第45話 来夏

 強い日差しの中、井戸から汲み上げられた水で子供たちが洗濯している。

 一心不乱に衣服をすり合わせていた子供たちの鼻先に、ふわりとシャボン玉が舞い上がる。

 ゆっくりと、ふわふわと、漂うシャボン玉に気が付いた子供たちが手にした洗濯物の事を忘れて、順番に目で追い始めた。

 一人が目の前に来たシャボン玉に手を伸ばそうとしてバランスを崩し、水をためた浅い桶に勢いよく飛び込んでしまうと、激しく水しぶきが上がった。驚いて逃げ出そうとして、の子供にぶつかったり、頭からかぶった水をお返しにとばかりかけ返したり、一気に収拾がつかなくなった。


「あらあら、みんな、こんなに、濡れちゃって」


 そういった来夏は、とてもやさしい笑顔をしていた。子供たちと過ごせる時間、それだけが、彼女に安ら気を与えてくれていたのだ。


「アリードの服が、硬いからなのです」


「アリードの服は、ごわごわなのです」


 二人は、洗いかけの軍服を広げて見せた。飾りのない地味な、生地が丈夫なだけが取り柄の服。アリードは最近いつもこの服を着ていた。

 アル・シャザードの軍事政権を倒し、独立と自由を勝ち取った彼の前には、山のような政務が積み重なっていた。そのすべてを、自分のしたことの責任として、文字もろくに読めなかった少年が、一つも投げ出さずに取り組んでいる。


「そうだな……、地方の村に、水と日用品を流通させるには……、いくつかの地方都市の税制を優遇し、大都市から物の流通を増やして、そこから、周辺に物がいきわたるようにすればいいのか?」


「それだと逆に、都市が周辺の商品を集めてしまうのではないのか?」


「しかし、まず、近隣の都市に物が集まらなければ……」


 来夏は、あえて口を出さなかった。彼女にとって当たり前の法でも、彼らにそれを実行させるには、長い時間と努力が必要だった。気候、風土、習慣、どれもが異なる彼らに、より良い方法が、良い結果をもたらすわけでは無い。

 それに、この国は、彼らの国なのだから……。

 アリードは、来夏の代わりに信頼できる人物として、メルトロウを頼ったのだった。

 初めは随分、渋った彼であったが、アリードの熱意に根負けした後は、意欲的に政務をこなし、その合間に、アリードに必要な知識を叩きこんでいた。


「そうですね、大都市間の流通を確保するために危険な砂漠を渡るルートを軍で補強し、ウルクの街へ生活必需品を届け、水源の乏しいナンムの街への給水、これらを安定させることで、地域による物価の差をなくし……」


 軍による独占が解除されて、民間の商業活動が活発になりはしたが、それでも、まだまだ、地方へ行き渡すには不十分であった。

 広大な砂漠と民族間の軋轢が多くの地方を隔てる壁となっていた。それを取り除くために、アリードは多くの政策を実行に移そうとしている。

 救国の英雄、その言葉の求心力は、途方もなく大きい。しかし、そう呼ばれる重荷は計り知れないだろう。この先ずっと、彼に付きまとう鎖だ。

 彼の服装も、その政策を象徴するものだった。

 質素に、公平に、誠実に……。

 そして、かなりの建物が倒壊したとはいえ、まだ使える豪華な施設のある首都ではなく、孤児院の近くの軍事基地を改良して政務に当たっていたるのも、今までの政権にとって代わる物では無いと知らしめるためでもあった。

 子供たちも、彼の激務を知ってか知らずか、食事を届けたり、洗濯をしたりと、進んで手伝いに行っている。


「ラーイカも、洗濯するのです」


「ラーイカも、水をかぶるなのです」


「きゃ、やったわねー、イルイル、ノルノル、覚悟しなさいー」


 二人に水を掛けられて、来夏も子供たちの騒ぎに加わる。両手ですくった水を掛け合って、ずぶ濡れになった服を、干された洗濯物と並んで乾かす。

 暖かい日差しにあくびをし、眠ってしまう子供たちと、穏やかな時間を過ごしていた。

 心から笑顔でいられる穏やかな時間、この小さな世界を守れるだけで幸せだった。


「みんな、お昼ご飯よー」


 食事の用意をしていた年長の子供たちが呼びかける。まどろんでいた子供たちも目をこすりながら、モゾモゾと動き出し、自分の目も半分閉じたまま、お互いを起こし合っていた。


「アリードと先生たちにも、食事を届けて来るわね」


「イルイルも届けるのです」


「ノルノルのとくせい弁当も届けるのです」


 用意してあった包みを抱えて、イルイルとノルノルも来夏についてくる。二人の作った今日のとくせい弁当がどんなものか、気になりはしたが。

 孤児院の周りの廃墟も、以前のように瓦礫が散乱する荒れ果てた場所ではなくなっていた。

 来夏の居る場所という事もあって、むやみに近づかないという暗黙の了解もあり、静かではあるが、崩れやすく危険な物は片づけられ、砂埃に撒かれるという事もない。

 真直ぐな一本道をのんびりと連れ添って歩くと、かつて、砂を運ぶ風が遮っていた砂漠の荒野の向こうに、アリードの居る基地が見えて来る。

 街から行き来する人たちによって、歩きやすい道が作られ、基地の周りには、多くの露店も見られ、随分にぎわっている。あれほど、街を恐れていた二人も、来夏に引っ付いてではあるが、興味深そうにあたりを見回しながら歩けるようになっていた。

 毎日新しい商品が増えている様で、興味を惹かれるのはもっともだったが、来夏の姿を見ると、皆、手を合わせて恭しく頭を下げた。それが、気恥ずかしいような気がして、足早に露店の前を過ぎ去るのだった。


「アリード、ご飯なのです」


「アリード、食べるのです」


「おう! チビすけども、よく来たな。来夏も……、ありがとう」


 ドアを開けるなり、大声で弁当を差し出すイルイルとノルノルに、機嫌よく返事はしたものの、彼の座るテーブルの上には山のように書類が積まれていた。


「……そこに置いといてくれないか、今、これをだな……」


「アリードは、忙しいのです」


「アリードの代わりに、ノルノルが食べるのです」


「おい、人の昼飯を勝手に食うなよ」


 どれだけ時間があっても足りず忙殺する日々の中、書類から目を離せずとも、彼女たちの会話に加わる事で、彼もいっときの安らぎを感じているのだろう。


「アリードも食べるのです」


「忙しくても食べるのです」


「イルイルが、手伝うのです」


「ノルノルは、もっと手伝えるのです」


「ん……あぁ……、むっ! うぐぅ……」


 書類を見ながら生返事をしていたアリードの口に、イルイルとノルノルが食べ物を押し込む。小さな手であっても二人で順番に食べ物を運ばれては堪った物ではない。


「アリード、よく噛んで食べるのです」


「アリードは、忙しいので急いで食べるのです」


「うっ、ううぅ……」


「アリードが、赤くなったのです」


「スープも飲むのです」


「ぬぅ、むぅ……ん、ん、ん、」


「アリードが、青くなったのです」


「次は緑にするのです」


「黄色がいいのです」


「やめろ! 自分で食うから……、メルトロウ先生も呼んできてくれ」


「先生を呼んで来るのです」


「先生はみかん色にするのです」


  見よう見まねの敬礼して、部屋を飛び出した二人を見送ると、ようやく一息つけると、書類をテーブルに置いた。


「…………ふぅ、危うく死んじまうとこだったぜ」


「順調?」


「ああ、先生のおかげで、国内の生活は安定を取り戻しつつある。しかし、問題は、周辺諸国との交渉だ……これまでの関係や、アルシャザードが結んだ密約の清算、そして、これからの関係についてもどう出て来るか……」


 周辺諸国がすぐにでも干渉してこないのは、来夏の結界で守られているおかげだった。しかし、いつまでもそれに頼っている訳にもいかない、国内を安定させ、諸外国との話し合いが出来る状態にしなければ。

 この世界で生きて行くためにも、近隣諸国との関係、そして、遠方の大国との関係を築かねばならなかった。

 全てを失った絶望を、二度と味合わぬために……。

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