徒然なる短編集〜あるいは思いつき

ばね

第1話 「探偵と助手の無駄話」

「君はこんな話を知っているかね」


 煙草の煙の向こうから、“先生”がゆったりとした口調で話しかけてきた。

 こういうときは大体、深そうで深くない少し深い気がする話をもったいぶって私に語りたい時と相場が決まっている。

 これまでにも「アリとキリギリスはなぜキリギリスが成功者ではいけないか」「雨の日に傘を差すものと誰が決めたのか」「クオリアとはつまり蒼である」といった詭弁、屁理屈の類にしか聞こえないような小話あるいは哲学書の片隅に記されていても不思議ではないと一瞬思えるようなけったいな説得力を持った小論を、こういう午後のゆったりとした時間に語りかけてきたことが幾度とある。私はその度対等な議論(あるいは勢い任せの論破)を試みるが、一度としてまともな対話になった覚えはない。

 この鵺のごとき怪人は、そうして私の心にもやもやを植え付け、そのもやもやをそのまま顔面に浮かべ眉を互い違いさせる様を眺めるのが趣味であるに違いない。現に私が混乱しだすとハロウィンのお化けかぼちゃもかくやとばかりのニンマリとした笑みを浮かべるのだ。


「どんな話でしょうか」


 いくら負け続け勝利どころか引き分けへの見通しも立たない論戦であったとしても、当年とって二十と一つ、これまでの人生をのらりくらりと愛想愛嬌を織り交ぜた屁理屈で生き抜いてきた私がそうやすやすと白旗を揚げるのは少々格好が付かない。とりあえず“先生”の話に耳を傾ける。


「あるところに、怠け者だが足の速さに自信のあるウサギと、のろまだが勤勉でまじめなカメがいた」


「ウサギとカメ、ですか」


 今回は童話からの引用であるようだ。


「どうやらご存知のようだからかいつまんで話そう。ウサギはカメをのろまだとからかい、カメはウサギとかけっこ勝負をすることにした。スタートと同時にカメを大きく引き離したウサギは一安心、それ見たことかとゴール手前で居眠りをしてしまうが、ウサギが寝ている間も驚愕を禁じ得ないほどの勤勉さでもって歩みを続けたカメがついにはウサギを追い抜き、ここに才能よりも努力の方が価値あるものであるという証明が成されたのであった。とまぁこんな所でいいかね」


 大筋に否はないが、要約という割には装飾が過ぎるきらいはある。


「さて、童話、寓話の類は何かしらの教訓めいたものを読者に伝えんとするものだ。この話から君は何を読み取るかね」


 来た。“先生”のお楽しみタイムそのイチである。ここで私が迂闊なことを言おうものならたちまち思いも寄らぬ方向から襲撃を受けたちまち話の主眼がどこにあるのか見失わされてしまうのだ。


「・・・才能があっても油断をしていると足元を掬われる。最後に勝つのは努力に邁進した者である、というところですかね」


 迷った末、当たり障りのない一般的な見地を述べる。もちろんこれだけで終わっては敵の進軍を許すようなものだ。なにせ一般論を屁理屈で捻じ曲げるのが“先生”の趣味なのだから。


「ただ、それだけでは少々僕は納得できませんね」


「ほう」


「才能を持つ者は油断するな。こちらは良いんです。問題は『努力に邁進すれば良い結果を残す』という方です」


 “先生”はニヤニヤしながら煙草を燻らせている。


「この話、そもそもウサギが油断しなければカメは勝てませんでした。となると、才能のない者はどれほど努力したところで才能のある者には本来敵わないということになる気がしまして」


「素晴らしい」


 “先生”が煙の向こうで手を叩いて見せた。ここで舞い上がってはいけない。上げて落とすのは古来より彼のような性格の悪い者たちの常套手段なのだ。


「そこに気づくとはさすが我が千本木探偵事務所の有能なる助手君である」


 そう言いながら“先生”は次の煙草に火をつけた。一口吸い、煙とともに言葉を吐き出し始める。


「その通り。この話の落とし穴はそこなのだよ。これを真に受けたものは『努力こそが信じるべき成功への方策である』と信じ、向き不向きなどそっちのけで盲目的な努力を続ける。しかしこの話に隠された本当の教訓は『そもそも才能ある者と同じ土俵で戦ってはいけない。まして正面対決など』ということなのだ」


 一息でそこまでしゃべり、息継ぎのように煙草をもう一口吸う。さっきから燻らせ過ぎた煙のせいで、私からは“先生”の姿がまるで磨りガラスの向こうの人のように亡羊としてしまっている。


「努力は大変素晴らしいことだ。続けていれば一廉の人物にもなれよう。しかし、才能ある者が努力をしてしまえば凡人はまさにのろまなカメのごとくたちまちの内に引き離され、自身の非才に悩まされることとなる」


 “先生”の言葉は非情であり、今この瞬間目標に向けて努力を続けている人からすれば「やめてくれ」と両耳を押さえてのた打ち回らずにはいられないであろう呪言である。


「はて。しかしどうだろう君。この話のもたらす教訓は本当にこれだけだと思うかね」


「と、おっしゃいますと」


 一瞬“先生”のかもし出すいつもの奇矯な説得力に飲まれかけていた私だったが、突然の問いかけに自己を取り戻した。


「凡人は非凡なる者には太刀打ちできない。本当にそれだけがこの寓話の示唆するところだと思うかね。疑問に思うところはないかね」


 ここで“先生”のお楽しみタイムそのニに入ったことを私は知る。一度結論が出たと思わせて、そこから更なる屁理屈を搾り出そうとするのだ。当然悩むのは私であり、“先生”はそれをニヤニヤと眺めるだけだ。この人はまったくニヤニヤしすぎで唇が裂けるのではないだろうか。


「あー・・・その、何といいますか、そもそも何故かけっこ勝負なんかするのかといいますか」


「お見事!何だ、今日の君はずいぶんと勘が良いではないか。いつもこうだと、我が事務所ももう少し仕事が捗るのだがなぁ」


 苦し紛れで適当なことを言ってみたが、どうやら正解を突いたらしい。“先生”の言葉に内心胸をなでおろす。後半の感想は些か余計だと言わざるを得ないが。

 そもそもこの事務所の仕事が捗る云々と言った所で、肝心の依頼そのものが不良大学生のGPAほど圧倒的に足りないのだ。


「君の言った通り、カメはウサギの得意な分野での勝負を自ら持ちかけている。さて、なぜそんな不利な条件で戦うことを彼は決心したのであろうか」


 質問責めである。まるでゼミの発表者にでもなったような気分だ。こちらは単位がかかっていない分だけ気楽ではあるが。と、そういえば今度のゼミの発表会の準備を全くしていないことを唐突に思い出した。帰宅したらタイトル以外まっさらなワードファイルを開かねばなるまい。


「それは、ウサギから煽られたからでは」


「なるほど、ウサギに煽られ頭に血が昇ってしまったから、勢いで勝算のない戦いへ飛び込んだ、と。しかしその割りにどの本を紐解いてもカメはのんびりとしたものではないか『何をおっしゃるウサギさん』と余裕綽々といった風情すら感じられる。果たしてそれが本当の理由だろうか」


「それはまぁ物語的なというか」


「まぁそんなことはどうでも良い」


 意地になって表現技法的な所を突こうとした私は、“先生”の急激な方向転換によってたたらを踏んだ。全く、人を振り回すのが大層お好きな御仁である。

 いつの間にか次の煙草に火をつけていた“先生”は、うまそうに煙と言葉を吐き出した。


「ここで考えるべきは『才能ある相手の得意な分野で正面から戦うことの意義』である。果たしてカメは本当にかけっこに自信があったのだろうか。本気でウサギと競争して勝てると思っていたのだろうか」


 自分から勝負を持ちかけたのだから、やはり自信があったのではないだろうか。

 私の考えを読んだかのように頷いた“先生”は言葉を続ける。


「恐らくカメには自信があったのだろう。自身の努力を積み重ねる忍耐強さ、勤勉さはきっと間抜けなウサギを出し抜くことが出来るに違いないと。全く、愚かと言わざるを得ない。カメは盲目的な努力信者であり、努力が才能を打ち破ると信じて疑わず、目の前の圧倒的な実力差を認識することも出来ない愚昧な精神の持ち主である。カメが勝利できたのはまさしく偶然の賜物でしかない。途中でウサギが昼寝をしなかったら?昼寝をしたとして追いつく前に目を覚ましたら?仮に追い抜けたところでそこからゴールまでの間に気づいたウサギがどうしてカメを追い越せないと思うね」


 ふわふわとした童話の登場人物(?)に対してと考えると些か言いすぎな感はあるが、確かにその通りだ。カメはとんでもない楽観主義者でもあるのかもしれない。


「カメには幸運がついていた。だから勝てたのだ。これを普遍の真理と考えてはいけない。成功法則などというものはこの世に存在しないのだ。だが、我々がこのカメの姿から学ぶことが出来るのは何もネガティブな側面だけではない」


 すでに私から“先生”との論戦を繰り広げようという気持ちは失せていた。なにせ“先生”お楽しみタイムそのサンに入っていることに気づいていたからだ。


「そもそも、カメには走ること以外に得意なことは無かったのか。そんなはずはない、むしろ陸上を走ることはカメの出来ることの中でもかなり苦手なものの部類のはずだ。では、カメに出来てウサギに出来ないことはあるだろうか。これはある。断言しよう。ウサギは水中に居続けることが出来るか。スイスイと泳ぐことは。硬い甲羅で身を守ることができるだろうか」


 “先生”は一息ついて煙草を吸った。


「できはしないのだよ。それはカメの得意なことであって、ウサギのできることではない。カメにはこのような才能があるにもかかわらず、ウサギの得意な分野で勝負をしようなんて愚かしいとは思わんかね」


「得意不得意を見極めろ、と?」


 私の質問に“先生”は柔らかい笑みで返した、気がする。気がするとはつまり煙に包まれてもはや“先生”表情をうかがい知ることも出来ないからである。


「その通り。自分には才能が無い、向いていないと感じることを無理に続ける必要は無いのだ。趣味ならばあるいはそれでも良かろう。だが、勉強や仕事について己の非才に延々と悩まされながら出ることも無い結果を追い求めてなんになる。世間ではやれ『仕事は三年は続けろ』だの『たくさん勉強して良い学校を出ろ』だの個人の向き不向きから眼を背けた努力を強要する風潮が未だに残っているが、果たしてその強要に誰が責任を取るというのだ。君はわかるかね」


「いえ」


「誰も取らないのだよ。親も上司も友人も、政治家も宗教家も誰も干渉した個人の人生の責任はとらない。皆口々に言うだろう『期待しているからこそ言うんだ』と。全くもって大きなお世話だと思わんかね。誰も期待してくれなどと頼んではいない。そんなものはちり紙と一緒に便所にでも流してしまえ」


 “先生”は歌うように続ける。


「良いかね若人よ。君の人生は君だけのものだ。君自身が考え、君自身が納得し、選択すればよい。それを『逃げ』だ『弱虫』だなどという者など、君の人生の百万分の一ほどの価値も無い。なんとまぁ、他人の人生によくも土足で踏み入れるものだ」


 なんだかお悩み人生相談のような様相を呈してきたが、別に私は人間関係にも進路にも特に悩んでいないことは付記しておく。というより何も考えていなかったというのが正しいが。


「嫌なこと、向いていないことからは逃げればよい。世界は広い。たった一人の人生全てをかけても出会えないほどたくさんの事物が溢れている。益の無い悩みに汲々として貴重な人生を無駄にするくらいならば、さっさと見切りをつけて自分に向いているものを探したほうが余程良い」


 そこで言葉を切り“先生”はまた煙草に火をつけた。吸いすぎだろうと思うが、どうやら最後の一本のようだ。


「つまり『ウサギとカメ』の本当の教訓は『自身の得意な土俵を見つけて勝負しろ』であると?」


「私が君のゼミの教授であるならば、A評価を与えよう」


 “先生”は満足げに頷いた。


「まぁこれも言うなれば私による君への干渉だ。これを是として君の人生の指標の一つに加えるもよし、余計な期待と一緒に便所へ流すもよし、好きにしたまえ」


 そう結んで“先生”は椅子の背にもたれかかった。

 それと同時に私は気づく。またも雰囲気に呑まれなんとなく納得してしまった。しかしこう何というかもやもやする。

 とはいえああいう時は、こういう場合は、こんな状況も考えられるぞ。

 あれこれ悩みだした私がふと顔を向けると、最後の一本を吸い終え、薄くなってきた煙の向こうでハロウィンのお化けかぼちゃもかくやとばかりのニンマリとした笑みを浮かべた“先生”と目が合った。

 これがこの人の趣味なのである。

 私は脳内の対戦表にまた一つ黒星をつけると、諦めてソファに体を投げ出した。

 こちとら社会人経験も無い、勤勉さとは縁遠い模範的不良大学生である。こんな海千山千どころか海底二万海里を悠々と泳いで冒険しそうな怪人相手に太刀打ちできようはずも無い。たった今結論が出たではないか、向いてないと思ったら逃げ出すに限る。

 私がそう一人ごちたところで、事務所の扉が叩かれた。


「少年、お客人だ。応対を頼むよ」


「少年て年じゃないと何度も言ってるでしょう。それに、また大家さんかも知れませんよ」


「何を言う。昔から有能な探偵の助手は少年と相場が決まっている。それと、来客が大家さんではないのは明白だ。客人の迷いをあらわすかのように不規則で控えめなノックが三回。彼女にはそんな繊細なマネはできんよ」


 だいぶ失礼な“先生”の物言いをひとまず信用し、丁寧に扉を開けると、そこにはうら若く、こんな廃屋かと見紛うようなビルには似つかわしくない可憐さを湛えた女性が所在無さげに立っていた。


「ようこそ、千本木探偵事務所へ。何かお困りでしょうか」

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