第4話 西棟

 丸腰のネフィウスに先導されながら、中庭に面した回廊を歩く。背後からは従者だろうか。ネフィウスと同じ臙脂色のジェストコートを着た若者が続く。袖に飾りはなし。サーベルを吊っている。

 今まで居たところは北棟というらしい。目通りは西棟で行うとのこと。

 どうやら館は中庭を囲むように四辺からなる建物のようだ。

「それにしても見事な装束にございます」

 時折振り返りながら歩くネフィウスが、大紋直垂を眺めながら感嘆する。

「一族の中でもこれを着たものはごく僅かなれば、誇りにござる」

 郷にも同じ直垂があるが、袖を通したことはない。

「その青い紋は何を表しておいでなのでしょう?」

「ああ……」

 嘴を下に向け、両翼を持ち上げた青い鳥。何かを掴もうと広がるかぎ爪。

「こちらでは不吉な鳥だったはず。鴉……青の大鴉紋」

「お、仰る通りにございますな。鴉は死を運ぶ凶鳥……あ、いや失礼を……」

 失言、と焦るネフィウスに笑みかける。

「文化の違いは承知。お気になさるな。こちらの鴉は災い呼ぶやも知れぬが、この大鴉は青。青い鳥はこちらでも瑞兆では?」

「はい。幸福の象徴にございます」

「確か、兄妹が幸福の象徴たる青い鳥を探す旅に出るが、それは最も身近な鳥籠の中にあったと」

「シュウ様は教養もおありですな」

 そのまま解釈すれば、貴族令嬢が自由な暮らしに憧れてみたものの、結局は貴族の暮らしが幸せだったということか。確か続編は妹の婚約ではなかったか。

 北棟の突き当り。ここも吹き抜け。階段を下りれば、天井から吊るされた灯りで、大きな影が回った。

 西棟の回廊は館の外縁に沿っている。外は暗く、石組に嵌め込まれたガラスからは何も見えない。

 ゴウ、と風の音に葉擦れが混じる。

 外を気にしている様子を気取られたか、ネフィウスが立ち止った。

「何か気になりますかな? 館の西側は山深きノスキーラ。少し登った浅い場所に、今は使われていない離宮がございます。深い場所は険しく、獣も多いので、地元の猟師でさえ近づくことはありませぬ」

 星も見えないわけだ。

 嫌いではない。

「良き闇かと」

 ネフィウスと二人、ガラス越しに闇を見つめていると、背後から咳払い。

 ガラスには己の姿。

 闇を見入ってしまっていたようだ。

「おお、今はそういった時ではございませんでしたな。ささ、シュウ様。あちらにございます」

 ネフィウスは情緒がわかるようだ。

 その離宮とやらで、共に月でも愛でたいものだ。

 少し先で、観音扉が内側に向かって開いている。扉を抑える使用人の間を通って、足を踏み入れる。

 一見して篭城を念頭に置いた造り。脱出は庭側か。

 右奥に暖炉。季節がら、火は入っていない。

 その上に飾られた肖像画は、黒髪の女性。裾の膨らんだ白いドレス。意思の強そうな凛とした黒い瞳。

 吸い寄せられるように、その前へ立った。見上げる。

 姫様。

 間違いない。初代様。

 ああ、まさか初代様にお目通りが叶うとは。

 視線は、白き山を向いておられる。

 そこから郷をご覧になっておいでか。

 再び、役目を果たさんと一族より参りました。恐れらくは私で最後になりましょう。

 一礼。

 顔を上げて振り返ると、ネフィウスも肖像画に向かって礼を取っていた。

 一つ頷きあって、室内を見回す。

 掃き出し窓の外、バルコニーには歩哨が立っている。腰ほどの高さだろうか。両側の階段を降りれば庭。そこにも武器を持った者の気配。

 高い位置から垂らされたカーテンの影にも、僅かだが潜んでいる気配。

 ふむ。

 入口から左奥。窓を背に、細やかな彫刻と刺繍が施された、二人掛けのソファ。小さな丸テーブルが添えられている。同じ装飾の背もたれのない物は、足置きか。

 同じ並びの手前に、頭がスッポリ隠れるほど、背もたれの高い椅子が二脚。微妙に内側を向いている。ソファと同じ並びにあるということは、付き添いや立ち合いの者が座るのだろうか。なぎ倒せば障害物としては十分。装飾的でありながら実用的。

 さて、どう待てば良いのか。席次は理解しているつもりでいたが、いざ臨んでみると段取りがわからないことに気付く。

 席次は奥へ行くほど上位。向かって左側が上座。

 ソファを正面に、椅子との視線が交わる辺りに伏していれば良いだろうか。いや、奥に行くほど格が上がるはず。椅子より奥は不味いか。

 暖炉の前に立ったまま、そんな考えに耽っていると、先触れ。

「アレッサンドロ・バルロ・マテウス・オフィニウス=サヴォイア辺境伯」

 やはり来たか。

 『マテウス』が母親の、『オフィニウス』が父親の姓だろう。

 アレクは入ったところで一旦立ち止まると、ネフィウスに向かって厳しい表情で頷いた。

 黒地に金糸銀糸で所狭しと刺繍の施された、前開きのジェストコート。長い裾には、帯剣するためのスリットが入っている。同色のジレ(ベスト)とキュロット。白いタイツの足元はコールと揃いの柔らかそうな布靴。腰には蔦の装飾が見事なサーベルを吊り、背中に垂らした金髪は黒いリボンで結ばれている。

 頬の傷さえなければ、美しいとさえ思える貴公子ぶりだ。

 暖炉の前の私を見付けると破顔し、上品な足取りで近づいてきた。

「ほう、見事な装束ではないか! その青い鳥がお主の紋か?」

 この獰猛な笑みと、豪放磊落な喋り方では貴公子は無理か。

「私の家紋ではないな。これは役目を表す紋だ」

「ほう。その鳥は何だ?」

「鴉だ。それよりも傷はどうだ?」

 鴉と聞いてぎょっとしたアレクの首筋は、複雑に結ばれたクラヴァットに隠れている。

「か、鴉だと?」

「面倒だな。ネフィウス殿に説明したばかりなのだが」

 ちらりと扉近くへ移動していたネフィウスを見ると、話は聞こえていたようだ。肩を竦めて、こちらへ。

 傷は問題ないようだ。

 浅いとはいえ、斬ったはずだが。まさか避けられた?

 いや、今は忘れよう。

「サヴォイア卿、シュウ様の郷では、青い鴉は瑞鳥にございますそうな」

「ほう」

「神の御使いといわれている。死神の僕たる黒鴉とは違うぞ」

 こちらの神とは違うが。

「なるほど。シュウ殿の郷では鴉も青いか。それならば役どころも違ってこよう」

 郷でも普通の鴉は黒いがな。

 先ほどネフィウスと共に案内してくれた従者と思しき若者が、ネフィウスの側にやって来て耳打ち。さっと離れた。

「お嬢様がいらっしゃいます」

 衣擦れを曳き、ゆったりとした足取りで現れたのは、肖像画と見紛う、黒髪の姫だった。

 歳の頃は三十手前か。落ち着いた美しさと、迫力を感じる。青い瞳。

 このお方が当代の姫。

 青地に金が散る裾の長いガウン式のローブは、ラピスラズリのように輝く。縁取りに白兎の毛皮。胸当ては藍。腰に黒曜石の石帯を巻き、羽織っているのは、青色無紋の唐衣からぎぬ

 右足を引き、右手を後ろへ。左手を胸につけ、礼を取った。

「初めて見るドレスだな。一段と美しい」

「サヴォイア卿」

 僅かに非難めいた口調。はっきりとした、芯のある声だ。

 衣擦れの音。伏せた視線の先にラピスラズリ。

「シュウ様。シエラ・アリアンナ・ファルネーゼ様にございます」

「カモノシュウジロウマサムネ。こちらの言い方ではシュウジロウ・マサムネ・カモ」

 面を上げる。

 目が合った。青い瞳はどこまでも深い。神聖な者=アリアンナ。

「御伽噺だと思っておりました」

「それでも貴方はその唐衣をお召しくださった。守り刀はございますか?」

「これに」

 胸元に抱いていた懐剣を差し出した。

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