初恋の恋文
冠梨惟人
第1話
今、ここにいるのはお腹が痛み出し、激しく心を乱したからで、目についた建物が大きくて立派だったから出入り口を探して、何人かの男女が入り乱れるように硝子扉から出てきたのを押しのけるようにして扉を開けたから。
建物に入りすぐに後悔したが、もうあきらめるしかなかった。後悔を消し去るほどの痛みに追い込まれながらも考えた。きいたほうが、誰でもいい、手洗いのありかを知る誰かを。屈むように歩いて通路を曲がったら目の前に出てきた。切羽詰まった声を出したのだろう、驚いた顔をした。だが、本を抱えた若い女の人はぼくの手を掴んで走り出す。
痛みが落ち着いた今となっては、とても恥ずかしく、あの人をまともに見ることも出来ない。でも、お礼は言わないといけない。心配そうに見知らぬ男の手を掴んだ本を抱えた若い女の人のことを思っていると、なぜか、失ったはずの想いが心に浮かんでいた。
中学生になる前だった。親の都合で何度も転校を繰り返していたから友達を作りたいという気持ちも薄れ、ただ勉強させられるために学校に通っていた。あの微笑みを見るまでは。少女は図書室にいた。少女に会えるのは昼休みだけだった。初恋だった。恋といっても、本を読んでいる後ろ姿を遠くの本棚の端から見つめるだけだったけど、それでも少女を見ているだけで生きていて良かったと思えた。はじめて自分から声をかけようと思い悩み、声をかける勇気がなくて、結局想いを手紙にした。書き上げた翌日、図書室に来なかった。その日から図書室に行っても見ることはなかった。気になって探した。少女が二つ上の学年だと知った時には、転校していた。図書室の奥に並べられた机の片隅でたくさん小説を積み重ねほんとに小説が好きだというように、目を輝かせて漏らしていたあの微笑みが好きだったのだと、微笑みを失ってわかった。あれからぼくは小説が嫌いだ。見るとあの微笑みを思い出し、また失う。だから。
ぼくはあの頃と何も変わらない。気持ちを言葉にするのが苦手で、目を見て話せない。相手が自分をどう見るのかが怖くて、気持ちを打ち明けることも出来ない。感謝の気持ちを言葉にするだけなのに、ぼくはいまだに手洗いの個室から出る事が出来ずにいる。あの時、一日でも前に気持ちを打ち明けることが出来たら、はっきりと失うことが出来たのに、あの微笑みが、今でも心の奥で本をめくっている。二十年以上生きてきたけど、これだけがゆいつ捨てられない、幸せだったあの時の不幸な記憶。
「すみません。子供がもう我慢出来ないんです」
個室のドアを悲痛な声が叩いたから、反射的にドアを開けて個室から飛び出し、逃げるように出た。ドアの閉まる音を聞いてから、手を洗うと一つしかない出入り口に向かって歩きだした。
薄い灰色の、狭い通路を抜ける。がらんとした広間が広がった。これまで足を踏み入れたことなどなかったから整然と並んだ木製の本棚の列にもワックスで濡れているような床の艶にも気後れして目を伏せていたら、声がした。顔をあげたら、いた。愛らしいと感じてしまった顔が、微笑んだ。その若い女の人は抱えた本を本棚に戻す作業をしているようだ。ぼくの手を掴んで走った女の人だった、図書館の係員だったのだ、だからエプロンをつけているんだ。なんと声をかけられたのかわからなくて、うなづいた。感謝を口にしたかったのに、うつむいた顔を上げられなかった。
本棚に本を戻し終わった若い女の人は、足早に去っていこうとした。うつむいたままの視界に入った白いソックスを見た瞬間、図書係の女の人の微笑みにあの少女の微笑みが重なっていた。淡い桃色のエプロンに挿していた名札が、少女の名字と同じ佐藤であることを記憶の中のぼくが見つけていた。
小学校の図書室だった。窓から陽射しが溢れ、手にした本の表紙が微かに光っていた。
真剣な目で少女は文字を追いかけていたのに、横から話しかけられて本から顔を上げた。
「佐藤さん、小説が本当に好きだね、いつも読んでるよね」
声がした、少女の名字が、佐藤ということをこのときはじめて知った。
教えてくれた背の高い、女の子らしくない女の子はあまり、佐藤さんと親しくないのだろう、下の名前を呼ぶことはない。
「わたし、小説家になりたいの」
見上げるように顔を上げると、微笑んでいった。ぼくのなかで微笑みが、咲いた瞬間だった。佐藤さんならきっとなれるよ、心の奥で思いが、白い光のように乱反射した。
建て付けの悪かった軋むドアを開け、色褪せた古い景色から戻ると、本棚の前にぼくは立っていた。図書係の人がしまった本の背表紙を見つけた。佐藤さんが読んでいた小説だと思いだして、本を引き出した。
「わたし、小説家になりたいの」
少女が声に変えるにじんだ響きが、手を掴んで走った図書係の女の人の声に聞こえた。
咲かずに散った淡い恋と入れ替わるように、ぼくの風景は汚れ濁った。父親が母を捨てた。父をなくし転校する理由がなくなり、ぼくは中学、高校とこの街で育った。
夫が消えると妻は変わった。歳若い娘に負けた現実が、貞淑な淑女を壊した。見ず知らずの男がいる我が家に多感な少年が耐えられるはずもなく、聞きたくない母の声が、顔が、いたたまれなくて、偽りに縋りつきながら溺れ、壊されていく母親を守りたいのに、何もかも忘れたくて、打ち込めるものを掴んだ。なければ哀しみが、涙が止まらなくて。
永遠に愛すると誓った女を捨てた男の血が、体を流れている。好きとか、大切にしたいとかそんなことを思っても、ぼくもいつか壊してしまう、幸せにすると誓い重ねるこの手で。
何度となく若い男に使い捨てられ、いつまでも残るのは憎んでいる、恨んでいる男に似てきたぼくだけだと、母は抱きついて崩れる。ぼくだけは流れる血も、老いていく女も捨てることが赦されない。怖かった、心が砕けるのが。他人を見下す様に、愛しているはずの母親に冷めた目を向けるようになった自分が。強くなりたかった、強さを求めた、強くなるしかなかったから、打ち込んだ、割れることのない巻藁に拳を撃ち込んだ、泣くことしか出来ない弱さを変えるために拳を握り、空手という未知の世界に没頭した。敵無しだと感じさせた、何度となく撃たれ、蹴られ、投げられ、地を這わされた天才と称されていた師匠から余裕の笑みを消させ、構えさせるようになった時、怖いものはなくなった。でも最も怖いもの、男の血を忘れ去らせることは、愛に疲れて老けた女の顔が赦さない、秘めた初恋は、薄青い炎のように焦がれた思いを溶かし、苦く濃い飴色に絡められる。老いていく女が生きる意味が見えなくなった朝、握りしめるやわらかな温もりは冷たく色を失くした。
青く揺れる望みが固まり、底のない溝に滑り落ちたぼくには、優しさがみえなくなっていった。
逃げ出すほどに悩まされていた未来への問いかけに答える必要を失い、沈んでいく思いが、出口のない檻のような過去に囚われるようになっていた。少女はどうして、いつも図書室にいた。どうして、いつも本を読んでいた。残ったものが空手しかなくなったから、答えがわかった。掴めるものが空手しかなかった境遇になったから、同じ答えだとわかった。少女はあの時にはもう、逃げ込む場所が図書室しかなかった、架空の世界しかなかった、なぜわからなかった、あの微笑みは、誰にも向けられていなかった、あの微笑みは。
あとほんの少しでもぼくに勇気があれば、渡せた手紙、届けることの出来た初恋。失恋でもいい。失恋でいい、ただ言葉を交わしたかった。言葉を交わしたい、もしかしたら。
名字が同じといっても学校でも会社でも、同じクラス、同じ部署に必ずいるくらい佐藤という名の人はいる。もしあの図書係の人が図書室の少女、佐藤ふみだとしても、ぼくがあの時、自分を見つめていたことをあのひとは知らない。
後悔したくない、もう後悔は散々させられた、だからぼくは見つめるだけでは終わらせない、終わる時は思いを届けて。
ぼくの手を掴んで走った人は図書室の少女、佐藤ふみだった、図書館に場所を変えても、今も、小説家になる思いを叶えようとしている。
図書館に少女との思い出を借りに行くようになり、本棚付近で少しだけ会話出来るようになった。だから、本を収める白くきれいな左手の薬指に銀の指輪が鈍く光っているのを見てしまった。
決意は脆く砕けた。今の佐藤ふみには、微笑みを向ける相手がいる。なのに、ぼくは通い続けた。佐藤ふみとの記憶、佐藤ふみが図書室で読んでいた小説の題名を思い出しては借り続けた。淡い想いに遡っていた気持ちがいつしか今の姿への想いと結んでいた。
佐藤ふみが本棚に本を戻しながら微笑んでぼくを見た。淡い唇がぼくの名を呼んだ。
「田中さんは、ほんとに小説がお好きなんですね、私も小説が好きで、田中さんが借りていた小説は小学生の時にすべて読んだので趣味が似ているのかと思って」
「好きなんです(ふみさんが)小説描いてるんです(ふみさんは)」
「作家さんなんですか」
「いいえ、小説家を目指してるだけです(今は)」
「わたしも描いてるんです、小説。わたしも目指してるんです小説家、小学生の時から小説家になりたいと願ってきたんです」
熱く潤む眼差しが、思いを図書室に戻していた。
「田中さんはどんな小説を書いてるんですか」
嘘を疑う気持ちがまったく感じられない、そんな声できかれたら。
「(これから描くのは)拙い、恋の小説です」
「題名を、教えて頂けませんか」
「(今、思いつきました)初恋の恋文です」
「素敵な題名、読みたいです、読ませて下さい」
「わかりました。図書館の外で会ってくれるなら(死にもの狂いで、これから描きます)」
「お休みはいつですか」
「来週の月曜日です」
「では、月曜日までに連絡したいので携帯の番号を教えて下さい」
自分で驚きながら、ぼくは嘘を嘘と感じることなく偽りを吐いた。
小説家を目指していたことにしたぼくはこれから生まれてはじめての小説、それも恋の小説、初恋の恋文を描く。締め切りは日曜日。
恋と呼べるようなものは、小学生だったあの時の失恋しか、したことがない。渡せなかった手紙を読み返し、図書室で過ごした時に戻ったようにぼくは、転校した少女への思いを湧き上がらせ、震える思いを、響き返る音を、文字に、文章にした。
二日後、図書館が閉まるくらいの時間にはじめて、佐藤ふみに電話をかけた。そして、思い切って伝えた。初恋の恋文は、小学校の図書室が舞台の短編小説だと。
月曜日の朝、ぼくが生まれてはじめて描いた小説とは言えないような文章を読んで、佐藤ふみは涙した。
「嘘だったんですね、小説家になりたいという言葉は」
佐藤ふみの涙に濡れた声を耳にして、ぼくはやっとはじめての恋を失うことが出来たのだと感じ、目を閉じた。
「そのまま、私が良いというまで目を閉じたままでいて下さい」
喫茶店の静かなクラシック音楽に混ざる隣席の話し声に、被さるように紙の上をペンがすべっているような微かな音が耳をくすぐっていた。
「目を開けていいですよ」
原稿用紙を渡された。
「田中さんの小説を私の文で描くとこうなるの」
読めるように向きを変えて差し出された原稿用紙には、読みがなを書く欄にびっしりと赤い文字が書かれている。
「嘘を吐いた罰です。私の描いた恋文を読みなさい」
年下の者に命令するように少し強い口調で渡された原稿用紙に、ぼくは従うように目を落とした。
読み終わり顔を上げると、真顔のままに目を見つめてきた。
「建君。私にも、嘘があったの」
優しくはにかむように微笑むと、ぼくの右手に自分の左手を重ねる。
「これが恋文の返事。だから」
持ち上げられた薬指から消えた銀色の輝きと共に、はじめての失恋は失われた。
少しだけ遠い後日談になるが、図書室の少女が描いた小説、恋文の返事は佐藤文の筆名で本となり、ぼくは続編の最初の読者となった。
ぼくが書いた初恋の恋文は、まだ本になっていない。
初恋の恋文 冠梨惟人 @kannasiyuito
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