死後物語 BLUE
辺名緋兎
死後物語 BLUE その1
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死後の世界があるかどうかって?
そりゃあ、あってもらわなくちゃ困るよ。でなきゃまっとうに生きる理由なんてどこにもなくなっちまうんだから。
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彼は死につつあった。
彼、絹田永一郎は、自らを平凡な男だと思っていたし、人生もそれにふさわしく平凡なものだと思っていたが、死につつあるいま、そうではなかったのかもしれないと思い直してもいた。
そもそも、平凡とはなんだろう。
地球上に六十億いるという人間たちには、ひとりひとり別々の人生がある。
まったく同じ生い立ち、まったく同じ生活をしている他人なんてひとりもおらず、だとすればみんなが非凡な人生を送っているわけで、平凡な人生なんてこの世にはない気がするが、きっと平凡とは他人と同じという意味ではないんだろうと永一郎は思う。
平凡とは、要するに、語ることがすくない、ということだ。
平凡な人生とは、せいぜい数行の文章で書き終えられるような人生を言うのだろう。何百ページの大長編をもってしても描ききれない人生は、つまりは非凡な人生ということだ。
自分の人生で語るべきこととはなんだろう。
絹田永一郎はごくふつうの両親の元に生まれた。父親は公務員だった。母親は専業主婦。兄弟はいない。
とくに大きな問題や困難に直面することなく学童となり、だれもが経験したり考えたりするであろう悩みを抱えながら学校を卒業した。公務員になる道を選んだのは、父と同じ道を進みたいと思ったわけではなく、単純にいちばん安定した職業に就きたかったから。そして絹田永一郎は市役所に勤めることになり、これもまた大きな問題や困難に直面することなく日々を過ごしていて――そして今日、死ぬわけだ。
死を語るにはすこしページ数が必要かもしれない。その一点で、永一郎は自分の人生は平凡ではなかったと思う。
おれは病気で死ぬわけでも、事故で死ぬわけでもない。殺されたのだ。
殺したのは大貫眞未。学生時代の同級生で、恋人だった。愛人、というべきかもしれない。
永一郎は高校時代、彼女のことが好きだった。
元々存在はもっと幼い頃から知っていた。同じ小学校、中学校で、何度か同じクラスになったこともあったが、異性として意識したのは高校二年のとき、最後に同じクラスになったときだった。
それは淡い恋心で、直接眞未に告白したこともなければ、別々のクラスになってしばらくすると自分でも忘れてしまうようなものだったが、しかし時間が経ってその恋心が完全に消滅したわけではなかった。そう思い知らされたのは、就職して三年目にあった同窓会だった。
お互い大人になって再会したとたん、いままで死んだように息をひそめていた感情が暴れ出したのだ。
その感情を無視することもできただろう。永一郎ももう大人だったし、彼女もそうだった。諦める理由はたくさんあったにちがいない。お互い離れた場所に暮らしていることや、彼女がすでに結婚していたこと――それでもなぜか、ふたりは惹かれ合った。
いっしょに死のう、と言い出したのがどちらだったか、永一郎はよく覚えていない。
しばらく考え、わかった、と答えた記憶があるということは、言い出したのはきっと眞未のほうだったのだろう。
心中。
実際はそれほど思い詰める理由なんてなかったのかもしれない。
たしかに眞未は結婚していて、この関係は不倫にちがいなく、しかしまあいまどきは世間にもよく聞く話だろう。死ぬくらいなら眞未が離婚をすればいいだけのことで、離婚に伴ういろいろな問題くらいは乗り越えていける自信があった。
それでも、いっしょに死んでほしい、と言われたら、いやだ、とは言えなかった。
どうせ人間はいつか死ぬのだ。生まれたからには、必ず、どんな聖人君子も悪人も、平等に死にゆく。いつ死ぬか、どうやって死ぬかのちがいがあるだけだ。
不治の病で死ぬ人間もいる。不意の事故で死んでしまう人間もいる。自殺する人間もいるだろう。殺される人間も。
どうせ死ぬなら、と永一郎は思ったのだ、どうせいつか死ぬなら、この世界でいちばん愛しているひとに殺されたい、と。
直接、眞未に殺されるわけにはいかなかった。眞未と同じ場所で死ぬわけにもいかない。眞未は既婚者であり、たとえ死後のこととはいえ、夫とはまったく関係ない男の部屋で自殺していては後々問題になる。
「わたしたちのことは、だれにも秘密ね」
まるでちいさな少女がちょっとしたいたずらを告白するように、眞未は笑った。
「だれにも気づかれないまま、わたしたちは愛し合って、突然消える。それって美しいと思わない?」
美しい死に様なんてあるんだろうか。きっとそんなものはない。死んだ姿はだれだって醜く、グロテスクなものだ。魂の抜け落ちた肉体は、ただの肉の塊でしかないのだから。
結局、永一郎は眞未の手で大量の睡眠薬を飲まされ、そのあと眞未は別の場所で自殺することに決まった。
眞未はまだ生きているだろうか。永一郎はフードプロセッサに頭から突っ込まれたような気分で考える。おれは、まだ生きている。息が苦しくて呼吸ができない。息を吸おうと思うと嗚咽が溢れてくる。ベッドの上でもがき、苦しみ、これをがまんすれば死ねるのだと自分に言い聞かせても、ふとした瞬間に生き延びたくなってしまう。
身体のなかで臓器という臓器が互いに敵対し、殺し合っているようだった。脳みそもその戦争に参加している。眼球も、舌も、胃も、肺も、腸も。血管のなかをトゲのついた鉄球が転がっているような。世界がぐるぐる回って、しかしある瞬間にふとすべての苦痛が消え去ったような、苦しい夢から覚めたような一瞬があり、またすぐに苦痛のなかへ引き戻される。
それを何度か繰り返しながら、永一郎は眞未のことを考えた。
眞未。きみもいまこんな苦しみを感じているのか。それとももっと簡単な、あっさりと死ねる方法を選んだのか。やっぱり死は美しくなんてない、ただ苦しくて醜いだけだ、きみがここにいなくてよかった、おれが苦しんでる姿をきみに見られずに済んで。
気が遠くなる。ようやく死ぬのかと思ったが、それは浅い眠りで、まだ目が覚めて苦痛がはじまり、水中で窒息するような苦痛のあと、永一郎の身体からふと力が抜けた。
その瞬間、絹田永一郎の命はこの地球上から消滅した。
彼の身体はただの肉の塊となり、ベッドに横たわり、この翌日、整えていた手はずどおり家へ遊びにきた友人によって発見された。
死体の状況、そして残された遺書から、絹田永一郎は自殺したということで決着し、だれも真実を知らないまま葬式が終わって、絹田永一郎の身体は火葬された。
そして彼は――。
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