第4話 亀井と鶴子
「ここまでの物は中々お目にかかれない」
「難しい言葉使いたい病患者」
「妄想を文字におこしたみたいだな」
「めちゃくちゃスベってて痛々しい」
「これは金取って人に見せるようなモンじゃないわ」
ミシリ。キーボードの悲鳴が静かな聖域に響いた。
沸々と沸き上がる怒りが出口を求めて体の中を暴れまわる。
気まぐれでネット上にアップした私の作品は現在、無知蒙昧なネット住民に蹂躙されていた。
ネットに公開したきっかけは些細なことだった。今日学校で友人の鶴子に言われた一言。
「冒頭だけなら私以外でも下読みとか出来るんじゃない?ネットで公開してみたら?」
毎度10万文字を越える文章を下読みしてくれている彼女の提案だ。無下にすることはできない。そう考えたのが間違いだった。
目の前のディスプレイの向こう側、匿名性を盾に嬉々として暴言の嵐を巻き起こすネットの住民たち、次々と流れていく罵詈雑言はもはや人というより何かの現象にしか見えなかった。
震える指で反論を試みるも、批判の連鎖は止まらない。もう私が何を言おうと彼らが言を改めることはないだろう。
まぁいいじゃん。冒頭だけでしょ? 全部否定された訳じゃないんだし、気にせずまた書こうよ。
私の中の亀井よ。わかっているのだそんなことは。私が怒りを感じているのは、怒りを感じている自分に対してだ。断じて嫉妬にまみれたアンチの戯言に対してではない。
私は将来的にベストセラーを書く女だ。こんな真正面から批判もできないような卑怯者どもの言葉にいちいち耳を貸していてはキリがない。つまるところ、私が怒っているのはこの程度の言葉に動揺している自分に対してであり、断じて嫉妬にまみれたアンチの戯言に対してではない。
断じて嫉妬にまみれたアンチの戯言に対してではない。
……今日はもう執筆ができる気がしない。まぁただの軽いスランプだろう、寝れば治る。ハズ。
頭がゴチャゴチャしてしまった時にはいったん時間を空けるに限る。こういう時、無理に書こうとしてしまうと『めちゃくちゃスベってて痛々しい』……ことになる。
PCをカバンにしまって図書館を出る。途中、館内で職員さんと出くわしたが、私の顔を見るなりぎょっとしてそそくさと早歩きしていった。やはり陰で私をコミュ障呼ばわりしているのが後ろめたいのか。
図書館を出たあたりで気付く。ああそうだ、鶴子に連絡しておかないと。『ネット掲示板で聞いてみたけどあそこには小学生しかいなかった』って。
スマホを取り出して操作。チャットアプリを起動して……そのまま閉じる。次に別のアプリを開く。通話アプリ。
プルルルルと呼び出し音が鳴る。特に何の意味もないが、私は首を限界まで曲げて空を見ながら鶴子が電話に出るのを待った。
「あ、もしもーし。亀井さん? どうしたの? 電話とか珍しい」
「あっあーっ……も、もっ……うっう……ひぃーっ……っくっう……」
「え! ちょっと何! 何で泣いてんの! え、何があったの!? 誰かに泣かされたの!?」
鶴子よ、何を言っているんだ? 私は泣いてなどいない。そりゃあ今は怒りで声が震えているかもしれないが、ただもしもしと言っただけではないか。
いや、そんなことより鶴子に伝えなければ。『ネット掲示板で聞いてみたけどあそこには小学生しかいなかった』と。
「っはぁー……うっ……ねっと……しょっうっがっくせっ……へっ……」
「小学生!? 小学生に泣かされたの!?」
「ちがっ……はっ……ないてっ……なっ……っひぃ…」
「あー……なるほど、そうね。泣いてないよ亀井さんは……私今忙しいからさ、10分後にまたかけ直すね? 切るよ」
ブツッっと言う音の直後に、アプリ側のポロリン♪という間抜けな音が聞こえてきた。そうか、忙しかったのならしょうがない。私も先に家に帰るとしよう。いつまでもここに突っ立っていてもしょうがない。
図書館から自宅まで、ゆっくりと歩いて帰る。伸ばした横髪が妙に頬に張り付いて気持ち悪い。かゆかったので制服の袖で頬を拭った。
「だだいま……」
玄関を開けた直後、ちょうどトイレから出てきた母と目が合う。母よ、何をそんなに驚いた顔をしているのだ。トイレから出るところを見られたのがそんなにショックか。乙女か。
「おかえり……ねぇちょっと……」
「へや行っでるがら……ご飯になっだら呼んで……」
階段を上り、自分の部屋の扉を開ける。母は私が階段を上るのをずっと見ていた。母よ、安心してほしい。私は身内がトイレに入っていたことを言いふらすような女ではない。
自室のドアを開け、ベッドに飛び込む。
ああ……なんか……すごく疲れた。このまま寝ちゃおうかな。いや、駄目だ。鶴子から電話が来るまでは起きていなければ。
ゴシゴシと布団に押し付けていた顔を上げる。キョロキョロと自分の部屋を見回すと、ふと部屋の隅にある本棚が目に入る。規則正しく陳列されているのは、今まで私が読んできた物語達。絵本、ライトノベル、ミステリー、ホラー、官能小説、SF、文庫も文芸書も、ジャンルも関係なく一緒くたに並べてある。
横幅一メートル弱、オレンジにペイントされた木製の本棚。五段もあったスペースはすでに数多の本で食いつぶされているが、最下段のスペースにだけわずかな余裕が残されている。
最下段のスペース、適当な本と本の間に指を突っ込む。
文庫で300から400ページ……文芸書だと……無理だよなー……文庫にならないと。
ここに入れる本はまだ書けていない。どんな話になるのかもわからない。でも、必ず書かなければならない。誰かに、世界に、私が認められた証を残さなければならない。何もできない私が、唯一出来る世界への存在の主張。これを成さずに死ぬことは出来ない。そんなことを考えるだけで、恐怖が足元から這い上がってくる。
カバンの中からプルルルルと携帯が鳴り出す。そうだ、鶴子を待っていたんだった。慌ててスマホを取り出し、通話ボタンを押す。
「もしもし? 亀井さん?」
「……鶴子。やっぱりネットじゃ駄目だったよ……」
「ああ、そうだったのね……じゃあしょうがないね、下読みは私が続けるってことで」
この時、私は少しおかしかったのだと思う。今までの人生で受けたことがないような悪口の奔流に目が回り、控えめに言っても正常とは程遠い状態だった。だから、世の中の多くの作家志望がそうあるように、この時の私はほんの、ほんの少しだけ弱気になっていた。
「……鶴子……ごめん……」
「えっ? なに?」
「……ごめん」
「えっ……もしかして亀井さん……あやまって……る……?」
「……いつも下読みとかさせて……妄想を文字におこしたみたいな……私の小説……」
「ええええええええええええええええええええええええ!」
スマホのスピーカーが壊れるかと思った。それほどの音量で鶴子は叫んでいた。
次の瞬間、火が付いたように鶴子がまくしたて始める。
「いやいやいや違うでしょ! 亀井さんそういうんじゃないでしょ! 亀井さんいつも私に『下読みして』って小説持ってくるときの自分の顔知ってる? あ、特権階級の方かな? ってくらい自信満々な顔してるよ!?」
いや、実際私は将来的な職業がベストセラー作家だから特権階級かと言われればそうかもしれないが、そんなドヤ顔をしながら下読みを頼んだ記憶はない。
そんな私の気持ちをよそに、鶴子に着火した火はどうやら四類の危険物に引火したらしく、勢いはより激しさを増していった。
「そんな亀井さんだから私は亀井さんの作品も隅々まで読んだし、一つの誤字も見逃さないように心がけてたよ! でもさ! 亀井さんがそれ言ったらおしまいじゃん! わたしもくだらない小説の添削とかしたくないよ! 亀井さんは自分の小説面白いと思ってるんでしょ!?」
それは……
「……当然!」
「でしょ!? じゃあなんで今謝ったの!」
「ちょっと……ちょっと弱気になっただけ! 作家にはそういうときもある!」
「ホントに? じゃあいつも通りになるにはどうしたらいいの?」
「肉! うまい肉食べれば大丈夫!」
「よーしわかった! じゃあ今度食べに行こう! 私のおごりで!」
「よっしゃああああああああああああ!」
「賞金とったら高級フレンチおごってね!」
「まかせろ!」
「よし! じゃあ書いて! 今すぐ書いて! 私が読むから! ほら! 早く!」
「うん! 切るね!」
間抜けなアプリの音を出す前にスマホを布団にブン投げる。
カバンから急いでPCを取り出し、床に置いて開く。スリープ状態だったシステムが立ち上がると同時に、図書館で見ていたページを表示する。
「ここまでの物は中々お目にかかれない」
「難しい言葉使いたい病患者」
「妄想を文字におこしたみたいだな」
「めちゃくちゃスベってて痛々しい」
「これは金取って人に見せるようなモンじゃないわ」
邪魔だ。タブレットPCの処理能力に無駄にブラウザを並列して起動しているような余裕はない。閉じ。
デスクトップにあるショートカットをダブルタップ。書きかけの小説がすぐに表示される。
「……やるか!」
ウッス!
どうやら私の中の亀井もやる気のようだ。こんな時はだいたい良い文章が書けたりする。
それからどれほど経っただろうか、母が私を夕飯に呼びに来るまで私はずっと小説を書いていた。こんなことを言うと精神病患者と疑われてしまうかもしれないが、指が止まらなかったのだ。おそらくあの時間、何かの拍子に私が気絶したとしても指だけは自立して動き続けていただろう。うわぁ気持ち悪……
夕飯は私の好きなチーズハンバーグだった。母はしきりにこちらを気にしていたが……なるほど、賄賂ということか。私には一切気持ちがわからないがやはり乙女というのはトイレへの入退出する瞬間は隠したいものなのだろう。悪いことをした。
賄賂は受け取った、という意味を込めて母にうんうんと頷いて見せた。すると母は心底安心したような、でもどこか不安はぬぐえない、というような複雑な表情を見せた。まぁ仕方のないことだろう。これからは気を付けるとしよう。
ご飯を食べ終わり、食器を片付ける。部屋に戻ろうとした私に母が声をかける。
「あれ……お風呂沸いてるけど先入らないの?」
「いまいいところ!」
それだけ言うと自分の部屋に戻る。出迎えるのは電源につながれたタブレットPC。床に座って手垢のついたキーボードに指を添える。カバンの中に入れ続けていたおかげで角がすっかり丸くなったタブレット部分を倒して、見やすい角度に調節する。
この日、私の部屋の蛍光灯は消えることなく光を出し続けた。
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