ブラザーフット 5.9

026 帰省

 工房の脇を歩く。慣れた道。

 地べたに座って、一服する連中がいる。皆、見覚えのある顔。近付くと、おかえりなさいと口々に。


 「ただいま」


 柔らかな笑顔で、ジェイムズは返す。そして、また歩みを進める。ふと、上を見上げて、視界に入る旗。風に棚引く社章は、少しくすんでいて。寄った皺も直さないのは、その必要も無いからか。

 息を吸う。鼻からいっぱいに。ジェイムズは、何処其処の匂いが好きだった。だから嗅いで、その場所がどういうところなのか、確かめる。


 (うん)


 知っている匂い。頭に、体に、刻み込まれた匂い。革とか、染料とか、錆の入った道具の匂いとか。

 ――この靴工場に、ジェイムズは帰ってきた。紛れもない生家に。




 実家は、何か物寂しい雰囲気をもって、迎え入れてくれた。それもそうだ。休日でもない、昼間のこの時間である。父も兄も、事務所にいるだろう。

 家政婦のメアリだけが、家の次男の帰りを歓迎した。自分が生まれてすぐに雇った、我が家で唯一の使用人。


 「母さんは」


 メアリに聞く。彼女は、ジェイムズと自分の分の紅茶を入れて、椅子に座った。使用人といえど、彼女はこの家を自由に使える。


 「お買い物に行っていますよ。お洋服を見に行ってらっしゃいますから、当分帰ってこないかと……」


 メアリは申し訳なさそうに言った。事前に帰りの連絡は入れてある。けれど母は、そういうのを気にするような人ではない。


 「うん。いつもどおりだね」


 ジェイムズはそう言って、湯気の立ったカップに口を付ける。あれ――


 「これ、何だい?」


 変わった香りがする。嫌いじゃあ無いけれど、癖の有る。

 ああ。そう言って、メアリが教えてくれた。


 「紅茶に、ローズマリーが入っています。最近、気に入っておられて」


 ローズマリー、ハーブティー。母さんの趣味じゃあないな。こういうのに凝るのは、決まってる。


 「シエラ様も、喜びますね。あの娘は、ジェイムズ様に、一番懐いておりましたから」


 シエラ。三人兄妹の末っ子。半年ぶりだろうか、妹と会うのは。




 「ジェイムズ」


 暫く、リビングで談笑していたら、声を掛けられる。ジェイムズと同じ黒髪、癖っ毛は、整髪しているようだったが。


 「兄さん」


 六つ上の兄。アレン・マーシャル。工場の跡継ぎ。僕に、クライミングを教えた人。


 「話がある」


 そう言って、手招きをする。どうやら、真面目な話。メアリに紅茶の礼を言って、席を立つ。

 あまり楽しい話じゃ無いのだろうけれど。胸騒ぎは無い。きっと、どういう話でも、自分は受け入れる。




 「もう、ジェイムズ兄様も帰っている頃でしょう」


 鉄道駅での待ち時間。シエラは独り言つ。ピン、と張られた架線が影を落として、シエラに重っている。最近では、蒸気機関車をめっきり見なくなった。あの、可愛らしい顔が好きだったのに。


 「アレン兄様も、話してしまったのでしょうか」


 ジェイムズが帰ってきたら話す。アレン兄様はそう言っていた。こういう話を、人伝に済ますのは嫌だけれど。


 (ジェイムズ兄様、どういう反応をするのでしょう……)


 怒るのか、悲しむのか、両手を挙げて喜ぶのか。

 いいや、どれも違う。多分、うん、とか。頷いて。


 (分かった。そういうのでしょうね)


 シエラ・マーシャル。この名前とも、あと少し。名残惜しいけれど、家のためなのだから仕方ない。


 ――学校を卒業したら、結婚をするのだ。所以、政略結婚である。

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