とても短い物語たち。

冬原 白應

雨日に君と

「雨か……傘持ってないしなあ。そのまま帰ろう」


 ざあざあと激しく地に降り注ぐ雨音に掻き消されるほどの小さな声でぼそりと呟く。


 雨は嫌いではない。むしろ好きなほうだ。だって、雨の日は決まっていいことが起こるのだ。


 たとえばお金を拾ったり、ひょんなことから欲しかったものが手に入ったり、夕飯が好物ばかりだったり――。ああ、あとは匂いと音かな。アスファルトに雨が当たったときのあの独特な匂い、土に降り注いだときは森の中にいるようで落ち着く匂い、小雨の優しい音、大雨の勇敢な音、自分とその周りを隔離したかのような空間になる、アレが好きだ。


「何か聴こえる」


 少し弱まった雨の音に混じり誰かの澄んだ綺麗な歌声がどこからか聴こえてくる。辺りを見回し音の元を探してみると、どうやら土手に架かる橋の下からのようだった。


「行ってみる、か」


 なんとなく、本当になんとなくだが、この綺麗な声の主が気になった。


 高音の女性の声だけれど、耳をつんざくような僕の嫌いな甲高い音じゃない、高くても聴き取りやすい綺麗ななめらかな音。他の女性とは違う声に惹かれた僕はふらふらと橋の下へと移動した。


 そこには、橋の土台であるアスファルトに腰を下ろして楽しそうに歌う女の子の姿。制服を見ると彼女は僕と同じ学校のようだった。そしてリボンの色で学年も判明した。


僕たちの学校は各学年で女子はリボン、男子はネクタイ、そして体操着およびジャージの色が決まっている。今年は一年生が緑、二年生が赤、三年生が藍色だ。それらの色はそのまま持ち上がりの仕組みとなっている。だから僕たち三年生が卒業したら、次の新入生は三年間、藍色になるのだ。


 故に赤いリボンを結んでいる彼女は二年生ということになる。



「綺麗な声だね」


 普段の僕なら見ず知らずの赤の他人に声をかけるなど以ての外だが、今日の雨は僕を少しばかり大胆にした。


 近くに人がいるなど思ってもみなかった様子の彼女は勢いよくこちらに振り向き、僕の姿を目視するとみるみるうちに顔を赤らめて慌てて立ち上がった。


「な、なんで新田にった先輩がここに……! というか今の聞いて……! ああっ埋まりたい」


「そんなに慌てなくても」


 あれ? それよりも今、彼女は僕の名前を口にしたような。


「ねえ、どうして僕の名前を知っているの? 君とは初対面だと思うのだけど」


 自身の言動に「しまった……」と言いたげな顔で彼女は視線を逸らした。


「実はですね、入学式の日に先輩に助けてもらったんです、私」


 入学式……ああ、彼女のか。今は5月だから、一年と少し前。そう計算して顎をさすりながら僕は彼女に苦笑する。


「よくそんな前のこと覚えてるね。ごめんね、僕は覚えていないや」


「いいんです。大したことじゃなかったので」


 彼女は寂しげに笑った。


 僕の心に罪悪感が生まれてしまった。


「ところで、どうしてこんな場所で歌を? 帰らないの?」


「うーん……」


 宙を見つめて彼女は答えに悩む。


「えーっと、雨宿り?」


「いや、僕に聞かれてもなあ」


 首を傾げてニッコリ笑う彼女。


「先輩は、雨宿りですか?」


 はぐらかされた気もするが、まあだからといってその質問が別段重要な訳ではなかったので返ってくる答えなんてどうでも良いのだ。


「僕はちょうど上を歩いているときに君の声が聴こえてきたからね。気になって観客になっただけだよ」


 真上を指差して微笑むと、彼女の顔は先程よりも真っ赤に染まり、ツインテールの長い髪を握りしめて顔を隠し再び慌てふためいた。


「わああああああっ! もうそれ忘れてください! 私が歌ってたことなんて忘れてくださいいいい」


「なぜ? 綺麗な声なのに」


 すると彼女は髪の隙間から子犬のような真ん丸い目を覗かせて僕を見上げた。


「ほ、ほんとに……?」


「本当」


 か、可愛い。なんだこの生き物は。僕の妹もここまで素直だと可愛げがあるというのに。彼女を見習ってほしいものだ。



 しばらく互いに押し黙ったあと、彼女は静かに話し始めた。


「私の夢、歌手になることだったんです。でも私、人前が苦手であがり症だし、勉強も運動も苦手でドジだし阿呆だし話下手だし、取り柄とかなくて……それにお母さんが入院しちゃってそれどころじゃないし、諦めたとこだったんです。そしたらこんな――」


 彼女の瞳から涙が零れた。


「僕もね、昔からの夢を諦めたよ。それで思ったんだ。夢なんてまた出会うものなんだよ。ずっと追いかけていた夢を諦めたばかりなのに、僕にはもう新しい夢ができたんだ。だから君にもいつかまた新しい夢がきっとできる。諦めることで君の未来が広がったのかもしれないよ」


「そう……ですかね」


 また寂しげな笑み。


「そうだ。私の名前、まだ言ってなかったですね。私、エミっていいます」


「エミか。僕は――って知ってるんだっけ」


「はいっ! 知ってます。ふふっ」


 お互い目を合わせて笑いあう。


「私、今日先輩に会えてよかったです。これで心残りがなくなりました。ありがとうございます」


 その言葉の意味を考える暇など与えてはくれず、彼女は僕の後ろ側を指差し叫んだ。


「雨が上がりました!」


「あ、本当だ……」


 彼女が指差した先に僕も顔を向け空を見上げた。


 先程まで大粒の雨を落としていた、分厚い雲の隙間から覗くように陽の光が差し込み、天使の梯子が降り注ぐ。




「さよなら、先輩。大好きでした。先輩に歌を聴いてもらえて良かったです」




 背後から微かに聞こえた透き通る声に僕は振り返る。


「エミ……?」


 名前を呼んでもそこにはもう彼女はいなかった。


 もう一度彼女に会いたくて学校中を探したが、彼女と再び会えることは二度と訪れなかった。




 エミは去年の五月、雨の中、橋から転落して命を落としていた。


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