ほら、あそこにも影
イチカワ スイ
第一話 祖父
――私が初めてアレを意識したのは、たしか幼稚園の年長さんの時。
父の実家は田舎では普通大きさの木造2階建て。アパート住まいの私には珍しくてよく駆け回って怒られた。玄関すぐの応接間を通り過ぎると立派な仏壇が鎮座する仏間だ。
「かっこいい仏壇だろう?」
ガリガリに痩せていてどこか遠くを見ている祖父は自慢していた。歩くこともままならず定位置に座って孫達を見て微笑む、そんな祖父だった。
自慢していた仏壇に入るなんて、と当時は思ったものだが、そのために祖父は良い物を買い付けたのかもしれない。
祖父は夏に入る前に亡くなった。長年患っていた病気で、冬から入院してたとは聞いていた。
葬式でシクシクとなく親族たち。箱に入っている祖父、白くなった祖父を長い箸でつまむ。
よくわからないまま大人の言うことを聞いておとなしくしてた葬式はとてもつまらないものだった。
其処ら中に祖父の気配がまだ残っていて、たまにふわりと横を通ったように風が動くので、見えないだけで祖父は居るのだろうとなんの根拠もなく思っていたし、人の死と言うものは理解できていなかった。
葬儀は終わり隣の県のアパートで日常に戻って過ごしていると、叔父から電話が来た。
「シェリーが死んだ」
シェリーは大きな犬だった。そして途轍もなく賢かった。散歩に行くと尻尾をビュンビュンと振って必ず私のとなりを歩く。私は自分よりも大きいシェリーが怖くてあっちにこっちにと歩く位置を変えるのに必ず私のとなりを歩く。父は「お前を守ってるんだ」と笑っていた。
散歩の後に庭で蛇口から流れる水をバクバク飲むシェリーを見るのが大好きだった。その後私の顔を見て「もういいよ」と言うように蛇口に前足を乗せて蛇口を閉めるように催促する仕草が可愛かった。
祖父が亡くなってからシェリーはご飯をあまり食べなかったそうだ。シェリーも歳だから仕方ないことだと父は言っていたが、祖父が大好きなあの子は必死に追っかけたのだろう。
夏休みになり、祖父の家に行ってお盆を迎える。車を降りればすぐに見える玄関横の窓から祖父が待ち構えていないことに寂しさを覚えた。
ただいまと大きな声で玄関を開けると、やはりまだどこか祖父がいるような気がする。
祖父の家に帰って三日目の蒸し暑い夜だった。虫の声が響いて中々眠れない。
一階にあるトイレに行こうとドキドキしながら階段の電気をつける。昼間でも一人で行けない程に私はソコが嫌いだった。階段を降りた後の廊下、その少し先にトイレが在るのだが更にその先の仏間の裏側にある廊下がどうしようもなく怖くて母に引っ付いてトイレに行っていた。
でもその日は母も兄もぐっすり寝ていたし、起こすことを躊躇って一人で階段を降りた。
――今思えば、わずかな物音でも起きてしまう母が熟睡していたことも、怖がりな私が怖いと知っているところに一人で行こうなどと思うはずもないのだが。
廊下に出る前に息を殺して顔だけ覗かせる。
――何もいない。
当たり前なのに、変なのと笑って用を足した。いつの間にか虫の鳴き声が聞こえなくなったことに気付く。
急いで戻ろう。いや、戻らないとと扉を開けて……何かが鳴った。
鐘のような鈴のような、それなのに電気の流れるラジオのような、不思議な音。
なにも考えずに音のした方向、仏間の裏に目線がいく。
それは立っていた。しっかりと。何処まで続くかわからないほどの闇に捕らわれる廊下なのに、今日は仄かに明るい。
それは先に光でもあるのかと思うほどはっきりと人の影を映し出していた。丁度、仏壇の裏に。
息を呑んだ。黙って見なければと思い、声を出さずにそれを見た。細い、男の人の影だ。何となく、後ろ姿なのだろうと感じる。こちらを見ていない。
振り返る前に音をたてずに戻るべきか、でも怖いとも思わない。少し悩んで、戻ろうと足を動かそうとしたが、何故だか動かなかった。
後ろから、バウと聞こえた気がする。柔らかな風が私に纏って抜けていった。男の影に寄り添って現れた大きな犬の影。そして男の影が振り返る。
ああそうか、お祖父ちゃんもシェリーもいってしまうのか。寂しさとは、人の死とはこうゆうことなのか。
お祖父ちゃんが一度ふわりと手を振る。私はわかったと頷いた。お祖父ちゃんがもう戻らないことも、私に正体がわかったかと聞いてきたことにも。言葉ではなく、そう感じたのだ。
お祖父ちゃんは振り返ってゆっくり遠くに歩いて行く。光に包まれるように。
シェリーも私を見た後、散歩の時と同じように尻尾をビュンビュンと振ってお祖父ちゃんについていく。ゆっくりと薄くなる影、いなくなる人。
「お祖父ちゃん」
小さくつぶやいた声は、再び鳴き出した虫の声に消えた。……いつの間にか頬が濡れていた。
もう、祖父の気配はこの家からしなくなった。
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