第8話 亀井と亀井(前半)

 夏が終わる。

 森は涼やかな緑から、徐々に赤々とした秋服に着替え始めている。

 気温はまだまだ高く、時折汗ばむこともあるが、まぁ半月前よりはマシな程度には下がってきていた。

「じゃね、亀井さん。また明日」

「ん。じゃあね」

 学校からの帰り道、私の自宅から少し離れた交差点で鶴子と分かれる。ここから家までは歩いて10分もない。

 この通学路の景色は、が小学生の頃からあまり変わらない。閑静な住宅街には新たな流入もなく、また、引っ越した人間もいないのだろう。どの家も、私と同じように年を取ってきている。

 蜜柑色の陽光を体の左側で受けながら、横断歩道で止まる。

 ふと視界の端に移ったのは、シャッターの下りた個人商店。あそこは小さいながらも、の家から一番近い書店(書店と呼べるほど本が置いてあったかは別として)であったため、少しばかり思い入れがある。

 店主のおばさんが病気だとか、親戚に大変なことがあったとか、いろいろ噂は聞いたが、結局閉店の理由は分からないままだった。

 そういえば、と思い出す。そろそろ発表されている頃ではないのか、私の応募した作品の結果が。

 横断歩道の前で立ち止まったまま、スマートフォンを操作して、ブックマークから出版社のページを開く。タップする親指が震えて、何度か意図しないリンクを踏んでしまったが、無事、当落発表のページへとたどり着く。


 ……


 私の中の亀井も真剣だ。

 ゆっくり、ゆっくりと、画面をスクロールしていく。

 私のペンネームは……ない。


 はぁ、と大きなため息をついて地面にへたり込む。

 楽な道ではないことくらいわかっているつもりだ。いつか報われる日が来ると、信じている、だが、今回に関しては特に自信があった。

 強い自信は、砕けた時により大きな波紋を残す。

 眠くもないのに意識が薄ぼんやりと希薄になっていくのを感じる。せめて立ち上がろうとするも、足に力が入らない。

 ぶるぶると震える右手が、持っていたスマートフォンを手放してしまう。

 どこかで冷静な自分が、いつか調べた症例を思い出していた。

 迷走神経反射。

 思い出したところで、どうにかなるものでもなかったが。

 

 その思考を最後に、の意識はどす黒い泥濘に沈んでいった。



***



 暗闇の中、私はその瞳を露わにする。

 辺りに光はなく、恐らく自分が膝をついているであろう地面の存在さえもあいまいだ。首を回して周囲を見ると、暗闇の中に一筋の光が見える。


「またここか……」


 悪態をつきながら光に向かって歩き始める。ここがどういう場所なのかは分かっているつもりだ。さっさとあいつを見つけて帰らなければならない。

 光に近づくにつれ、周囲の景色がぼんやりと見えてくる。どうやら私のいる暗闇はトンネルだったらしく、壁は風化しかけているコンクリートだった。

 長いトンネルを抜けると、そこは雪国……ではなく、赤黒の砂で覆われた砂漠だった。濁りきった灰を湛える曇天にお似合いの景色だ。

 あいつがどこにいるのかは分からないが、障害物のないここならすぐに見つかるだろう。そう考えて歩き出す。

 ザリザリとローファーで砂を踏みながら歩き続ける。歩き続ける。まだ歩く。


「……いや、どこいるんだよ!」


 十数分も歩き続け、何も見つからないとなるとさしもの私も苛立ちが隠せなくなってきた。蹴り上げた砂がローファーの内側に入り込んでむずがゆい。

 靴を脱いで砂を出していると、ふと後ろに気配を感じた。


「お前は作家などにはなれない」


 突如現れた全身真っ黒のコウノトリは、しわがれた老人の声でしゃべり始めた。ここが現実なら飛びあがって驚いただろうが、こんな世界だ。何が起ころうと不思議ではない。


「何も残すことなく消える」

「うるせぇ!」


 すかさずローキックを入れると、コウノトリは黒い霧となって霧散する。


「誰にも記憶されることなどない」

「全て焼却される」

「あぁ?」


 またも突然に、同じコウノトリが現れる……二羽も。


「くそったれ!」


 順にローキックで消し飛ばすも、瞬きの後、さらに数が増えただけだった。

 しわがれた老人の声には、どんな感情も籠っていないように聞こえる。ただ淡々と、事実のみを告げるように、言葉を置いていく。


「友人すらまともにつくれない」「家族ですらお前を見下している」「お前は消える」「連れ去られる」「いい加減な自我だ」「あれは必ず燃やしに来るぞ」「灰になって消える」「お前だけ置き去りだ」「どんな努力も無駄だ」「鶴子も忘れる」「不適合者が」「意地の汚さが」「どれほど歪に生きるつもりだ」「誰もお前の成功を望まない」「全てが間違いだ」「奴もお前を見限っている」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」「お前は」


 生まれてくるべきじゃなかった


 最後の言葉は、視界を埋め尽くすコウノトリの言葉ではなかった。私の足元、乾いた血のような色をした地面から響いてきた。


「……そこか」


 まわりのコウノトリの戯言を聞き流し、赤黒の砂を掘り返す。そうか、このコウノトリたちは私に向かって言葉を吐いていたわけではなかったのだ。この砂の下にいる人物。そいつに向かって聞かせていたのだ。

 砂を掘り起こしていた指が何かに当たる。急いで周りの砂も押しのけて、それを堀りおこした。

 出てきたのは棺桶だった。


「せぇ……のぉ!」


 ありったけの力で蓋をずらして、ようやく中にいる人物と対面する。

 その人は今にも泣きだしてしまいそうに、綺麗な顔を歪ませて、棺桶の中で膝を抱えていた。

 私は努めて気楽に声をかけた。


「またひきこもってんのか……亀井」

「うん……ごめんね……亀井さん……」


 私とまったく同じ声と顔を持つ彼女。

 彼女こそ、私の生みの親であり、親友でもある『私の中の亀井』その人だった。

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