肝試しの帰り道

小早敷 彰良

出題編

 気持ちの良い夏の雨の日、私は山道を歩きながら青ざめていた。

 鍵を忘れてきた。このままでは家に帰れない。なんて災難なのだろうか。

 心に靄となって焦りが溜まっていく。

 物を失くしたときの焦燥感は人間誰しも感じたことがあるだろう。ましてや大事な物を失くした私は今、世界で一番焦っている人間だった。傲慢にも、これを超える焦りを感じたことがあるのは逃亡中の連続殺人犯くらいだろうか、とすら感じられる。そんな人、二人といないと思うのだが。

 焦る気持ちを抑えて、スマートフォンを取り出して時間を確認する。ついでに、Twitterかどこかにこの不幸を投稿しようかと逡巡もしてみる。

 投稿することで一瞬でもこの焦燥感が落ち着いたらよい。けど、後々友人に見咎められたりして面倒なことになるかもしれない。幼馴染なんかは勘も良いから、きっとこんな危ない橋を渡っていることも見破ってしまうのだろう。それは非常に面倒臭い、何時間怒られることになるのかわかったものではない。

 結局時間だけ確認して、鍵の二の舞にならないよう、しっかりとポケットの中に仕舞い込む。

 19時。私のようなお気楽な一人暮らしの人間にとっては早すぎる帰宅時間だ。

 それもこれもあいつが悪い。

 あいつとは先ほどまで一緒にいた彼女のことで、呼び方で御察しの通りつい数分前に激怒したばかりだ。あんなことをしたあいつが悪いと言いたい。


 身体が冷えてきた。

 夏とはいえ夜で、雨。それに加えて今日は一日中外にいたのも一因だろう。

 ご飯は昼食を遅い時間に取ったから大丈夫として、朝を待つのはしんどそうだ。

 ここ、八王子の端には暇を潰せる喫茶店はない。ただただ橙色の光が無人の通りを照らしている。これでも東京都なのだから驚く。住民は多いはずだし15分も歩けば駅に着くのだけれど、山がちで木が視界を遮る地形だからなのか人っ子ひとりいないという言葉が相応しい光景だ。

 大学の同級生、都心に住んでいる羨ましい彼らからしてみると、住宅街のくせに信じられないほど人通りがないらしい。その所為か、日本人形が大量に遺棄されていた、なんて珍事がつい先月あったばかりだ。

 その所為で私のお気に入りだった、静かで木漏れ日が心地良い便利な森は一夜にして肝試しスポットになってしまった。

 ため息をついて未練がましく、背負っていたリュックの中を漁る。入っているのは相変わらずごみばかりで鍵はなかった。

 どうやら本当に件の肝試しスポットに忘れてきたらしい。


 私は頭を抱えた。19時は夜も浅い時間だと思っていたけれど、肝試しスポットに行くには十分に怖い時間だ。

 肝試しスポットとして有名になってから立てられた数々の噂が脳裏に過る。

 やれ防空壕で焼け死んでしまった霊が呻き声をあげているやら、その怨霊に誘われた殺人鬼が出没するやら、その被害者が数十人埋まっているやら。噂の尾鰭はどうしてこう派手につくのだろうか。戦時中防空壕だった廃墟があるのは本当だ。一人暮らしの呆けたお年寄りがその中に迷い込んで凍死し、半年後に発見されたことも実際にあった。でもそれだけだし、もう5年も前のことだってのに。

 山道らしくぬかるんだ水溜りからはねがあがる。レインコートを着てきて良かった、彼女のように傘で来るなんて正気の沙汰ではない。

 映画の主人公がわざわざ夜に化け物の出る場所へ赴くかが分かった気がする。きっと化け物が出た場合でないと映画にならないからだ。

「ガラリ」

 崖の上の方から石が転がり落ちてきて飛び上がる。

 何故こんな夜に上から石が? 野生動物でもいたのだろうか。八王子には動物も多い。狸や狐の類も見たことがある、それだろうか。もしくは私のような、肝試しの帰り道の若者だろうか。だとしたらこんな雨の日で、お気の毒だ。

 そう、あそこはもう肝試しスポットで無人の森ではない。鍵なんて大事なものは置いておけない。是が非でも今夜中に鍵を取ってこなくては。

 絶望的な結論に呻き声が漏れそうな口を押さえて来た道を振り返る。ここから歩いて30分という遠い道のりもそうだが、夜の山道は危険だというのは小学生でも分かることだろう。ましてや雨の日だ。滑って崖から落ちたらどうなるかは一目瞭然だった。

 だとしてもこの雨が止む前に行かなくては。


 首を振りつつ足を踏み出す。一歩目で枯葉に足を取られて滑ってしまった。前途は多難だ。

 もういっそ、肝試しに行くと考えよう。忘れ物を取りに行くというマイナスをゼロに戻す行為でなくて、友人に話すネタを増やしたと自分を信じ込ませて、この無為を少しでもプラスにしよう。そう考えたら、冷えた身体に少し力が戻ったように感じた。

 精神は本当に不思議だ。

 何かの拍子に鬱になって首を吊る人もいる。私なら1秒保たないような酷い状況を1ヶ月耐え切る人もいる。その違いは一体何なのだろうか。

 人間力の違いで片付けて良いものか。

 蛾が飛んできた拍子にバランスを崩す。

「きゃあっ! 」

 張り出した木の根っこを掴んで事なきを得た。変な声が出てしまったことに赤面してしまう。

 またも崖の上から石が落ちた。その音にまた驚いて、木を掴む手を滑らせかける。

 激痛を、木のささくれが掌に数本刺さっているのを、感じる。掌全体の違和感が強い。右の人差し指の爪の間に入ったささくれが特に酷い。

 見ると爪の中頃まで、長くひび割れた木片が刺さっていた。丁度ささくれの部分を引っ掻いて、潜り込ませてしまったのだろう。

 木片を急いで抜くと痺れるような激痛からじんじんと響くような痛みに軽減する。抜いてみるとそれはほんの1センチにも満たない長さだった。こんな程度でもその場にうずくまりそうなほどの痛みを感じさせる。

 指先は神経が集中しているせいで、他の部位に比べて刺激が強いのだと聞いたのはいつのことだったか。

 そういえば拷問で爪を剥がすという行為は古今東西を問わずあるらしい。人間どこ行っても考えることは同じ、と例に挙げて良いのだろうか。

 未だに痺れる右手を振りながらまた歩き始める。

 ここから先の道はかなり狭くなっている、晴れの昼間だったら心地良いハイキングコースだろうが、生憎今は真逆。慎重に行かねば。

 だから引き返したくなかったのだ。怖くて寒いくて、その上危ないだなんて、罰ゲームか何かではないか。

 世間の考えることはよくわからない。物理的な、落ちたら死ぬ道、というのも肝試しの恐怖に必要なのだろうか。もっとこう、粘着質な、心が冷え込むような恐怖のみじゃあ駄目なのか。


 みしみしぱらぱら、と崖の上から定期的に聞こえ、小石が落ちてくる。

 もしや崖崩れの予兆だろうか。そうだとしたらたまったものではない。なんて災難な日だ。

 心持ち、歩く速度を上げて道を辿る。

 崖崩れの前兆として、木の根が切れる音が聞こえるというものがあるらしい。そもそもその音を聞いたことがないため無駄な知識だけれど、それっぽいものは聞こえてこないため、崖崩れはまだ大丈夫、と自分に言い聞かせる。

 でないと恐怖に足を止めて引き返してしまいそうだ。

 まさか物理的な恐怖を強く感じるとは思わなかった。心霊ではなく生命の危機に怯えることとなるとは、全く不本意だ。

 今日ここに誘ってきた彼女、彼女の最後の顔を思い出して腹が立ってきた。

 そこまで頼まれたら仕方ない、と同級生の頼みを聞くんじゃなかった。友達は選びましょうという言葉が頭の中を回る。

 ほとんど話したこともないけれど、必死に頼むから何かよっぽどのことなのだろう、と思って来たのが間違いだった。自分の人を見る目への自信がなくなる。

「ぱらり」

 まただ。また、小石が落ちてきた。

 実はこの上にも山道はある。ここは丁度山の中腹あたりで、防空壕は山頂までの途中の道を少し逸れたところにある。だから、この上には山頂までへ行く道が並行してあったはずだ。

 といっても、ここまで小石が飛んでくる距離なのだろうか。上を見上げてみても暗くて全くわからない。

 たった30分の道のりになんでこんなにも心を乱されなくてはならないのか。ますます腹が立ってきた。彼女を見つけたら一発殴ってやろうか。

 結構な無理難題を押し付けてきたものだ、と、鍵を忘れた自分のことを棚に上げて彼女に対する怒りを溜めていく。

 実際に彼女を殴ると社会的地位を粉砕される可能性がある。その苛立ちを込めて八つ当たりとしてそこらの木を蹴飛ばしてみる。

「かららん」

 あぁ空き缶がふってきた。登山客か肝試し客が捨てていったのだろう、コーラの空き缶。缶や瓶のコーラはペットボトルと別格の美味だと思うのは私だけだろうか。一説によるとペットボトルはプラスチックの風味がうつってしまうから味が変わってしまうのだとか。そのことが本当だとしたら、少量しか味わえないということも相まって、あんなに美味しく感じるのも納得だ。

 コーラは良い。飲んだ後の爽快感も、満腹感も最高だ。悩むことなくコーラは選ぶことができる。


 誰かが私の跡をつけてきている。


 好物のこと、コーラのことを考えて現実逃避したい頭を夜に引き戻す。

 小石が降ってくるということはこの山道を並行して、この木立の中、斜面の中を歩いているのだろう。

 問題はそれが何者か、だ。

 普通の人なら私と同じく山道を選ぶだろうから、少なくとも疚しいことか精神に異常がある人なのだと思う。

 疚しいことってなんだろう。

 一番に思いついたのは恋人同士の睦言だった。私が疚しい人間であることがばれてしまうから自重してほしい。

 幽霊という線もあるのだろうか。もしくは喧嘩別れした彼女。

 どっちも勘弁してくれ。幽霊は本当に怖い。腕力でも知略でもどうしようもないことは苦手でたまらない。

 そもそも、本来私は怖がりで、暗がりに1人で向かうのをためらうような性格だ。だからこんなことをさせるのは止めてくれと、彼女には散々言ったっていうのに。


『えー、そう見えないよぅ? 幽霊とか得意そう。』

 彼女の声が思い出される。幽霊が得意な外見って何だ、ごついと言いたいのか、ほっといてほしい。

 今日の苦難を引き起こした安請け合いをした日はつい昨日の放課後だった。

『見えなくとも、怖いものは怖い。幽霊とか苦手なんです。』

『お願いだよ、真さんにしか頼めないんです。』

 彼女は甘えたように言う。ふんわりとした茶髪が長い睫毛に合わせて揺れている。可愛らしい容姿の彼女は、私に頼み事を断られたことに驚いているようだった。

『わざわざ私に頼まなくとも。いつも一緒にいる彼とか適任じゃないですか。』

『それは。』

『そういえば最近見かけないけど、彼は元気? 』

 彼とは、彼女の恋人である同級生のことだ。そもそも彼を通じて知り合ったのだから、彼に頼むのが筋ではないだろうか。そこまでして私に頼む理由があるとも思えないが。

 スプーンをせっせと動かしながら私は行かなくて良い理由を並べ立てる。こんな話の流れになると知っていたら、こんな15cmもあるパフェを頼まなかった。これ以上聞きたくないけれど、残して席を立つのも勿体無い。急いで食べようにも生クリームがもたれている。もしやこれを見越して、彼女は奢ると言ったのだろうか。

『彼は、彼は、私にはどうしようもなくて、けど。』

 ぶつぶつと彼女は何かを呟いている。どうやら地雷を踏んだらしい。

 別れたとか喧嘩したとかだろうか、だとしてもただの同級生の私には知ったことではない。

 うへぇ面倒くさくなりそう、と内心顔をしかめる。この後バイトもあるし、友人に昨日観た映画の感想も言わなくてはならない。ドラマ版は最高なのに映画版はどうやったらあんなに最低に出来たのだろう、と話したい。

『よくわからないけど元気出してよ。』

『でも彼が責めている声が聞こえてくるの。』

 これは重症だ。

『そんなに自分を責めなくたって良いじゃない、やっちゃったことは仕方ないから大事なのはその先ですよ。』

『その先?』

『うん、どう謝るかとか、どう償うかとかさ。』

 適当なことを言いたてる。早くこの場から立ち去りたい。あまり知らない、情緒不安定な人と一緒にいたい人間はいないだろう。

『そっか。やっぱ、償い方、ですよね。』

『そうそう。』

 彼女がやらかした内容も聞かずに相槌を打つ。説明されても億劫なだけだ。これが友達相手だったらどうだろう、もう少し親身になっていたに違いない。我ながら薄情なことだ。

『だから、もう私は行って良いですか。彼と仲良くね。』

『お願いします!』

『はぁ?』

 何でそうなる。

 彼女はファミレス、大学に近くて同級生も知り合いもよく来店するファミレスの床で土下座していた。こんなところを見られたら私は糾弾必至だろう。

『何してる、早く顔上げてください!』

 慌てて私も床に膝をついて彼女を抱え上げる。

『お願いします! 貴方にしか頼めないんです、貴方にしか出来ないんです、どうか!』

 何度椅子に戻そうとしても彼女はひたすら床を目指す。本当、勘弁してくれ。ファミレスの他の客の視線が痛い。

『わかった!わかったから落ち着いて。』

 駆け寄ってきたウエイターに水とおしぼりを頼む。直ぐに持ってきてくださった。

『落ち着いてよ、本当、困るよ、これ飲んで。』

『お願いします、だって、だって。』

 彼女は土下座は止めたものの、震えて話が通じない。とにかくこの場を収めて帰ろう。

『お願いって、18時に私の家の近所、心霊スポットに来いってだけですよね?』

 本当にたったそれだけだった。しかも18時、夏の今だと日も暮れていないだろう。彼女には言っていないけれどそこは私の旧知の場所。

 実のところ、彼女のお願いを聞くのは容易だ。

 それをしないのは急に呼び出されていきなりなんだ、という反感からだった。話し方は大事だ。偏屈だろうか?

『そうです、どうか、その。』

『やります、やりますから。』

 溶けた生クリームに浸かってふやけたコーンフレークを潰しながら私は答える。

『行くだけで良いんですよね?』

『あの、やってほしいことが。』

 何なんだちくしょう。

『ゴミを持ち帰って貰いたいのです。リュックにまとめておきますから。』

 いちゃいちゃした後始末でもさせる気だろうか。

『それは』

『わかってます、無理なお願いですよね。けれど、こうするしか私は彼に償えないんです。』

 だから、とまた土下座体制に入りそうな彼女を椅子に押し留める。

『わかりましたって、それも出来るだけやっときます。』

『本当ですか?』

『その代わり、ここのご飯は奢ってくださいね。』

『たったそれだけで良いのですか。』

 もちろん良くない。友人だったら一日一緒に遊んで全部奢らせるまでしただろう、けれど早く帰りたい気持ちが勝った。

『ありがとうございます、ありがとう。』

 おしぼりを握りしめて彼女は言う。セットしてあったであろう髪がばさばさと顔にかかっていて、異様な見た目になっている。可愛らしい顔が台無しだ。

 困ったことになったのは間違いない。彼氏と喧嘩して、仲直りのために知り合いにごみ回収させる? リュックにまとめておくって、そこまでするなら自分で持ち帰れば良いだろうにそれが出来ない状態になる気でいるのだろうか。使用後のアレを拾う羽目になるかもしれない。

 お気に入りの場所をこれ以上汚さないでほしいと思うのは我儘なのだろうか。

『あの。』

 険しい私の顔を見て、怯えたように声をかけてくる。頼み事を断られるのではないか心配してるのだろう。

『大丈夫ですよ。明日18時にあの防空壕へ行き、ごみ回収だね。』

『あ、あれ防空壕だったんですね。』

『知らなかったの?』

『え、えぇ、しっかりした作りの建物だなぁとは思ってましたが。』

 しっかりしてはない、年月相応の古い構造物だ。それに、

『入り口は少し前に観光客がふざけたのか、崩れてないんですけどね。』

『なんですって!』

 いきなり気分が乱高下する、彼女はもう立派な精神錯乱者だ。

 うんざりと私は彼女を見る。目は目の前にいる私は見ておらず、何処か遠くの何かを追ってイっちゃってる。

『入り口、入り口あったのですか。』

『入り口っていっても、頭を入れることが出来る程度の穴ですよ。肝試しの締めにお誂え向きな穴。本来の入り口は土とかが被ってて鍵もかかってるのか入れそうにないなぁ。』

 おかげさまでそこは大盛況なわけだが。

『そんな、そうか。』

『どうしました?』

『その穴って何時から崩れています?』

『さぁ、気がついたら崩れていたよ。』

『肝試しスポットになってたって、何時からですか?』

『さぁ。先月から有名かな、でも夏になって肝試しの季節になったからかな、わからないや。』

 私はただの近所の住民な訳で、そんなローカル情報を逐一確認しているわけがない。

 だからそんな、仇を見るような目で見ないでほしい。

『まだ何か? なければ解散で良いですか。』

 鞄を抱え込んで逃げる体勢に入る。明日が憂鬱で仕方ない。こんな異常者の相手をまたしなきゃいけないだなんて。

『最後にもう1点、良いですか。』

『ええ、最後ですね。』

『貴方はそこに行ったとき、変な音とか聞いたことないですか? 例えば助けを求める声とか。』

 今度はオカルトか。

『その防空壕での悪霊の噂によると聞こえるらしいね。先週行ってみたけど私は全く聞いたことはないよ、やっぱり昼間だと駄目なのかな。』

 その瞬間、彼女は盛大に吐いた。

 思わず悲鳴をあげてボックス席から離れる。水しか出ていないが、汚いものは汚い。一飛沫でもかかってないだろうか。

 彼女の身を案ずる気持ちを一切持てなかった。それもそうだろう、ここに来てから面倒しかかかってない。

 睥睨し、無事だった伝票を取って今度こそ席を立つ。焦点の合わない目で彼女は追いかけてきた。

 会計を済まし(結局私が全額払った)、外に出て彼女に向き直る。一言もお礼がないがそれはもう良い。

『ではここで解散ということで。』

 有無を言わせず笑って宣言する。これ以上何か言うようなら、彼女の恋人かクラスメイトに連絡しよう。

 幸いにも彼女は無言で立ち去っていった。

 明日もまたあんな気狂いの相手をしなきゃならないのか?


「嗚呼もう!」

 苦しい胸の内を声に乗せて吐き出してみる。謎の追跡者に聞こえないよう、小声で。

 気狂いのいうことなんて聞くんじゃなかった。

 しかもこんな結果だ、真逆あそこまで狂ってるとは思わなかった。後の迷惑を考えないのか。

 少し開けた場所にようやく出た。ここまで来れば、歩いて5分ほどで例の場所まで行ける。例の場所、朝になったら大騒ぎになるであろう場所。

 彼女が押し付けてきた厄介事のせいで、私にやましいことは一切ないのにやましいだろうと考えられるものが多すぎる。出来るだけ人に見られないように行きたい。

 黒いレインコートのフードを目深に被って息を整える。緊張した状態での登山は思いの外堪えた。最悪の気分だ、夏なのに身体の震えが止まらない。

「ぱら、ぱらぱら」

 小石がひっきりなし落ちてくるせいだろう。しかもさっきから大きめの石が落ちてくるようになってきた。隠す気もなくなったのだろう。いや、というよりかは、

 追跡者が近づいている?

 全身の毛がそわだった。

 早く、早くこんなところからいなくならなきゃ。

 恐怖のままに猛然と駆け出す。

 足はぬかるみに取られながらなため、不恰好なものだが、得体の知れない何かに捕まるよりかはましだ。きっと死ぬより酷い目に合うのだろう、彼みたいに。

 そうだ、彼だ、彼をああした彼だ。

「ざざざ、びちゃっ」

 振り返ると黒い人影が山道に降り立ったところだった。もう密かに追跡する必要はないと判断したのだろう。走り出したのだ、明らかに気づいていると誰でもわかる。

 この山道を登ったことがあることに感謝する。おかげでどこで曲がったら良いか程度はわかる。

 人影は、追跡者は相変わらず一定の距離を保って追ってくる。ここからだと上手く見えない、まるで滑るように移動してるようだ。そう、まるで幽霊みたいに。

 あがりそうになった悲鳴を噛み殺して走る。今となってはそれしか出来ないから。

 彼に警告することも彼女に決断を迫ることも、もう出来ない。

 無関係な私を巻き込んで、厄介事を押し付けて、彼女は恨んでも恨みきれない。彼女としても近所のくせに気づかなかった、と怨んでいるのかもしれないけれどお門違いだ。田舎の近所、と彼女の近所の感覚の違いをあのファミレスで説明するべきだった。


 勢いよく、右に曲がって、ようやく見えてきた。

 やっとついた。

 心霊スポット、沢山の肝試し会場となったここ。明日から、人は減るだろう。


 彼女の首吊り死体は相変わらず、先ほど私が見つけたのと姿で揺れていた。


 雨で辺りの匂いはわからないせいか、死体はそこだけ別の景色を切り貼りしたかのように、現実味が欠けている。

 垂れた雨なのか、彼女から垂れた物なのかわからないものが溜まった真下の水溜りに私の目的のものが浮いていた。

 なんてところにあるんだ、私の実名が書かれた彼女からの遺書。

 どこまで最悪な人なのだろう。

「ばちゃぱちゃばちゃ、ばちゃ」

 躊躇った一瞬で足音がこんなに近くに聞こえる。

 ひゅっ。

 と息が飲む音が遠くに聞こえる。それが、自分の喉が出した音なのか、追跡者が出した音なのか、もうわからなかった。

 ともかく、急いでやるしかない。

 意を決して遺書を拾いあげる。あとはここから離れるだけだ。

 追跡者の恐怖以上に、2つも死体があるらしいこんなところにいたくない。

 幽霊か、生身か。追跡者が50m先に見える。

 幽霊だったらまだましだ。散々怖いと騒いだ後だけど、貞子だって心臓麻痺を起こす程度だ、もしかしたら耐えられるかもしれない。

 生身の人間ならどうだ、捕まったらきっと、彼女の恋人の彼のようにされてしまうかもしれない。

 今はもうここは肝試しスポットで助かる可能性は、彼よりはあるだろう。けれど、賭けは絶対にしたくない。死体のそばで寝るのも御免だ。


 追跡者はぐんぐん近づいてくる。


 泥濘に足を取られないかと期待したが無駄だった。

 もうやるしかないのだろうか。全身に力を入れる。


 そういえば、と、背負っていたリュックの存在を思い出す。

 彼女は遺書でこう書いていた。

『これが無ければ私は彼と同じ被害者になれる。』

 遺書の頼みだからと聞いたけれど、よく考えると私が不都合を被る可能性のほうがずっと高いじゃないか。

 どこまで迷惑をかければ気が済むんだ。

 リュックを思いっきり投げて追跡者の顔面にぶつける。甘いものが好きな成人男性の力で投げられた、貨車だとかの金属が満載のリュックはさぞ痛かったらしい。

 追跡者は悶絶している。手から15cmほどのナイフが落ちた。

 あぁ、これで私のやることが決まった。警察でなくて良かったのか悪かったのか。

「お前が犯人か。」

 思わず、探偵物だと全てが解決した後の台詞を、騒動の途中で吐いてしまった。

 この一言ですっきり解決するなら良いのに。

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