時代の迷い
瞬太郎は毎日、朝飯を済ませるとどこかに出てゆき、夜になってから戻ってくる。稀に、朝になっても戻らないこともある。
「瀬尾さん」
久二郎が瞬太郎を呼び止めた。さん、というのは様、が砕けたもので、この頃には普通に用いられていた。また、~
「どうした、綾瀬君」
瞬太郎は、流行りの言い回しで久二郎に応えた。
「毎日、土佐様の手伝いをしに行かれるのですか」
「まあ、そうだよ」
「もし、お役目の中で、遊郭などに遊びに行くようなことがあり、
瞬太郎の戻りが遅いことから、夜遊びもしているものと思っての頼みごとである。
「そういえば、人探しをしていると言っていたな。身内かい」
「妹です」
「じゃあ、あれだな。悲しくも身売りされていった妹を探しに、京に来たわけだ」
「はじめ、そうお話ししたはずですが」
「そうだったか。すまん」
からからと笑い、瞬太郎は歩き出した。
「千、だったか。その名では、見つからんと思うぞ」
「なぜです」
「お前、なんにも知らないんだな。遊郭に売られてきた女が、親からもらった名のまんまで働いているものか」
瞬太郎は哄笑した。笑い声が大きく、よく日に焼けた頬骨が張っており、愛嬌がある。物言いはぞんざいなところがあるが、嫌味はない。
久二郎が困っていると、瞬太郎は歩みと笑いを止め、ため息をついた。
「妹の、特徴は」
「歳は、今年で十六。背は低く、色は白いです」
「駄目だな」
「なぜです」
「お前、背が低くて色の白い十六の女なんて、京に何人いると思ってるんだ。俺に、京中の女を抱けっていうのか」
と、また笑った。
「ま、それも悪くないがな」
と
実際、久二郎は上七軒や、日によっては祇園までも足を伸ばし、方々を訪ねて歩いたが、瞬太郎の言う通りならば、千、で訪ね歩いても分かるはずがない。また、貧乏な流れ者の久二郎と彰介は実際に遊郭に上がり込むわけにはゆかず、
もう、冬になっている。京の広さと寒さを知らぬ久二郎と彰介は、年が明けるまでには見つけたい、と無謀な願望を抱きつつ、山あいの雪の多い生国とはまた違う盆地の底冷えに身体を震わせていた。
道場にいても、特に何をするわけでもない。主であるはずの大政老人は、稽古を付けてくれるわけでもなく、猫ばかり可愛がっている。仕方ないので久二郎と彰介は、今までの通り二人で稽古をした。それ以外の時間は、折角なので、道場や小さな屋敷を掃除して回った。
瞬太郎が帰っており、四人で夕飯を食うときは、もっぱら時勢の話をした。草深い田舎から出てきた、武士ですらなかった久二郎と彰介は、なんとなく世情のただならぬことを知ってはいたが、話を聞いていよいよ世は荒れているらしいことを知った。瞬太郎の口からもたらされるのは、先日も開国派の某という公卿が斬られ、切り取られたその首が屋敷に放り込まれたとか、奉行所の某という与力が鴨川に浮かんでいたとか、物騒な話ばかりである。それを、どことなく嬉しそうに、誇らしげに語る瞬太郎を見て、久二郎は何となく、瞬太郎もまたそういった過激な攘夷行動の信奉者であるのかもしれない、と思った。
この時代、思想を持てば、既に志士である。しかし、明確な思想哲学を個人がそれぞれ持つほど社会は成熟しておらず、大抵は、誰かの提唱した価値観をそのまま受け入れるか、焼き直して使うかのどちらかであった。だから、自らの意思ではなく、誰かの意思の実行者として、ためらいなく人を斬れるような手合いがいる。
ごく稀に瞬太郎が漂わせる血の臭いから、もしかしたら瞬太郎もまた人を斬ったりしているのかもしれない、とも久二郎は想像した。
久二郎にも彰介にも、思想はない。尊皇の思いはこの時代の常識として、貴賤に関わらず必ずある。しかし、世は混沌としており、まだ明確な倒幕論などはなく、乱れているとはいえ幕府が倒れるようなことがあるなどとは誰も思いもしなかった。
こののち、僅か数年で、一挙にそれまで長きに渡って存在した幕府が無くなるわけだから、時代の勢いとは分からぬものである。
久二郎などにすれば、幕府は偉い、偉くないという話ですらなく、木を見て誰もそれを鉄と言わぬように、あるいは猫を見て誰もそれを馬と言わぬように、当たり前のもの、普遍のものとして捉えており、世の中のほぼ全ての人間の認識がそうであったと考えてよいと思う。
今のところ、時勢の話を持ち込んでくるのは瞬太郎であるため、久二郎と彰介にもたらされる世の中のことといえば、そちらの方面の情報しかない。ほんの少し前まで、幕府の「ご政道」についてあれこれ論じることすら無かった人民の自発性の芽生えとも受け取れる現象が、今まさに久二郎の目の前で起こっている。
しかし、久二郎にすれば別にどちらでもよく、瞬太郎が時折漏らす幕府への不満や批判なども、お上のすることだから自分があれこれ論じてもしょうがない、くらいにしか思っていない。そういう意味では、久二郎に思想はない。ただ妹を早く探してやりたい。その思いだけがある。見つけたあと、どうするのかは分からぬ。村に帰るのか、もっと別の道があるのか。
久二郎だけでなく、この暗澹とした時代そのものが、どちらに向かって進むべきか迷っているような具合であった。
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