005 スポンサー
ドルテの首都、サクソン。バスク大陸で、最も豪奢で、最も発展した都市の一つ。その中心からは少しだけ離れた場所に構えられた邸宅は、遠目に山々を望む立地と其の意匠から、主の人物像が見て取れる。鉄道駅から、|然程(さほど)離れていないという事実からも。
青年、ジェイムズ・マーシャルは、カーナーシス邸の書斎にいた。
「すまんな。もう少しだけ待っていてくれ」
華美でない、だからといって安物ではないだろうデスクで、カーナーシスは書物をしている。カリカリ、と万年筆が紙を滑る音が聞こえる。思えば、自分が大学を出る頃は、未だ契約書の類には羊皮紙を使っていたかと懐古の念にとらわれながら。
書類は、スポンサードについての契約書が主である。あの登りをみて、契約を結ばないような人間は、端から持ちかけたりはしないだろうと、老人は思う。
「なんなら、その辺にあるもの読んでくれたって良い。普段此処を尋ねる輩は気にはしないが。お前なら、寸暇を潰す程度にはなるだろうよ」
カーナーシスは、万年筆のペン先で棚の一つを指す。日当たりは無く、風通しは良い場所。この老人の、そこにある物への深い思いが見て取れる。古い、大学ノートの並び。それにいくつかの、専門書籍。間違いなく、鉄の男であった老人の記録達であろう。
「お言葉に甘えさせていただきます」
ジェイムズはそういって、ノートを幾つか手に取る。基本、人を待つのを嫌うような性ではない。本来、スポンサーとの契約の場面は、礼儀を重んじる場である。しかし、其れを気にする様な老人では無いのは知っていたし、自分自身も、古びれたノートに惹かれるものが有った。
表紙を眺める。年月や、山名が律儀に記載されている。計画書、記録書の類であろう。見れば、手に取ったノート全てがそうであった。その表紙に、気になった名前を見つける。ペラペラ、と頁を捲り、その項を見つけた。
――エル・グラン東壁、登山計画。ジェイムズは胸に高ぶりを感じた。我が国の登山史に残る、伝説の一つである。このノートをクラブに持ち帰れば、
「懐かしいな。山をやらないお前でも、其れは気になるか」
何を見るのか、カーナーシスは気になっていたのだろう、そう訪ねてきた。既に両目は手元に向けていたが。
「ええ。それに、山もやらないわけでは無いんです。エル・グランなんて、行きたくてたまらない。ましてや東壁は」
でも、行けないのだ。自分が臆病だから。雪崩も、落石も、山のために体を作り変えるのも。怖くて怖くて仕方ないのだ。クラブの奴らは、お前はそれでもいいと言ってくれるけど。
ジェイムズも、視線を手元に戻した。東壁の全景から、工程まで、事細かに記載されている。
エル・グランそのものの初登は、東壁の初登よりも古い。にも関わらず、この登攀は、未だに話題に挙がる。夏季においても氷雪の残る、岩壁の弱点を突いた、少人数アルパインの至高。クラブのクライマーは自信家ばかりだ。過去の登山史にケチを付けることは厭わないが、ことエル・グラン東壁に関しては、皆こういった。
――あそこは、良い。
そんなのを聞くたびに、ジェイムズは空想をしてきたのだ。岩壁の様相も、それを登る自分の姿も。
だから、今自分の手にあるノートブックは、いっとう魅力的であった。なる程、こうやって装備を検討したのか、とか。今の最新鋭とは違う、重量も機能性も劣るものを、頭を振り絞って使いこなしてきたはずだ。頁をめくる度に、自分が没頭していくのが分かった。
もとより集中しやすい
「さて」
手元の紙束を、ジェイムズに伸ばす。
「とりあえず、こいつを持っておけ。役所には出すものは、日を改めて向かおうか」
ジェイムズは、書類を受け取った。全て十分という訳では無いが、これで一先ず、個人間の契約は完了である。
「では宜しく頼む。私は、ジェイムズ・カーナーシスへの援助を惜しまない。しかし、仕事も忘れるなよ。トポはともかく、アプローチ図は、あれじゃあ駄目だ」
クラブの連中にでも教わっておけ、と言いつつ、カーナーシスは手を伸ばした。
「はい、精進します」
そう言って、ジェイムズは手を握り返した。
――ここに、契約は完了した。
「ああ、そうだ。本当は報告書を定期的に送って欲しいのだが、お前もそこまで気が回らないだろう。普段の生活もあるだろう、使用人を付けようと思っている」
邸宅から帰る間際、門まで送りに来たカーナーシスに、そう言われた。スポンサーの意向である。断れるものでは無い。
「本当は、登攀に理解がある人間が良いのだが、そう見つかるものでも無いだろう。取り敢えず、頭に入れておいてくれ」
それはそうであろう。使用人になるような人間は、裕福とはいえない者達か、或いは
「わかりました」
そう言って一礼した後、ジェイムズはカーナーシス邸を後にした。
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