その十五センチの紙切れは、僕とボクの為にある

因幡寧

第1話 一回目のお見舞い


「あなたは記憶喪失なの」


 頭にかすかな鈍い痛みを感じながら、俺はその言葉を誰かから聞いた。

 その誰かが、いわゆる母親というやつであるということを、その誰かから聞いた。

 母親はひどい表情かおをしていた。それが俺のせいだということもわかっていた。それなのに、俺に去来する感情とやらは何処までも他人事で、そのことが俺が僕ではなく俺であるということを理解させていた。


 何もない白い部屋は、管理が行き届いている。頭にまかれているであろう白い布の塊は、今では何の違和感もなくそこに存在していた。

 窓際に飾られた花が、唯一の彩であるかのように感じられた。それほどまでにその花は真っ赤で、鮮烈な色を携えている。


 何もない。何もないこの部屋は、記憶を探るのにぴったりだ。それでも、思い出せるのは数日前の記憶。川辺。警官。病院。そして、悲しい顔をした人。

 その人から渡された卒業アルバムと銘打たれた本の中には、数々の思い出がしまわれていた。膝の上にあるそれを。めくっても、めくっても、何処にも俺を見つけることはできなかった。


 医者によれば、この記憶喪失が治る見込みは十分にあるらしい。頭は怪我していても、その中にある大事な大事な脳には傷一つついておらず、ただ衝撃という一点のみで、俺の記憶は失われたらしい。

 これまでの症例によると、最短で二時間で記憶は戻り、長ければ一か月でも、一年でも記憶は戻ることはない。そんな説明がなされた。記憶が戻ったとき、失っていた期間の記憶はなくなってしまうかもしれないとも。


「……よっと」


 寝かされていた清潔なベッドから体を起こして、自動販売機を目的地と定める。膝の上に置いてあったアルバムを適当な場所に置き去りにして、俺のものであったらしい財布と、これまた俺のものであったらしいスマホをもって横開きのドアをなんとなく静かに開ける。

 そうして、物音がほとんど聞こえない廊下を、俺はゆったりと歩いて行った。


 目の前の自動販売機は休むことなく光をともし続けている。適当なお金を入れ、点灯した適当なボタンを押すと、ガタンという音が下から聞こえた。

 こういったものに驚くことはない。俺の記憶喪失とやらは、思い出と呼ばれるそれらを一切合切奪っていきやがったが、常識とやらはすべて残していった。


 だからこそ、俺が誰かを悲しませていることはわかるし、記憶を取り戻すべきだということもまた、わかる。だが、それらはなぜかどこか他人事で、ガラス一枚を隔てて世界をのぞいているかのような感覚だった。


「ねえ、こんなとこにいていいの?」


 買った飲み物を取り出そうと手を伸ばしていると、そんな声が聞こえた。

 飲み物を手にもって振り返ると、短髪で若い美形の男がいた。


 ……? いや違う。女だ。その服装はライダースジャケットにデニムスカートという格好でボーイッシュだが、男のものではなかった。むしろ、男っぽく見せないように意識した服装に見えた。


「それ、好きなの?」


 指をさされたのは、手の中にあるコーヒーだった。甘さが控えめのこれを、俺は短い経験ながらも、確かに好いていた。

 質問の意図がわからぬままに、俺は答える。


「ああ。確かに嫌いではないが」

「へえ、そうなんだ。……うん、そうか」


 そいつは感心したように、しきりに頷いた。その意図はどこまでも読み取れず、かすかな警戒心を抱いていると、そんな俺に気づいてかそうでないのか、そいつは種明かしを始めた。


「ボクは君の幼馴染ってやつだよ。お見舞いに来たんだけど、君がとことん嫌っていたその黒い飲み物を選んでいるのが、ボクにとっては不思議で仕方なくて」

「…………」

「君は本当に記憶喪失なんだね」


 彼、ではなく彼女の言っているのは、俺の性格が記憶を失う前と後とで変わりきっていることだろう。俺の元の一人称は僕で、もっと丁寧な言葉遣いをしていたらしい。それを知ったところで、記憶は戻ることはなかったし、それを知ったところで、その性格になれるわけでもなかった。

 どのような形でも俺は、僕ではなく俺なのだ。それは俺だけが、真に理解していることだった。


「それで、こんなところにいていいの?」

「問題ない。こんなものを頭に巻いてはいるが、傷は浅いらしいからな。特に歩き回るなとは言われていない」


 頭の包帯を軽く触りながら言うと、そいつはふーんとだけ返した。

 俺の目的は完了したので踵を返すと、当然のように俺の後をそいつはついてくる。お見舞いと言っていたから、病室までついてくる気なのだろうということは明白だった。


 病室のドアをガラガラと開けると、机の上に積み重ねられた思い出の品とやらが一番に目につく。それを見るたびに、恵まれた僕という存在が見え隠れして、どこか舌打ちしたい気分になった。


「思い出話を聞かせてやってくれとでも頼まれたのか?」


 ベッドに近づきながら、そいつの顔を見ることなく俺はそう問いかけた。半分は冗談だったが、どうやら間違っていたわけではないらしく、そいつがあははと笑っているのが聞こえた。少し困った顔が浮かぶような声だ。


「まあそうだね。おばさんに頼まれたんだ。もちろんボクだって協力を惜しむつもりはなかったから、その頼みを引き受けた」

「……そうか。じゃあ、ぞんぶんに話しやがれよ。その思い出話ってやつをさ」


 ベッドに腰かけて、俺はそいつが話し出すのを待った。自称幼馴染は端に置いてあった丸椅子を持ってきて、俺の斜め前あたりに置く。そこに座ったそいつは目を合わせることなく話し始めた。ゆっくりと。されど丁寧に。


 はじめは小学生の頃の話だった。次に高校のころの話。そして家族の話に飛躍して。最後にいつか語った夢の話に移行した。


 そのどれもが彼女にとって特別であるかのように感じた。それほどまでに彼女の話し方はどこか憧れた何かを語るような口調だった。すべてがキラキラしていて、恵まれた僕が、その裏に透けて見えた。

 そのことに俺は、また舌打ちしたくなって――。


 だから、質問した。


「お前、俺のことが好きだったのか?」


 意趣返しのつもりだった。この言葉ですこしでもこの自慢げに話すこいつが言葉を詰まらせたなら、多少は気分がよくなるような気がしたのだ。それなのに、


「うん、そう。ボクは君が好きだった。――今でも、好き」


 そうやって、自信満々に返すものだから、俺の方が言葉に詰まってしまって、頬が熱くなるのを感じた。


 ……ばからしい! ばからしいぞ俺!


 それでも、そのすべてを受け入れるような自信満々の宣言を、どこかうれしいと感じている自分がいて、そのことにまた嫌悪を抱き――。

 結局、俺のからかいは俺の気分をさらに悪くするだけにとどまった。


 俺の質問によって沈黙に包まれたその場所に、ガラガラと音が響く。目を向けた扉から、面会時間終了のお知らせが届いた。


「……じゃあ、ボクは帰るね」


 そう言って椅子を元の場所に戻し、何事もなかったかのように彼女は出ていった。取り残された俺は、静かになったこの場所で、視界に何もうつさないようにベッドで横になった。


 見える天井は嫌になるほど真っ白で、俺はそれをひどく不愉快に感じた。

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