気を廊下へと向けた。すぐに円了が制止するために立ち上がり、ドアを開けてしまう。

 大きく吹っ飛ぶ円了。廊下を歩いていた巨大な妖怪は、いきなり開いた教室のドアを見、そこに立っている人間を見、即座に大きな拳を振るった。驚いたのもあり、獲物を見つけてとっさに手が出てしまったのもあり。さてではとどめを刺そうかと身をもたげる妖怪の目を、鋭い棒きれが思い切り突いてくる。悲鳴を上げて逃げていく妖怪を見送ることもせず、國男は手に持った杖を撫で、床に転がっている円了を見下ろす。睨み返す目には、もう力が残っていないことはわかっていた。


〈練習問題⑨〉方向性や癖をつけて語る


A「だから河童の捕獲なんてやめようと言ったんだ」

B「じゃあなにか。インターネットで河童を懲罰した気になってる連中に好きなように言われてもいいのか?」

A「よくはないけども! だからといって河童を捕まえるなんて大それたこと――危ない!」

B「まったく生臭くていやになるな。まだ尻は無事か?」

A「それよりも低体温症を心配したほうがいいと思うが。川岸が遠い――あそこまで泳ぐ体力は」

B「ないな。それに深いところに入ったらもう河童の独擅場だ。泳いでいる途中で尻子玉を抜かれてお陀仏だ。膝下までしか水位がないこの浅瀬にとどまって、救助が来るのを待つしかない」

A「うわ! また! 言ってるそばから河童が腕を伸ばしてきてるんだが」

B「掴んで引っ張ってみるのもアリかもしれんぞ。腕がすっぽ抜ける」

A「川の中の河童に力で勝てるわけないだろ。皿には常時水が満杯。相撲取りでも敵わんわ」

B「きゅうりを囮にして逃げるのは」

A「やめたほうがいい。連中は完全に俺たちに狙いをつけてる。きゅうりよりも尻子玉のほうが上等なんだろう」

B「そうか。なら今のうちに食っとくか。ほれ」

A「味気ない……人生最後の食事がきゅうりの丸かじりになったら本当に笑えないが……」

B「しかも死因が河童に尻子玉を抜かれた、じゃあなあ。笑える。食物連鎖だ」

A「今ほど河童懲罰士が存在してほしいと思ったことはないな!」


〈練習問題⑨〉問二:赤の他人になりきる

 俺はビッグサイトの展示場に入ってそのまま真っ直ぐ、目当てのサークルのスペースへと向かった。そのサークルの作家が描く絵が好きだった。たまに描くエロ絵もいい。ただずっとその作家のアカウントを追っていると、どうしても疑問に思うことがある。今日はそれを問いただしに東京まで遠征してきた。

 スペースには若い女がひとりで座っていた。へえ! エロ絵を描くのに女なのか! しかも見たところ暗そうで、周りに知り合いもいなさそうだ。これはガツンと言ってやる絶好のチャンスだぞ。

「いつも作品見てます」

 俺はサークルスペースの前に立つと、まず挨拶をする。相手はどうもと軽く会釈して、ちらりとこちらを見上げて目を逸らす。

「エッチ絵見るたびに思うんですけど、なんで竿役出さないんですか? そっちのほうがエロいのに」

 相手の女は無言。

「次描く時はちゃんと竿役出してくださいね。じゃあこれで」

 俺はそのままほかのサークルに向かう。女の描く絵は好きだが、わざわざ金を払って同人誌を買ってやるほどではない。登場人物が女ばかりの漫画なんて単なる美少女動物園だ。やはり実用性を考えれば、竿役が出ていなければ意味がない。


〈練習問題⑨〉問三:ほのめかし

 ①

 壁には本棚――カラーボックスを二つ並べたもの。中には本がぎっしり。前後二列に並んだ文庫本が主で、そのおかげでまだスペースには余裕がある。一つ目の本棚は二列目までほぼいっぱいで、カラーボックスの端や本の天には薄く埃が積もっている。背の低いカラーボックスの上にはビールやチューハイの空き缶が並べられ、いくつかは横に転がっている。飲み口から液体は垂れている気配はない。ただしアルコールの残り香がきついので、缶を洗っているわけではない。ただ毎度一滴も残さず酒を飲んでいるだけだ。

 床にも埃。カラーボックスには収まらない大きさの本がいくつか積まれている。どれも開いた様子はない。表紙にもやはり埃が積もっている。残ったスペースには空になったPTP包装シートが散乱していた。

 この部屋で生きた気配のあるのは酒の空き缶と、薬の抜け殻。あとは死んでいるか、そもそも存在しない。アニメやバンドのポスターが壁に貼られた痕跡もない。テレビは置いてあるが、チャンネルは見当たらない。コンセントも抜かれていた。風景も人物も、写真は一切見当たらない。その代わり、いくつか机の上に置かれた本の表紙は、風景、彫像、ライトノベルのヒロインの絵――といった具合だった。


 ②

 十何年ぶりかの出来事に対しても、道を歩く人々は無関心である。通行人の目では見つけられず、噂が耳に届くにはまだ早すぎた。ブルーシートは小さく、電柱の下のほうだけを覆っていた。カラスが一匹、生臭さにつられて飛んでくる。

 この町での出来事が新聞に載ったり、テレビのニュースになることはまずないと言っていい。十何年前かの同じような事件でも、報道されたことはなかったのではないか。狭い町であるから、報道のクルーがやってくれば大いに目立つ。

 電柱に残った黒い染みだけが現実感を伴っていた。アスファルトにも染みはできていたが、こちらは黒と黒ですぐに目立たなくなる。その染みも年月とともに忘れられ、消えていき、今では誰も覚えていない。

 今ブルーシートをかぶっている電柱が、かつてと同じものだということも、記憶している者はいない。覚えているのは電柱だけ。かつて同じ染みを作ったアスファルトは、何度も道路工事が行われて別物に置き換わっている。新しく黒い染みを作ったアスファルトは電柱と違って真新しい。汚れを知らないかのように光っているが、よく唾やガムを吐かれていることは身に染みている。染みの大半を引き受けたのもアスファルトのほうで、電柱は小さな染みだけですんだ。それでもアスファルトのほうが先に目に入らなくなり、汚らしい電柱のおぞましい染みは当分人目につくことになる。

 警官がやってきてブルーシートを片付けていった。明日には空き瓶に入った花が供えられる。


〈連取問題⑨〉の追加問題:ダマになった説明

 追加問題一:幻想のダマ

 男は塔の見張りの前を悠然と通り過ぎ、そのまま中に入っていく。見張りに男は見えていない。魔術の素養があればまた違ったかもしれないが、敬虔な七女神の信徒であるハラスの民は魔術を用いない。なんとも好都合なことではあったが、エンネディ族の魔術師たちに二十年も延々と国を脅かされ続けているこの体たらくには反吐が出る。

 男は塔を登っていく。王都から遠く西に離れたこの地には不釣り合いな高貴さを持った、高く、鋭く、冷たい建造物。もとは国境を見張るためのものであったか。今は東の国境で無骨な砦が作られては壊されている。エンネディ族との戦から最も離れたこの地に彼女を置いたのは、ジュッサ卿なりの気遣いだろうか。

「ああ、顔の見えないひと」

 塔に捕らわれたハラスの妃が、男の来訪に驚くこともせず声を出す。

「恐ろしい女だ。おれはすっかり姿を消しているはずなのに。本当はおれの顔も、おまえにはとっくに見えているのではないか」

「あなたは顔の見えないひとなのでしょう。わたくしにそう名乗られた」

「そうだったな。カト。恐ろしい女よ」

 男が妃の名を呼ぶと、妃は少女のように笑う。この笑顔が二十年前と変わっていないことが、なにより男を驚嘆せしめたのだった。

「わたくしの名を呼ぶひとなどもうこの国にはいないでしょう。あなたはやはり、この国の民ではないのかしら」

「おれはおまえの望む者ではないのだ。決して」

「わたくしの望む者? あなたは誰を思い浮かべているの」

 男は沈黙し、頭を捻る。この妃は返答から男の正体を探ろうなどと考えているわけではない。男にヒントを与えている。妃が望む者とは誰か――それを探ることで、男が己の正体を隠し通せるように。

 ジュッサ卿ではないことはたしかだ。妃の近衛兵であるあの男は、二十年前に王宮を血の海にし、今では仕える主を恐れてこんな場所に幽閉している。

 その原因――二十年前の戦で行方知れずとなった彼女の夫――ペル王。二十歳から二十年間、王座を守り続けたこの女に、果たして夫を愛する気持ちがあるのか。

 ならば妃の庶子と噂される、反乱分子の頭目か。この国がここまで疲弊した決定的理由は、この女がジュッサ卿に王座を狙う者どもをひとり残らず粛正させたことにある。正当な王位を持つと主張する者がクーデターを企てていると聞いて、妃が情けをかけるだけの値打ちが血のつながりにあるとは到底思えない。

 では、妃の言ったこの国の民ではない者――エンネディの魔術師か。男は自分でこれを否定している。魔術を平然と使う男を見て、妃が思い浮かべた相手として、たしかにエンネディの魔術師は妥当なところである。だが男は今日まで妃に指一本触れていない。

「七女神の使徒」

 男の答えに、妃は楽しげに笑う。

「魔術を使うあなたが女神の使徒。面白い。面白いわ」

「おまえが笑えることなのか。魔女よ」

 男の姿を見て取っている時点で、妃に魔術の素養があることは疑いようがない。

「ええ、笑えることよ。女神を信奉するこの国で、女王が消えてからどれだけ経ったと思う? 百年。百年もの間、この国は偽りの王が支配してきた」

 ハラスはもともと、代々の女王が統治する国であった。だが現在国を統治するのは男と決まっている。カトが王座を守りながら二十年もの間妃のままなのは、この新しい慣例がいまだ生きていることを示している。

「ならばおまえは――」

 男は懐に隠したナイフを一度触る。魔女は微笑む。


 追加問題二:現実のダマ

 半泣きになった後輩が茶封筒を抱えて、家の前に立っていた。

「ゆうパックで受け取り拒否されました」

 瞬時にスマートフォンの時計をチェックする。午後四時半を過ぎたところ。急がないとまずい。

「もう一回郵便局に行け! ああ! 説明する時間がもったいない! 私も一緒に行くからちょっと待て!」

 自転車を引っ張り出し、後輩を先導するかたちで夕暮れの田舎道を突っ走る。

「不備はないかちゃんと確認しただろうな!」

 ここに来てミスを犯していたら洒落にならない。なにせ時間がない。

 今朝、後輩の家に行って印刷を手伝った。父親が昔使っていたというインクジェットプリンターをUSBで後輩のノートパソコンに接続。A4のコピー用紙は指示通り500枚入りのものを近くのホームセンターで買ってきたらしい。紙色が白すぎるとは思ったが、文句を言う筋合いはないので黙っておく。プリンターを開いて、トレイを引き出す。機械の内臓を弄るみたいで、この作業はちょっとした緊張感が伴う。トレイには100枚までA4のコピー用紙が入るらしいが、いちいち枚数を数えるのは時間の無駄なので目分量で包装紙の中からコピー用紙をつかみ取り、トレイに入れる。だが目分量が多すぎたらしく、トレイの上限を示す用紙ガイドを超えてしまった。用紙ガイドはトレイの端に少しだけ伸びた蓋のようになっているので、これを超えることは物理的に不可能だ。十何枚かをつかんで包装紙の中に戻すと、用紙ガイドまで隙間ができた。少し戻しすぎた気もするが、どうせ130枚印刷するのだから途中で給紙し直さなければならない。

 パソコンでワード文書を開く。42字×34行でページ組がされていることを確認。ファイルから印刷を選び、プリンターが認識されていることを確認して、実行。

 本当は印刷前にもう一度頭から読み返して誤字脱字がないか確認したほうがいいし、なんなら印刷してからチェックし直すという話も聞くが、古いインクジェットプリンターの印刷速度を考えると時間が惜しい。

 一枚ずつ排出される原稿を後輩は割れ物のように慎重に扱うが、私は気にせず机の空いたスペースに印刷面を下にして積んでいく。透けて見えるページ番号を目印に、原稿の向きがすべて同じことを確認しながら。

 途中でプリンターがエラーを吐く。だが答えは単純。用紙がなくなっただけだ。先ほどと同じくらいの厚さのコピー用紙を包装紙の中から取りだし、トレイを引き抜いて中に詰める。トレイを戻し、プリンターのほうのスタートボタンを押す。すぐに次のページの印刷が始まった。

 印刷が終わり、130枚の原稿の束ができあがる。続いて別のワード文書を開き、記入に間違いがないことを確認してこれも印刷する。後輩の個人情報が書かれたエントリーシートだ。

 20枚くらいずつを取って、平らな机の面に四つの辺を優しくぶつけて原稿の束を綺麗にならしていく。コピー用紙を買ったホームセンターで一緒に買ってきた特大のダブルクリップで原稿とその上のエントリーシートの右上を綴じる。

 私はそれで帰宅した。すでに昼時になっていたし、後輩もここまで来たら大丈夫だと安心していたからだ。

 郵便局につく。自転車を止めて、まだ営業時間内であることを確かめ、窓口に向かう。幸い空いていた。

「レターパックライトをください」

 代金を払って受け取ったのはレターパックライト――厚紙の封筒のようなそれを郵便局内の作業台の上に置き、後輩がずっと抱えている茶封筒を出すように言う。

 茶封筒に書かれた宛先をそのままレターパックの宛先に書き写させ、差出人の欄に後輩の住所氏名を記入させる。レターパックの中に端を折りたたんだ茶封筒を入れ、シールで封をする。

 ポストに投函しそうになるのを慌てて止める。たしか今日の集荷はもう終わっている。締切は今日。正確には今日の消印まで有効。

 なのでまた窓口に向かい、レターパックに今日の消印を押してもらうように頼む。

「こちらでお出ししておきましょうか?」

 消印を押したあとで局員がそう言ったので、お願いすることにする。ちょうどそこで営業時間が終了した。

「公募原稿は信書扱いになる時があるから、ゆうパックは使えないんだ」

 精根尽き果てた様子の後輩にそう言って、私は自転車に跨がった。


〈練習問題⑩〉むごい仕打ちでもやらねばならぬ

「妖怪はいない」

「さっきも戦った」

 円了の言に対する八雲の反論。何度目だ。ふたりはもう何度も妖怪と対峙してきたが、円了は一貫して妖怪の存在を認めるつもりがない。

「僕の世界観においては、妖怪は存在しない」

 夜の学校。ふたりがここに閉じ込められてどれくらい経ったか。昼間は生徒や教員たちがやってくるが、ふたりの位相はそれらとはズレてしまっており、泣けど喚けど声が届くことはない。そのおかげでふたりは好き放題に口喧嘩ができる。

 廊下から足音。妖怪のものとは違う、乾いた闊達なリズム。

「妖怪はいない」

「さっきも出くわしましたが」

 円了は声を聞いてむっと身構えると教室の外へ躍り出る。八雲も慌ててあとに続く。

「おや真怪だ」

 國男と信夫――妖怪狩りが幽世へと踏み込んできた。

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