第7話
道着に着替えた
「こちらになります」
――所見での感想は、「なるほど、これなら『道場』だな」である。
このときには、明智の感性はすでに毒されていたのかもしれない。
渡り廊下で移動していたために、正面ではなく、裏口の方から入ることになった。
建物の中は、百人以上入っても大丈夫なぐらい広く、床は完全に板張りだ。
「来ましたね」
声のした方向へ向くと、上座(と判断したのは、そこだけ高くなっており、彼女の背後の壁には何やら難しい四字の漢字が書かれた看板が掲げられていたからだ)に、一人の女性がいた。
彼女が着ているのは先程までの
剣道着の上から、
「防具と竹刀は用意しました。準備が整い次第、試合を開始します」
相手の宣言は唐突感があったものの、剣道着に着替えさせられたのでそれぐらいは予期していた。
それでも、明智は敢えて問う。
「理由は?」
美妃は「ふふふ……」と声に出して笑い、
「私はデータだけを信じることが出来ない人間なので……実際に自分の目で見ないと気が済まないのです……
その人の実力が知りたければ、実際に剣を交えればいい……違いまして?」
「……なるほど、分かりました」
これ以上の言葉は不要だと思った。
明智は用意された防具の前に正座し、
柔軟運動をし、竹刀を構えた。
右足を前とし、左足だけ踵を上げ、背筋を伸ばす。右手を上にして軽く添える形で握り、左手は握り締める。剣先は架空の敵の喉下に狙いを定め、竹刀を正眼に構える。剣道における基本の構えだ。
竹刀を振りかぶり、振り下ろすと同時に、すり足で移動。
身に着けた一連の動きを何度かなぞり、徐々に体に思い出させる。
最後に一度、竹刀を振り、残心を決める。竹刀を収めると、一礼し、残りの防具を着けに戻る。
その様子を美妃はじっと見ていた。
明智は
「
と命じる。
さらに、その三人とは別の侍女が、明智の背後から、「失礼します」と、胴紐の交差部に何かを縛り付ける。自分と相手を分けるための、紅白のたすきであろう。
明智と美妃が試合場となる、白のラインテープで示された一辺十メートル前後の正方形の外に立つ。三方の所定の位置に、紅白二本の旗を持った審判員役の侍女も立った。それぞれの立ち位置を考えると、明智は紅のようだ。
二人は互いに中央に歩み、腰を落し、竹刀を構える。
切っ先同士が触れるかどうかの距離で、
美妃の目が細められ、静かにこちらを見据えている。それはまるで、逃げようとする野兎を全力で狩る、獅子のようだ。
――最初から全力でいかないと
この瞬間、明智はこれが試合であることを忘れた。
二人が立ち上がる。
不動の状態でありつつも、相手の雰囲気に飲まれないように、闘志を奮い立たせる。
主審が、両者を見比べ、
「始め!」
と、宣言。
「
火蓋が切られると同時に、明智が動いた。
左足で力強く床を蹴り、相手の切っ先を弾き、相手の右手目掛けて竹刀を落す。
そこから「
竹刀が相手の
明智の身体が僅かに泳いだ。
相手の竹刀は、流れるようにこちらの
後の先。
明智の視界が揺れた。
「
三人の審判員が一斉に白の旗を上げた。
一時的に、明智は平衡感覚を失う。
あの華奢な腕からは想像できないほどの重い打撃が、明智の脳を揺さぶったのだ。
無様に倒れるのは辛うじて避けたものの、力の差は歴然だった。
――いや、まだだ。
剣道の試合は三本勝負だ。
両者ともに元の位置に戻り、再び向かい合う。
上げられたままだった白旗が下され、再度開始の合図。
明智は最初から打ち込むような真似はせず、正眼の構えのまま互いに睨み合う。
その間合いは互いに一歩踏み出せば打ち込める距離だが、互いの喉下に向け合った切っ先がそれを牽制する。
その姿勢のまま、二人はすり足で移動する。相手が離れれば近づき、逆に近づけが下がる――その繰り返しで間合いを保ち続ける。
いつまで経っても相手から斬りかかってくる気配がない。
先程と同様、こちらから打って出たところを仕留める算段だろうか。
しかし、このまま互いに打たねば、審判員から一度試合を止められる羽目になる。その場合、間合いを開けたまま構え直し、主審の宣告による仕切り直しだ。
ここで仕掛けるか、それとも仕切り直しを待って相手の出方を見るか。
そんな迷いが浮かんだ直後、美妃が竹刀の先端を弾くと、同時に踏み込んできた。
いつまでも打ち込まないこちらの動きに、相手は焦れたのだろうか。
――違う。
相手は、こちらが焦れるのではなく迷う瞬間を狙ったのだ。先程の二の舞になることを恐れつつも、こちらから攻め込まないと動くことがない今の状況――そこに生まれる心の隙に、美妃は付け込んだのだ。
再びこちらの
それを、明智は寸前のところで上げた己の竹刀で受け止める。
本来なら、そのまま返しの技を放つところだが、相手の突然の動きに付いていくのがやっとの明智にその余裕はない。
美妃はさらに
相手が
相手もちょうど振り返ろうとしているところだった。
すぐさま間合いを詰める。
攻守が逆転した。
明智は怒涛の勢いで相手の
そして、次々と放たれる技を、相手は涼しげに払い、まったく寄せ付けない。
どれほど攻めただろう。
明智は、
こちらはすでに息が上がろうとしていた。
相手の顔を格子越しに見た。
明智の心を絶望の二文字が染める。
――こ、この訓練官は化け物か!
彼女は
まるで、こちらの攻めが、すべてが児戯であるとでも言うように……それは、追い詰められ、抵抗を封じられた獲物を前に舌なめずりをする狩人だ。
明智の全身を恐怖が駆け巡った。
明智は、今一度竹刀に力を込め、相手の竹刀を押すと同時に後ろに跳ぶ。振り上げた竹刀で、下がり
だが、相手にはそんな行動はお見通しだったのだろう。
「
相手の竹刀が、こちらの
防具越しに伝わる打撃。
肺の中の空気が、すべて吐き出される。
胸にまで響いた衝撃で、呼吸が一時的に止まる。
それだけでなく、明智の動きも一瞬止まった。
そして、相手はその瞬間を決して逃さない。
明智は、相手が「
明智が最後に見たのは、自分の頭部に振り下ろされた、相手の竹刀だった。
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