この手が届くまでの道のりについて。

雨露多 宇由

前 予知/日常/スーサイド

  

 


 空は朱く染まり、夕焼けが眩しく彼女を照らしていた。

 その長く艶やかな黒髪は風になびき、細い体躯は柵の向こう側。

 まるでリップを塗ったみたいな朱い唇が弧を描いていた。

 色白の手はひしゃげた転落防止用の柵に捕まっていて、それを見てやっと、自分が屋上にいることに気がついた。

 生徒は立ち入り禁止であるがために、今まで訪れたことのないその地。

 そこに、俺と彼女がいた。


 なんだこれ、と思う頭の裏側で、酷く焦っている自分がいる。

 状況を把握できていない自分とは別に、状況を把握しすぎて展開が読めている自分がいる。

 身体を動かそうとしても、足を進めようとしても。

 動かさせてはくれない。

 そうしているうちに、彼女が動いた。逆行で顔がよく見えない。かろうじて口の動きがわかるくらいだ。

 

 「さようなら」


 そう言葉を描いた唇は、朱く濡れていて。

 え、と固まる思考の外側で、『止めろ』と叫ぶ声がする。

 でも。それは口から外には出ていなくて。

 ああ。

 ふら、と。

 或いは力強く。

 しなやかに、軽やかに。

 まるでステップでも刻んでいるような風に。

 黒髪が。

 白いセーラー服が。

 それでもやっぱり唇は弧を描いていて。

 楽しそうに。

 俺の身体は硬直したまんま。

 頭だけが白く染まっていて。


 その、肢体が。


 空中に。

 投げ出された。



 ◇



「――――ッ!」


 声にもならない叫び声を上げて、俺は勢いよく目を開けた。

 視界には伸びきった自分の腕と、見慣れた汚い天井。

 少し下を見れば、薄い毛布が一枚掛かっていた。


「……なんだ、夢か」


 まだ身体が硬直しているみたいで、伸びをしながらに呟いた。

 やけにリアルな夢だったな、と。

 鮮明に内容が思い出せる。見た夢の記憶なんてすぐに飛んでしまいそうなモノだけれど、何故か今日だけはいやに残っていた。

 夕焼け。黒髪、セーラー服。学校の屋上で、飛び降り。

 あの高さだから、即死のハズだ。 

 ……嫌な夢だ。

 少なくとも人死にが起きるような夢なんて吉兆じゃあない。それも、目の前で。

 朝っぱらから嫌な気分になる。

 それでも夢のことばかり考えてしまうのは、あのリアルさが原因だ。

 

 それにしても、あの女子。よく見えなかったが、どこか見たような顔――――。


「朝ご飯できたわよー! 早く起きてきなさーい!」


 毎朝恒例、我が母自慢のラウドボイス。それに俺の思考は打ち切られた。

 そして、着替えて、ゆっくりとリビングへと向かった。

 デジタルの目覚まし時計を見れば、「6月 17日」と表示されていた。







「おはよー。何だお前、アレだな。気持ち悪い顔してんな」

 

 教室に入って自分の席に着けばいの一番に、バカさ丸出しの声が聞こえた。


「お前よりはイケメンだよ」


 そう言いながら相手の顔を見れば、これまたバカそうな面。

 相楽。俺の友人というか、悪友だ。


「なんかあったのか?」

「……いや、別に」

「あっそ。ところで裕真さ、数学の宿題見せてくんない? おれ今日当たってんだよねー」

「ジュース一本な」

「高えよ」

「じゃあ見せない」

「…………くっそ、覚えてろよ」

「お前の方が覚えてられるのか?」

「善処する」

「何覚えたばかりのちょっと難しい言葉使ってる」

「善処する」

「繰り返すな」

「善処する」

「うるさい」

「うっす」


 毎朝恒例のやりとり。バカみたいな会話だが、まあ、楽しい。

 それからも二人で話していたのだが、担任が来て打ち止めとなった。





 つまらない授業を七個ほど受け終わり、放課後。


「おい。一緒に帰ろうぜ」

「おう」

 

 相楽といつものように帰る。

 帰りながら、また馬鹿話をしたり、買い食いしたり、おごらせたりした。

 まあ、これも日常の風景だ。

 いつもと違ったとしたら、そう。

 夕焼けが、怖いくらいに綺麗だった。





 次の日も、当たり前に日常は過ぎていった。

 ――――異常が起きたのは、その次の日だ。


 その日俺が学校に行ってみると、なぜだか大騒ぎとなっていた。

 校舎の裏にはブルーシートがバリケードみたいに張られていて、なんだが少し怖かった。

 教室でも大騒ぎだ。

 いまいち状況を掴めていない。なので、相楽に聞いてみる。

 返答を聞いて、その言葉の内容を理解して、俺は頭の中が真っ白になった。

『誰かが飛び降りをしたらしい』

『その人物は多分女子で』

『昨日の夕方に屋上から飛び降りたっぽい』

『有り体に言って、自殺だよ』

 瞬間、四日前に見た夢がフラッシュバックする。

 夕方、飛び降り、女子。

 ああ、もう、これは。

 一体何だというのだろうか。

 くそ、と頭上を仰いで。

 視界が暗く染まった。

 ――意識が溶けていった。





「――ッ!」


 思わずベッドから飛び起きる。

 ここはどこだ。

 見慣れた汚い部屋。つまり、俺の部屋か。

 どうしてここに。あの時俺は倒れて、運ばれた?

 なら保健室じゃないとおかしいだろう。

 なんだよこれ。

 なんだ、これ。

 意味がわからない。

 俺の身体には毛布が掛かっていて、カーテンの隙間からは朝日が覗いていた。

 朝。ピピピ、とお決まりの電子音が鳴った。

 目覚まし時計だ。

 自分はいつもより早く起きていたのか、と。

 そう思いながら目をそちらにやれば、ありえない表示があった。


 ――――「6月17日」。


 見たモノが信じられなくて、目をこすって、もう一度確認しても変わらない表示があった。

 

「うそ、だろ……?」


 まさか。まさかまさかまさか。

 とても信じがたいような、非現実的な予想が頭の中をグルグルと廻っていた。

 ありえない。本当に、あり得ない。

 時間が巻き戻ったとでも言うのかよ、おい。






 ……通学路を歩いている時も、学校の廊下を歩いているときも、頭の中にあるのはこのよくわからない現象についての考察だ。

 時間が巻き戻るなんて馬鹿げたことはあり得ない。

 それに、なあ。

 時間が巻き戻ったからといって、周囲の人間の行動すら巻き戻るのか?

 今日の朝ご飯は三日前(俺の意識的に)と同じだった。

 まあこれくらいならばまだ良い。偶然だと言える。

 でも、テレビでやっていたニュースや新聞で報じられている内容がそのまま同じなんて、おかしい。

 俺以外はこのことに気づいてすらいない。

 じゃあ何が起こった?

 あれらは、俺の三日間の記憶は全て夢だったとでもいうのか。

 あんな鮮明な、現実感のあるモノが。

 いや、唯の夢じゃないか。出来事も夢の通りだというのなら、それは予知夢だ。

 もし。

 もしあれが予知夢だとしたら、俺が教室に入って、席に着けばあのバカの声が飛んでくるはずだ。

 ……確認しよう。

 教室に入る。そして、そのまま自分の席へ。

 ちょうど座った瞬間に、声が掛けられた。


「おはよー。何だお前、アレだな。気持ち悪い顔してんな」


 勢いよくバカの方を振り向く。

 同じだ。バカ丸出しな、相楽の声。

 くそ、なんだよこれ。


「なんかあったのか?」


 こっちが聞きたいよ、そんなの。

 そう言ってやりたかったが、グッとこらえる。

 代わりに、あの時と同じような返答をする。


「別に。あとお前よりはマシな顔してる」

「あっそ。ところで裕真さ、数学の宿題見せてくんない?」

「……当たってるもんな、お前」

「お。良く知ってんじゃん」

「ほらよ」

「……サンキュ。何かお前、今日はおかしいぞ。やけにやさしい」

「たまたまだよ」


 そこにちょうど担任が来て、注意事項などを語った。

 全て聞いたことのある内容だった。

 その後の授業も。



 ◇


 

 放課後。

 今日はアイツとは帰らずに、一人で帰っている。

 考え事をしたかったからだ。

 考えるのは今俺の身に起こっている事態について。

 ありえない、荒唐無稽な話だ。

 でも、あり得てしまっている。

 予知夢、というのが一番近いのだろう。

 ループというのもありそうだが、予知夢の方がまだ現実味があるので予知夢にしておく。

 ……もし「あれ」が本当に予知夢だとするならば、三日後、あれが起きるはずだ。

 飛び降り自殺。

 今それが起きることを知っているのは俺だけ。

 止めようとは思う。

 知ってしまったら、行動せずにはいられないじゃないか。

 でも、どうやって?

 特に策もないままに手を伸ばしたって、どうにも出来ない。

 自殺を防ぐためには何が必要だ。

 俺は何をすればいい。


 ①自殺する人の気持ちを変える。

 ②自殺現場で落ちてくる人を受け止める。

 ③飛び降りそうになったところを、手を掴んで引き戻す。


 今のところ考えつくのはこれくらいだ。

 まず、①は明らかに無理。

 そもそも俺は自殺する人が誰なのかわからないし、自ら死を選ぶくらいだ。

 部外者が何言ったところで無駄な気がする。

 じゃあ、②は?

 うん、無理。俺も死ぬ。

 飛び降りと言ったら屋上だろう。あの高さから落ちてくる推定40~50㎏の物体をこの細腕で受け止めろって。

 とても出来ない。

 今から全力で鍛えたとしても、そんなに早く人を受け止められるだけの筋肉が付くとは思えない。

 最後、③。

 これが一番現実的な気がする。

 この三つの選択肢の中では、まともだ。俺でも何とかなりそう。

 だとすると、どうやって屋上に入ろうか。

 あそこは生徒立ち入り禁止で、扉には鍵がかかっている。

 いや、そもそも時間がわからない。

 かろうじて、夕方っぽいことは――夕焼けが綺麗であることはわかる。

 ……あの夢も、何なのだろう。

 夢の中で見る夢なんて聞いたことがない。しかも内容が、飛び降りの現場? 

 できすぎてる。

 まあ良い。

 やってやろう。

 取り敢えず、③の方針で。

 




 やってきました飛び降り当日。

 夢によれば、明日の朝には大騒ぎとなっている。

 今日の夕方、屋上で誰かが飛び降りるのだ。

 放課後、夕暮れに空が朱くなってきた頃、屋上に続く扉の前。

 ……カギは既に壊されていた。


「まさか、もう?」


 急いでその古びた扉を開ける。

 焦って飛び出せば、いつか見た光景があった。

 

 転落防止用か、所々さびている柵の向こう側に立っている女子。

 白いセーラー服と長い黒髪が、風に吹かれて揺れていた。

 柵がひしゃげているのは、彼女がやったのだろう。無理矢理に歪めた隙間を通って、彼女は向こうへと行ったのだ。

 顔は見えない。こちらからは、背中しか見えない。

 地面を見つめているようだった。

 俺が扉を開けたときに音がしたはずなのに、気づいていないのか。

 こちらの存在に気を払ってすらいない。

 自分の世界に没入しているみたいだ。

  

「…………あの」


 取り敢えず声を掛ける。

 何も言わずに連れ出すのが一番良いのかもしれないが、それでも声を一言でも掛けておいた方がいい気がした。

 それに、ほら。

 何も言わずに背後から手を引っ張るとか、ただの不審者じゃないか。

 

「……………」


 ゆったりとした、緩慢な動作でその女子は振り向いた。

 でも逆光のせいで顔はよくわからない。

 でも、朱い、赤い唇だけは。

 顔の下半分だけはハッキリと見えた。

 訝しげにこちらを見ている。当たり前だ。いきなり知らない奴から声を掛けられたら、誰だって困惑する。

 しかも、自殺しようとしている時に。


「どうも、初めまして……で、いいのかな。その、取り敢えず……こっち来てくれるとうれしいんだけど」


 出来るだけ優しく、笑顔で、俺はそう言った。


「…………」


 無言。何の反応も返さない。ちょっと哀しくなる。

 いやでもしょうがない。だって、俺は他人で、見知らぬ存在なのだから。

 彼女は沈黙を保ったままこちらを眺めている。


 そして、また背中を向けた。

 

 ――っておいおい、これはやばい。


 ふら、と彼女は前に重心を傾けた。

 それを確認するが早いか、俺はコンクリートの地面を蹴った。

 間に合うか、どうだろう。

 俺はそんなに足が速いわけでもない。

 俺と彼女の間の距離は約二十メートルくらい? いやもっと短いかも。

 彼女の身体が宙に投げ出される。

 重力に従って、落ちていこうとする。

 ――間に合え。

 手を伸ばせ。最大限、彼女に届くように。

 柵は気にするな。思いっきり体を打ち付けても構わないから、手を。

 もう少し。もう少し、あとちょっと。

 三十、二十五、二十。

 ――――十五センチ。

 俺の手は、指は、彼女の体に何一つ届かない。

 

 そのまま、彼女は落ちていく。

 笑っている? 笑っているのかもしれない。

 夢では、そうだったから。

 

 彼女の肢体が地面に打ち付けられて。

 それを見届けた俺の視界は、暗く染まっていった。


 

 ―――――あと十五センチ、届かない。















 

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