第8話 崖の上から

「ネ、ネコ。お、俺は近くの川まで水を汲んでくるから小屋は頼んだよ」


 小屋の外から青年が声をかけると、中から「はーい!」と少女の元気な返事がかえってきた。


 丘陵の頂上、大樹の傍らにある小屋は長年放置されていたものの石造りのしっかりしたもので、青年が懸念していた雨漏りや窓の割れなどは見られない。

 が、どこもかしこも埃まみれで、空気が淀んでいた。


「ネコ、掃除するっ!」

 

 そんな小屋の様子を見て、少女が任せてと手を上げた。

 青年も手伝おうとしたが、少女は自分ひとりで出来るからと外へ追い出されてしまった。

 どうやら青年に色々と教わってばかりで、自分も何か出来るところを見せたいらしい。


 空気を入れ替える為に開放された窓から中を覗き込んでみたら、少女は意外にも手際よく掃除していた。

 これなら小一時間もあれば、とりあえずふたりがしばらく暮らすには問題ない状態にまで回復できるだろう。


 ならば、と青年は小屋の傍の大樹へと足を運んだ。


 青年が最初にここを訪れたのは、今の少女のような年齢の頃だった。

 あの頃はこの大樹がとんでもなく大きく見えたものだ。

 しかし月日が流れ、その分だけ青年が成長した今見ても、やはり大きい。

 幹の直径は青年が両手を目一杯伸ばしたほどもあり、視界を上に向ければ遥か上空でそよそよと気持ち良さそうに風で揺らめく枝葉が見えた。


 青年は木漏れ日の光を眩しそうに見つめると、注意深く木の幹を観察しながら視線を下していく。

 ようやくお目当てのものを見つけることが出来たのは、意外にも予想より下のほうだった。

 ごわごわとして強靭な樹皮の一部分に何かを縛り付けていた跡。子供の頃は背丈よりも高いところにあったはずなのに、今となっては青年のお腹あたりだ。


「…………」


 黙って跡を撫でると、また熱い何かが胸のうちから零れそうになったので、青年はぐっと堪えた。

 気持ちが落ち着いてきたところで、背負っていた荷物袋から頑丈なロープを取り出すと、その一端を頑丈に大樹へと巻きつけて固定する。


 そしてもう一端を崖下へと投げ下ろした。


 しゅるしゅるしゅると残ったロープもどんどんと崖下へと突進し、やがてピンと張り詰める。

 見下ろすとロープの先端から数メートルほどが崖下の岩場に横たわっていた。

 

 これで崖下と大樹をいつでも往復する事が出来るようになった。

 ロープは昨晩アジトで念入りにチェックしたし、大樹の信頼度はそれこそ何年も前に確認済みのお墨付きだ。


 とは言え、一度念のために降りてみるべきだろうか。


 青年は一瞬考えたが、結局やめておいた。

 もし何かあって少女が自分を頼りにした時、そこに誰もいなかったらどう思うだろう?

 置き去りにされたと勘違いして、パニックになりはしないだろうか?


 ましてや青年がロープを伝って崖下に下りていると知った日には、少女はやりかけの掃除も忘れて「ネコもいくー」と面白がって降りてくることだろう。


 結果、掃除が中途半端になってしまうのもよろしくない。

 崖下から戻ってきた時にまだ掃除が残っているなんて、考えるだけでうんざりする。


 なので青年は近くの川へと水を汲みに行くことにしたのだ。

 おそらく少女が掃除を終える前に戻ることが出来るだろう。

 そして冷たい水でも飲んで一息ついたら、ふたりで崖下へと降りよう。

 

 その時から少女の訓練を開始だ――


 青年の目に確かな意志の焔が燃え始めた。





「うわーい! 海だあぁぁ!」


 ロープで降りて崖下の岩場に降り立つと、少女はやにわに服を脱ぎ出して、すぐ目の前に広がる海へ飛び込もうとした。


「…………」


 が、少女が脱ごうとした服を青年は無言でぎゅっと引っ張ると、彼女の暴走を押し留める。


「なんで止めるのぉ、イヌー!?」


 ブスっと膨れて抗議する少女。


「あ、遊びに来たんじゃない」


 言葉は相変わらずどもっているものの、強い口調で少女を諫める青年。


「遊ぶつもりじゃないよっ! ネコ、海に潜って今夜のおかずを獲るつもりだったんだから!」


「さ、魚は嫌いじゃなかったっけ?」


「嫌いじゃないよっ。あまり好きじゃないだけ……って、イヌの意地悪っ!」


 ぷいっと少女は顔を反らすが、それはむしろ青年にとっては好都合だった。

 反らした少女の頭を両手で持つとそのままぐぐっと上げて、どうして崖下へとやってきたのか、その目的である対象物へと視線を向ける。


「いたたたっ! 痛いよー、イヌ! 怒っちゃヤダよ!」


「お、怒ってるんじゃないよ。ネ、ネコ、アレを見て」


 命令された少女は目を見開いて、青年が言う『アレ』を見ようとする。

 でも。


「アレって何? ネコたちが降りてきた崖しか見えないよ?」


 少女の視界に広がるのは、断崖絶壁の岸壁だけだった。

 見ているとまるでこちらに倒れてきそうな感覚に陥る、圧倒的な自然の壁。それ以外のものなど何も見えなかった。


「う、うん、崖だね。い、今は波が引いているけど、満潮時には今俺たちが立っているところも海の中に沈んで、あ、あの崖に波が打ち寄せるんだ」


「ふーん。あ、だからあんなに抉れちゃってるんだねっ。昔、海の近くの町にいた頃、魚釣りが大好きなお爺ちゃんから海の水が何年もかけて岩を削るって聞いたことがあるよっ!」


「そ、そう。す、垂直を超えて抉れた崖、お、おまけに苔もびっしり岩肌にこびりついて滑りやすい。ま、まさに難攻不落な自然の要塞だよ」


 だけど、と青年はどこか緊張した面持ちで少女を見やって言葉を続けた。


「ネ、ネコ、君ならこの崖を登ることが出来るんじゃないかな?」


 勿論、木登りと崖登りでは勝手が違うのは分かる。

 それでも青年は今まで少女ほど器用に素早く木登りする人物を見たことがなかった。

 かつて自分と同じぐらいの年齢で、やはり身軽さが武器な男の子がいたこともある。しかし、その子でも見劣りしてしまうぐらい、初めて少女が手近な木に登って見せた時は衝撃的だった。


 と、同時に青年の中にすっかり消え去ってしまっていたと思っていた、ある感情が湧きあがったのだ。


 希望、だった。


 もう決して手に入らないと諦めていたもの。

 それが少女の登場で突然目の前に現れたような錯覚すら覚えた。


 今度こそ。

 今度こそ、このチャンスを掴まなくてはいけない。

 

 その為には少女になんとしてでもこの崖を登りきってもらわなくてはいけなかった。


「この崖を登るの?」


「う、うん」


「そんなの簡単だよっ。だってロープが」


「ロ、ロープは使っちゃダメなんだ」


「あ、そうなんだ……」


 少女の快活な口調が曇った。


 やはりあれほど身軽な動きを見せる少女と言えども、この立ち塞がる断崖絶壁を前にしては気後れするらしい。


 だけどそれは事前に予想していたことでもあった。

 人間誰しも未知の不安には押し潰されそうになるもの。

 その恐怖に立ち向かい、打ち勝つには周囲の後押しが必要だ。


 そこに少女が望むが望むまいが関係ない。


 盗賊団のため、そして青年自身の希望のためにやってもらうしかないのだ。

 ならば多少強引であり、それがきっかけでこれまでの関係が壊れるようなことになろうとも、青年は少女の背を押し続けるつもりだった。


「ネ、ネコ……」


 青年はますます語調を強めてその名前を呼ぶ。

 その時だった。


「あっ!」


 少女がするすると青年の手から逃れて走り出した。

 しまった、逃げられたと青年も慌てて後を追う。

 が。


「にゃー!」


 一声挙げて少女が飛びついた先は、件の断崖絶壁だった。


「にゃにゃにゃにゃにゃーっ!」


 そして猫の鳴き声を真似ながら、少女が猛烈なスピードで崖をよじ登っていく。

 その動きはまるで猫がぴょんぴょんぴょんと家の軒先から軒先へと飛び移るかのように軽やかで、青年は思わず見蕩れてしまった。


「にゃにゃにゃにゃ! にゃあっ!?」


 と、少女の足が苔で滑って一瞬体勢を崩した。

 あわや転落かと思ったが、すかさず滑った足を別の岩に乗り換えて踏ん張ると、体勢を整えて再び登り始める。


「や、やめるんだ、ネコ! い、今はまだ登らなくていい!」


 少女のピンチに我に返った青年が慌てて下から叫ぶ。


 青年の言う通り、今はまだ訓練の目的を伝え、それをなんとしてでも達成しなくてはいけないことを少女に認識させるだけのつもりだった。


 たとえ登らせるにしても、それはほんの数メートルあまり。

 それ以上は仮に失敗して墜落しても下は海となる、満潮時にやらせるつもりだった。


 だが、少女は聞こえないのか、それとも聞こえているが敢えて無視しているのかは知らないが、変わらず「にゃにゃにゃにゃ!」と叫びながら登り続けていく。

 時折先ほどのように足を滑らせたり、手をかけた岩が脆く崩れたりして、その度に青年は生きた心地がしなかった。

 にもかかわらず当の本人である少女は登るのを最後まで諦めず、ついには


「やったー! イヌ、やったよー! ネコ、ロープなしに登りきったよーっ!」


 と、岩場で呆然と見上げる青年に向けて、少女は崖の上から大きく手を振ってみせるのだった。

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