ワンダーワールド・ストレンジ

まっちゃ大福

第1話 不思議な少年

 


 退屈な毎日だった。

平和な日常は、やがて正常な感覚すら摩耗まもうさせていく。

現代文の授業、中島敦の山月記が記された教科書を机に寝かせる。

自らの博学によって傲慢になった男が虎に変化する教訓めいた昔話。

でも自分は李徴りちょうのようにおごるほど過ぎた才覚は持っていない。

ゆえに傲慢になんてなれるわけもなく、これは自分の教訓書としては不適切だ。

頭も、顔も、体格も、全部が悲しいくらいに平均で凡庸ぼんようで。

だから、つまらなかった。

毎日をいつも通りにいなすだけの日常が鬱陶しい。

窓の外に広がる青い空を見飽きるくらいには、毎日が飽和していた。


 「これ、学級日誌。立花くんの番だからよろしくね」

授業が終わった後、声をかけてきたのは学級委員長の女子だった。

鹿島菜月かしまなつき、確か剣道部に所属している才色兼備の学生。

帰宅部の自分とは関係性が薄いが、それでも自分は彼女のことが好きだった。

どうにかして近付きたかったが、きっかけも無いのに近付くのは不自然だ。

そんなことを考えている内に高校二年生になって三ヶ月が経ってしまった。

もうすぐ夏休みが始まってしまう。

所々でうるさいくらいに蝉が相手を求めて鳴き始めている。

蝉ですら相手を見つけるというのに、自分ときたら。

そんなことを思いながらも学級日誌を受け取り、今日の日付を記入した。



 まっすぐに伸びた平坦な帰路は、まるで自分のこれからの人生を暗示しているようだ。

職員室に学級日誌を返しに行った帰り、汗を流しながら家へと帰っている。

高校から自宅までは幸いなことに徒歩で十分程度だった。

本当はアクセス重視で高校を志望したのだけど、それは秘密にしている。

「暑い」

思わず独り言を呟くくらいには、太陽が照っている日だった。

こんな日に限って雲は太陽を隠してくれない。

「つまらなそうな顔をしてるね、お兄さん」

背後から突如として声がした。

蝉時雨や車の行き交う音が耳喧みみやかましいこの雑踏の中でも、その声ははっきりと聞こえた。

でも、最初は自分にかけられた声だとは思わなかった。

だから振り返らなかった。

「そこの学生服のお兄さん、アンタのことを言ってるんだけど」

そこまで限定されてようやく、自分はそちらを振り返った。

「なんだ、聞こえていたのか。てっきり耳が悪いのかと思ったよ」

少年だった。

やけに年を食った喋り口調だったが、見た目の年齢は明らかに自分より低い。

中学校に入ったばかりといったような身長と顔立ち。

しかし身に纏っているのは制服ではなく、七分丈の簡素なシャツと同じく七分のズボン。

足元にはサンダルを履いているが、この気候では七分でも相当暑そうだ。

「なんだよ、お前」

自分は馴れ馴れしく声を掛けてくる中学生に苛立って、思わずそう返す。

最近の中学生って、こんなものなのだろうか。

「そんなイライラしないでよ。カルシウム足りてる?」

「コイツ……」

陽炎かげろうで景色が歪みそうな暑さにも関わらず、少年は涼しげな顔で小馬鹿にする。

その余裕な表情と暑さとが相まって、苛立ちのボルテージは更に上がった。

「だから、そんな怖い顔しないでって。良いことしてあげるからさ」

「良いこと?」

なんだか薄気味悪かった。

小生意気だとは思うのだが、それ以上に少年にはなぜか貫禄があった。

言葉にいちいち説得力というか、人をいなす膂力りょりょくのようなものがあった。

「ここじゃ暑いしさ、そこの木陰で話そうよ」


 少年の後を付いていくようにして木陰に移動したが、それでもやはり暑かった。

だが、直射日光が防げただけでも少しは良しとしよう。

「で、良いことってなんだよ」

暑いから早く話を終わらせてほしかった。

そう思うならば今すぐ走って逃げれば良いのだが、そういう訳にはいかなかった。

そういう訳にはいかない、と思ってしまう何かの防御機構が働いていた。

やっぱり、薄気味悪いな。

「ここでこうしてお兄さんと出会ったのも何かの偶然、ある意味運命だろう? だからさ、その運命を記念して、お兄さんに力をあげるよ」

「力? ってなんだよ」

「そうだなぁ……。じゃあさ、こんなのはどう?」

見ててね、と少年が立ち上がる。

自分は気に寄りかかるようにして少年の後ろ姿を見ている。

目の前には道路があった。

未だに車が排気ガスを撒き散らしながら行き交っている。

「見ててよ」

もう一度だけ少年が言うと、少年は右の指を鳴らした。

刹那。

今まで周囲に響いていた喧騒が、一気に止んだ。

突然のことに、脳が追い付かない。

耳に触れてなぜ音が消えたのかを探っていた自分に、少年が呟く。

「そこじゃなくて、目の前を見なよ」

その言葉通りに目の前を見る。

異様、とか言い得ない光景だった。

目の前の道路を通過していた車が一切合切その場で停止しているのだ。

音一つ出さずに。

それどころか、車の中にいる人間は一ミリも動かない。

道路の向こう側にある道路を歩く人々も同様に動かない。

今この場で動いているのは、自分と少年だけだった。

「分かった?」

「分かったって……その、これは」

少年がもう一度指を鳴らすと、再び音が耳に入って来た。

人も車も、再生ボタンを押されたビデオのように動き始める。

「月並みな、君たちの言葉でいうところの時間停止っていうのかな。この力を君にあげるよ」

「お、俺に……?」

「君以外に誰がいるわけ」

少年は自分の隣に寄りかかるようにして風を浴びる。

自分はそんなことが気にならないくらい、考えていた。

時間を止める力。

そんなものはファンタジーや創作の世界だけのものかと思っていた。

しかし今その力は目の前に確かに存在している。

それどころか、その力を自分に与えてくれるというのだ。

それじゃあ、まるで。

神様みたいじゃないか。

いや、待てよ。

ならばその神様のような力を披露したこの少年は、一体……。

「そのかわり」

空想を打ち砕く様にはっきりと、少年は続けた。

「時間を止められるのは君たちの感覚における十秒だけだ」

「じゅ、じゅう……十秒?」

言い間違いじゃないよな、と確認する。

「そう、十秒だ。それ以上は君の力じゃ止められない。で、更に言うならば一度十秒時間を止めたら、その後一時間はその力が使えなくなる。チャージタイムみたいなものだな」

「な、なんで」

「時間が止められるだけ良いじゃないか。普通の人間なんてコンマ一秒も止められないんだから」

「そうだけど……」

それにしても十秒っていうのは短すぎないか。

せめて一時間、いや三十分は欲しいだろう。

しかも十秒止めたら一時間は時間を止められないのか。

とすると一日で最大二百四十秒、つまり四分しか止められないってことになる。

四分って、やはり短いだろう。

しかも連続した四分ならまだしも、十秒ずつ切り取られた四分なのだ。

そんな短時間で何が出来ると。

「なんで、なんで十秒しか止められないんだよ。理屈は、根拠は」

自分は小学生のような意地悪な質問を少年に投げかける。

みっともないが、この際外聞は気にしていられない。

説明できないなら納得できない。

「理屈も根拠もあるが、理解できるかどうか」

「良いからしてみろよ」

「仕方ないな」

少年は目の前にある砂に木の枝で絵を描き始めた。

地球の絵と、その上に立つ棒人間の絵。

「良いか、時間っていうのはな、共通なようで共通じゃないんだ。正しく言うならば星には星の体内時計があって、その上で暮らす生物はまた別の体内時計を持っている。言うなれば地球と人間は違う体内時計を持っているってことだ」

「なんで体内時計が別々なんだよ」

「星は、それ単体だけで生き続けることが出来るが、その上で暮らす生物は単体では生きていけない。もちろん土壌となる場所……人間でいう所の地球がなければ人間は生きる場所すら無いし、それ以外にも太陽が近過ぎれば人間は焼け死ぬし、離れ過ぎれば凍え死ぬ。星と人間というのは生き方が違うから、時間というものの刻み方、概念自体がそもそも違うんだよ」

絵にバツ印を付けながら、少年が続ける。

「今、俺が時間を止めて見せただろう? あれは生物の時間を止めたんだ。星の時間は止めていない。つまり生物や生物が作り出した機械類などの一切合切は止まったけれど、星自体は動き続けているんだ。太陽や地球の自転、月の公転は止まっていない。君が十秒しか時間を止められない理由の内の一つがこれだ」

「どういうことだよ」

「たとえば俺が君に一時間時を止める時間を与えたとして、すると君は他の生物達よりも時を止める度に一時間長く生きることになるわけだ。しかもその一時間は正しく刻まれた時間ではなく、時間を止めて動いた一時間なわけだろう。つまり、君は他の生物達と一時間、齟齬そごが出来てしまう。そして多分君はまた一時間、また一時間、と何度でも時を止め続ける。するとね、最終的に君と他の生物との時間概念の間に溝が出来てしまって、君は人間と星の中間にいる存在になってしまう」

「そうだとして、そうなったらどうなるんだよ」

「人間と星の中間、ということは君は人間でも星でもない、概念の無い存在になるということだ。つまり君は自我も、そして肉体すらも存在できなくなってしまうんだよ。永久に宇宙の法則ルールの狭間で揺蕩たゆたうことしか出来なくなるってわけだ。実に愉快だろう」

「じゃあ、十秒ならばいいのか」

「十秒、というか四分は人間が一日で止めていられる最長の時間だ。十秒止めるごとに一時間チャージタイムを与えるのは、その一時間で君と世界との齟齬を俺が修正するからだ。十秒程度であればそれほど齟齬も凄くないから、一時間で直せる。つまり一時間おきに十秒というのは人間が反動や副作用を気にせずに時間を止めていられる限度の時間なんだ」

少年はやはり涼しげな顔をして、自分を眺めている。

「まぁ、君に力は与えたけど使わないって選択肢ももちろんあるわけだ。十秒で出来ることなんか所詮限られているからね」

「お前……一体」

「それはまた追々ね」

そう言うと少年は立ち上がり、手を上げた。

「さっきは分かりやすいように指を鳴らしたけど、別に特別なサインは必要ない。手を叩くでも頭の中で念じるでも、君が止めたいと願えば時間は止まる。十秒経てば自然に時間が動くから、そこも心配しなくていい。それじゃあ、楽しい時間停止ライフを送ってね」

小さい手をひらひらと振りながら、少年はこの場から去って行った。

両手の手の平を眺めながら、自分は額から伝う汗を拭った。



 家に帰って来ると、冷房の風が身体に吹いてくる。

「あら、おかえりなさい」

居間へ至ると、母親が晩御飯を作りながら自分に声をかける。

「今日は唐揚げよ、あ、つまみ食いしちゃダメだからね」

机の上には山盛りになった唐揚げが湯気を上げて主張している。

母親はコンロの前に立って味噌汁をかき混ぜている。

「あ、そうだ」

誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟くと、鞄をソファに置く。

せっかくだから、試してみるか。

念じるだけで良いって言っていたけど、分かりやすいように手でも叩いてみるか。

必死に脳内で止まれ、と祈念しながら思いっきり手を叩いた。

「…………」

閉じていた目を、少しずつ開く。

音はしなかった。

先程まで聞こえていた味噌汁の煮えた音も、冷房の音も、全てが掻き消えている。

味噌汁をかき混ぜている母の手も、目線も眉根もぴくりとも動かない。

本当、だったのか。

唖然としながらも、十秒が過ぎる前に机の上に乗った唐揚げを一つ口に放り込んだ。

揚げたての唐揚げは噛むと内包していた熱気と肉汁が口に溢れて、一瞬吐き出しそうになる。

なんとかそれを嚥下えんげした頃には、時間が動き出していた。

「どうしたのよ、いきなり手なんか叩いて」

首だけをこちらに向けて母親が訊ねる。

そうか、手を叩いてから時間が止まったから手を叩いたことは記憶しているのか。

ならば頭の中で念じた方が良いかもしれない。

「い、いや。蚊がいたから」

「そう。いやねぇ、もうそんな季節かしら」

「ちょっとシャワー浴びてくる」

「うん、いってらっしゃい」

駆けだす様にして自分は洗面台の方へと歩いて行った。

本当だ。

本当に、時間が止まった。

確かに言った通り十秒だけれど、それでも時は止まった。

口の中に残る唐揚げの風味が、それを物語っている。

「どうしよう……」

自分は洗面台に映る汗まみれの自分の姿を見つめて、一つ呟いた。

時が止められると言っても十秒だ。

確かに使わないという選択肢もあるが、せっかくならば使いたい。

それにしても十秒で、一体何が出来るというんだ。

しかし少なくとも、つまらない日常からは抜け出せそうだ。

自分は頭を抱えるようにして、これからの日常を想定していた。

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