俺が熊で君が人で

神原 怜士

第1話 俺が熊で君が人で

 気が付いたら、俺は熊だった。何故なのかはわからない。でも、俺は自分が人であった記憶も持っている。俺は犯罪者だ。容疑は殺人未遂。護送される途中で事故があったところまでは覚えている。そして気が付いたら、俺は熊だった。

 体型から察するに、子熊・・・?いや、もっと大人の熊に近いかもしれない。自分が熊になった自覚はあったし、なんとなくサバイバルの経験もあったので、食べ物には困らなかった。ただ、動物の肉体になって初めて分かる。人間と言う生き物がどれほど便利な体つきをしているのか、ということだ。

 どのくらいが経過しただろうか、冬がまだ来ないところを考えれば、一年は過ぎていないだろう。俺はいつも通り、山の中を食べ物を探し回っていた。熊になって分かる便利な嗅覚。しかし、この匂いは…人間?

 微かにまだ覚えている。人の記憶から考えうるこの匂いは間違いなく人間。人間を食べるなんてできるのだろうか。しかし、熊がよく人を襲い、食い殺すなんてニュースは毎年のように聞いているし、多分今の俺にだってそれができるだろう。

 匂いが強くなってくるにつれて、熊になってわかる聴覚の鋭さが感じ取る。

(これは…泣き声??、しかもまだ幼い子供の泣き声だ)

 近くまで来ると見えてきた。熊だけに視力は人間と同じ…いや、もっと悪いかもしれない、色覚もモノクロテレビとまではいかないものの、ぼんやり色を感じることができる程度だが、そんな目を凝らして見てみると、そこには女の子が泣きじゃくる姿が見えた。歳は…小学生の5~6年くらいの11~12歳といったところか。胸の小さな膨らみが、それ以下ではないと感じさせる。

 俺は泣きじゃくるその子に近づいていった。2m…1m…さすがに間近に迫った熊に気付かない人はいない。

「きゃああああああああ」

 泣き声と同時に悲鳴が上がる。当たり前だ。君は人間で俺は熊なのだから。

「あうぅぅ、逃げ・・・ひっく、なきゃ、、、ひっく、、、にげ・・・な・・・」

俺はジッと彼女を見下ろすが、言葉とは裏腹に、動けない彼女の行動に気付いた。

(足が・・・折れてるのか)

 恐らく急斜面を滑り落ちたのだろう。命だけは助かったであろうが、体のいたるところは擦りむき、右足は酷い方向に曲がってしまっているのがわかる。こんな状態では逃げることもできないだろうな。

 彼女との距離はあと15cmだろうか…。彼女も既に自分の運命を悟ったのは、目をぐっと閉じたまま息を殺してジッとするようになった。だが、体は痛みと恐怖でガタガタ震えているのが俺には分かった。

(ふぅ…仕方ない)

 俺は彼女の顔を2~3回舐めてやった。

「え・・・?」

 彼女は俺の舐めまわし攻撃に、不意を突かれたのか、まだ涙も乾ききらないその目を、片目だけ開けて、俺を見つめてきた。俺は、周囲を見渡し、適当な木の枝を咥えると、彼女の足元にソッと置いてみた。

「枝・・・?」

 そりゃそうだろうな。野生の熊がいきなり舐めて、枝を置いたところで何を感じ取れるだろうか。俺はもっと何かないか見渡す。あとは紐のようなものがあれば…くそっ…いくら森の中とはいえ、簡単にはいかないか。俺はとりあえず彼女を安心させることを第一に考えて、彼女の顔を再び舐めてやった。

「きゃっ、クマさん舌ザラザラだようぅ」

 少しだけ彼女が笑顔を見せた気がした。

「クマさん、もしかして私の…足、折れてるのわかったの?」

最近の子供はとは聞くが、冷静さを取り戻すのも早いな。俺は軽く彼女に対して首を縦に振ってやった。

「ありがとう、クマさん。」

 しかし、さすがに冷静さを取り戻したと同時に痛みも来たのだろう、この一言を最後に、彼女はまた痛みに堪える顔で、うずくまってしまった。俺は、ようやく蔓系の植物を見つけ、あまり動かせない前足の爪で引っ掻いて、少し剥がれたところで口を使って引っ張り抜き、彼女の元へ持ってきた。

 再び顔を舐めてあげると、彼女はまた俺にニコリと作り笑顔を見せた。

「木の枝・・・あと・・・紐・・・?あ!」

 どうやら彼女も気が付いたようだ。彼女は俺が持ってきた枝と蔓を使って、自分の折れた足を固定し始めた。さすがにこのくらいの歳になれば、結ぶのにそれほど時間はかからなかった。

「まだ少し…痛い…けど、大丈夫だよ、クマさん」

 先ほどよりは、彼女の顔に安堵の表情が見えた。しかし、彼女の不幸は続く。さっきから妙に冷えると思ったら、ポツリ、ポツリと雨が降り出したのだ。

(まずいな…ここでびしょ濡れになれば体温が奪われて、やがて低体温症になってしまう)

 しばらく熊をやってて忘れていたが、俺は有名な医大を一応卒業しているので、医学の心得は少しあった。だがどうする。言葉を発しようにも俺は既に人ではなくなっている。鳴き声程度しか出すことはできない。

 雨はあまり強くはなかったが、しかし弱いわけでもない。彼女の体が震えてきているのがわかる。何か手はないのか…。

(あ・・・)

 落ちつけ…俺。俺は今何だよ。熊じゃねぇか。できるのは一つしかない。俺は彼女のすぐそばで丸くなり、彼女を温める事にした。

「クマさん・・・あったか~い。・・・」

と、彼女が少し目を閉じて身を寄せてきた。雨はすぐに止んできた。どうやらにわか雨だったようだ。しかし、濡れた彼女の体からは徐々に体温と共に体力も奪い去っていく。震えるその体で必死に俺にしがみついてくる彼女を見ていると、久しぶりに忘れていた人間の感情を思い出してくるのを感じた。

 このままここにいれば、彼女はいずれ死ぬかもしれない。俺は未遂とはいえ犯罪者だ。自分の彼女を殺しかけたのだから。彼女は俺の子を身籠っていた。俺は結婚が怖くて彼女に下すように言ってしまい喧嘩になった。気が付くと、俺は血まみれの彼女の横に立っていた。救急車を呼び、一命は取り止めた。だが、俺が彼女にしてしまった罪は変わらない。ここでこの子を見殺しにしたら、俺は更に後悔する。そんなのはもう嫌だ。

 俺は彼女の顔を再び舐めた。

「クマさん、どうしたの?」

 俺は必死に顔を上下させる。

(立てるかい?)

 そう言いたかった。しかし、彼女には届かない。そうだ、俺は熊だ。熊なら熊のやれる範囲でなんとかしよう。俺は彼女の服を背中からできるだけ破かないように、慎重に甘噛みして、彼女を立たせようと試みた。

「立て・・・?ってことかな。うんやってみる」

(通じた・・!?)

 彼女は俺の毛を掴んで、ゆっくりと立ち上がった。汚れた白いブラウスからは、雨の影響かうっすらと二つの突起物が見える。って俺は何を考えてるんだ。次は、俺自身が地面に伏せ、彼女に背中に乗るように合図してみる。

 最初はやはり通じなかったが、感の強い子なのか、すぐに痛い足から俺の背中に飛びついてきた。毛が引っ張られて少し痛かったが、そんなのは気にしない。俺は彼女が落ちてしまわないように細心の注意を払いながら、山を下っていく。

 既に辺りは暗くなり始めていた。このまま我武者羅に山を下りて里に出たら、俺自身一発でお陀仏だろうな。俺は自分が寝床にしていたところに彼女を連れて行くことにした。そこは、崖の麓に大きな木の根っこが、まるでテントのようにせり出した雨なら簡単に凌ぐことができる場所で、俺が熊になって初めて辿り着いた俺のねぐらだ。

 近くには川もあり、恐らく川が一時的に増水した際に、木の根元の土をさらっていってできた自然のものだろう。あそこなら水分である水もある。辺りは更に暗くなり、塒に着いた時には、既に夜になっていた。幸い、今宵は満月の光が辺りを薄暗く照らしていた。

 彼女を最初に水辺に下すと、よほど喉が渇いていたのだろう。彼女は川の水を両手で懸命にすくっては飲んでいた。そして、俺の塒で一晩を過ごした。雨の時と同様に、丸くなった俺の横でぴったり張り付くように眠る彼女の顔まであと15cmくらい。熊でもキスはできるのだろうか。そんな事を考えつつ、俺も眠りに就くことにした。

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