澄川三郎の短編置き場
澄川三郎
イベント「花粉症ノベル」参加用
花粉をホニャララに変えるマスク
イベント「花粉症ノベル 花粉症をネタに短編小説を書こう!」参加用短編
イベントの詳細は→ https://kakuyomu.jp/user_events/1177354054885413507
休日の前夜、近所の安い居酒屋でさんざっぱら酔っ払ったというのに、部屋でもまだ俺たちはダラダラと飲み続けていた。
「でな、今は酵素と同じ機能を持つ光触媒の開発っちゅうのをやってる」
「へえ」
たまたま大学で知り合ったのだが、奴は理系で俺文系。学生の頃からよくわからないことを言う奴ではあった。
「今はこんなの作ってる」
いい加減ぐでんぐでんに酔っ払った奴がカバンからごそごそと取り出したのは、ジップロックに入った何の変哲もない使い捨ての紙製マスクだった。
「マスクか?」
「そりゃ、見りゃわかるだろ」
奴がニヤついていた。
「これはな、」
奴が酔って赤い顔を近づけ、息を吹きかけるように話しかけてきた。
「花粉をマリファナに変えるマスクだ」
奴が飲み続けている芋焼酎の匂いがツーンと俺の鼻をつく。
「はあ?」
その匂いから慌てて顔を背ける。ひっでえ匂いだ。
で、何言っての、こいつ?
「あ、その顔は信じてないな。おまえは昔っからそうだよな。ヒトの言うこと素直に信じられないのは、本当におまえの悪いところだよ。正確に言うとだな、マリファナそのものじゃないんだが、酵素と光触媒で花粉のリン脂質に含まれる脂肪酸からマリファナの成分と同等の機能を持つアナンダミドの生成をだな……」
俺自身、間抜けな面だっただろうとは思う。奴の言っていることは、まったく理解できなかった。
奴は忌々しげに舌打ちをした。
「わかったよ、しょうがねえな。見せてやるよ、このマスクの真の力というものを、な」
「ええっとぉ……」
俺が止める間もなく、奴はジップロックからマスクを取り出していた。
「こんなとんでもないもの開発してるって知ってる奴は、社内でもほとんどいない」
奴の目が力強く、
「付けてみろ」
手渡されたマスクはしっとりと湿っていた。
「気持ち
そうだ、俺は怖気づいている。ぬるっとしてんの苦手なんだよ。だから納豆もオクラもだめなんだって。なんだっけ、あれ、ジュンサイ? あれもダメ。あと、山芋? あれとかも……
「いいから付けてみろ」
逆らえる雰囲気でもない。
もはや抵抗もここまで。俺は恐る恐るマスクを装着した。
「
「いや、そうじゃなくて。普通に息を吸って吐いてしてみろって」
「なんかさわやか」
「だろ? そこはな、アロマテラピーだかなんだかの成分をって、そこじゃないって」
「なんかスースーする」
「マスクだからな」
奴はグラスの芋焼酎をグイッと煽った。
俺もつられてグラスに手を伸ばす。が、考えてみるとマスクをしているので酒が飲めないじゃないか。これは……、どうすりゃいいのか。
「どうだ?」
奴が俺の顔を
「何が?」
「なんか来ないか?」
「だから何が?」
奴は俺の反応に軽く苛立っているようだった。いや、失望しているのかもしれない。俺も酔っ払ってるのでよくわからない。ていうか、
あれ? なんか急に酔いがグルンと。
回って。
俺は目を閉じた。腰のあたりから背骨を伝わって何かが駆け上がってくる。首を通り過ぎるあたりで思わず顔を持ち上げる。かすかな快感の兆しが
「どうだ?」
奴の声がさっきより遠い。すっかり忘れていた流しっぱなしの音楽の音がクリアに聞こえてくる。近い。すごく近い。
「深く吸い込んでみろ」
言われるままに深く吸い込んだ。目の奥が動く。
「もっとゆっくり。時間をかけてゆっくり、深く大きく吸って」
時間をかけて、深く大きく吸い込む。
「んっ」
思わず声が出た。
兆しではない。あまりに突然、あまりに明確に。痺れるような感覚とともに、孫悟空の輪っかのように頭が丸く締めつけられる。輪っかは
「ふう」
ようやく開いた目に映る世界が、とても明るい。ボロアパートの一室がこんなに明るかったとは。疲れていたはずの目がスッキリしている。眼球の奥が軽い。耳に戻ってきた音楽、そういえばずっとかけっぱなしだった。そのリズムが心地よい。ベース音が特に。ただ、正直、今はロックの気分じゃない。もっとステディなバイブスを感じたい……。
俺はスピーカーの横に置いたiPhoneを手に取った。
「音楽、変えていいか」
「おう」
奴が満足げな表情を浮かべているのが不思議だ。だが、そんなことは、もはやどうでもいい。
世界は美しい。ただひたすらに。
俺はボブ・マーリーを見つけた。
『LIVE!』、これだろ。
身体が、身体が揺れる。回る、回る。ボブの声が回るよ。
「うへえ……」
いつの間にか奴もマスクをしていた。トロンとした目で空中に視線を漂わせながらナチュラルなバイブスに包み込まれ、ゆっくりと身体を揺らしている。マスクの下の口がだらしなく半開きなのは間違いない。
突然、突拍子もない快感が、俺の脊髄を駆け上がる。
スパーク。
大きく瞬きして息を吐く。マスクの真の力とやらを薄らボンヤリと、だが力強く、深く、感じていた。
◇ ◇ ◇
『LIVE!』が終わるまで45分、ボブからの「立ち上がれ」というアジテーションをしっかりと受け取りつつアルバムの余韻を味わう頃には、マスクからの最初の衝撃はすっかり薄れていた。けれど、わずかに残るうねるような酔い、酒の酔いよりも圧倒的に心地よい、そのせいで少しだけ酒が抜けて冴えたような気がする頭で、俺は奴に聞いた。
「で、これ、何に使うの」
マスクを外して吸う空気はあまりに凡庸で、だからこそ価値があるように思える。何言ってるんだか、正直、自分でもよくわかっていない。ラスタファーライィ。
「ああ、元々はさっきも言った通り酵素と同じ働きをする光触媒を作れないかって話から始まってな。まあでも現実には酵素の働きを強化するっちゅうか補うっちゅうか、そういうのがあれで」
奴もマスクを外している。毒気の抜けた菩薩のような顔をしている。
「いや、そうじゃなくて、使いみち」
「ああ……、いや、あんまり考えてはいなくてな。医療用に使えるんじゃないかって話をしてんだけど、どうかなあ」
「医療用って?」
「医療用のモルヒネで苦痛を減らすってあるじゃん」
「ああ、戦争映画とかで見たことある。死にそうな奴にモルヒネ打つのな。ガッて。で、あれだろ、すっかりいい気持ちになって、いい夢見ながら死んじゃうの」
「んー、まあ、だいたいそういう感じ。末期ガンとか、ひどく痛むらしくてさ、そういうのの緩和ケアっていうの? そういうのに使えないかって。実際、マリファナをそういうのに使おうみたいな話も無いわけじゃないんだよね」
「へー、なるほどねえ」
俺は手に持ったマスクに視線を落とした。このマスクが厄介者の花粉にそんな使いみちを与えるとは。すごいなマスク。
奴の表情は冴えなかった。
「どうした?」
「いや、なんちゅうか、このマスクの光触媒が素晴らし過ぎてさ」
「それのどこに問題が?」
「今、夜中の部屋ん中でこんなだろ、ていうことはだ、晴れた昼間にこのマスクして外に出たらどうなると思う?」
「そりゃ、おまえ、」
俺はつばをゴクリと飲み込んだ。
◇ ◇ ◇
降り注ぐ陽光の下、花見客で賑わう上野公園。奴と俺は満を持してポケットから取り出したマスクを装着した。
終わり
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