第53話 衝動

 深夜の一時。

 善次郎の携帯が振動した。

 待ち兼ねたように、善次郎が手に取る。

 美千代と洋平は、電話を受ける善次郎の携帯に耳を寄せてきた。

「安心してください。峠は越えました」

 先生の第一声に、携帯を持つ善次郎の手が震えた。

「ありがとうございます」

 声も震えていた。

 詳しい説明は朝にするので、朝一番に病院へ来てくれと言って、電話は切れた。

 先生の声は疲れきっていた。

 あれからもずっと、夏の治療を続けてくれていたのだろう。

 三人は肩を抱き合って喜んだ。

 今度は、違う涙が、三人の頬を伝う。

「それにしても、お前たちが、こんなになるなんてな」

 善次郎が軽口を叩くと、

「本当に、あなたのせいよ。あなたは引っ越してもいいけど、その時は、夏は置いていってね」

 と返ってきた。

「活もだよ」

 洋平が付け足す。

「猫嫌いの私を、こんなにしたのはあなたよ。ちゃんと責任を取ってね」

 冗談とも本気ともつかぬ美千代の言葉に、善次郎はどう返してよいかわからなかった。

 善次郎が戸惑っていると、明日は早いからもう寝ると言って、美千代と洋平は引き上げていった。

 もちろん、私たちも行くと言い残して。

 朝一番、三人は待ちきれず、診療時間のかなり前に、病院へ着いていた。

 ドアの前で待とうと思って近づいた三人は、中に電気が点いているのを認めた。

 ドアを押してみると、鍵はかかっていない。

 善次郎が顔だけ突っ込んで、中を覗きこむ。

 すると、診察室の扉が開いて先生が出てきた。

「早いな。まあ、遠慮はいらないから入ってくれ」

 そう言われて、三人は遠慮なく中へ入った。

 先生の眼が赤い。

 ほとんど寝ていないものと思われる。

 三人は、先生に深々と頭を下げて、お礼を言った。

 先生が軽く手を振り、夏が入っているケージを指さした。

 脚には、点滴の針が刺さっているが、昨日よりは落ち着いていた。

 夏は三人を見た途端、ニャアニャアと鳴き出した。

 まず善次郎が歩み寄り、頑張ったなと声を掛けて、の頭を撫でた。

 続いて、美千代が傍に来て、善次郎の横から、夏の背中をさすった。

 美千代も、「偉いわね」などと声を掛けている。

 ケージの前は狭いので、もっと撫でていたかったが、善次郎は洋平に場所を譲った。

 洋平は、すでに涙を浮かべている。

 震える手で、無言で夏を撫でる。

 多分、声が出せないのだろう。

 三人がひとしきり撫で終わった後、先生が詳しい説明をしてくれた。

 あれから、手術を行った病院に電話して、使った麻酔の種類や量、点滴の薬などを確認したという。

 それに関しては、問題ないということだった。

 そこまでしてくれた先生に、善次郎は深く感謝した。

 この人は、本当に動物の命を大切にしている。

 最初からこの病院で手術をしておけば。

 そう思ったが、もう遅い。

 とにかく、最後はこの先生に委ねてよかったと、つくづくと思った。

 夏の病気が、手術によって引き起こされたものなのか、それとも先天的ものなのかは判断がつかないと言う。

 それほど、猫の低カルシウム血症というのは珍しく、資料が乏しいらしい。

 とりあえず、暫くは入院することになる。

 二、三日で帰れるか、一週間くらいかかるか、これからの夏の容体次第だと、先生が言った。

 美千代が、毎日見舞いに来てもいいかと尋ねた。

 先生は、どうぞと答える。

 手術した病院に連絡しているのなら、一応仁義を通すために、前の病院には断りを入れておくと善次郎が言うと、そうしてくれると助かると先生が答えた。

 それで三人は引き上げたが、夕方、早速見舞いに行った。

 次の日、診療時間が終わる頃を見計らって会社を出、善次郎は手術をした病院へと、足を運んだ。

 善次郎が顔を出すと、受付の看護婦が、怯えたような眼をして善次郎を見た。

 それには構わず、善次郎は先生を呼んでくれと頼んだ。

 もう、診察は終わっているとみえて、客は善次郎一人だった。

 暫くして先生が出てきたが、先生も怯えたような顔をしている。

 善次郎が用件を告げると、医者は、あからさまにほっとした顔をした。

 多分、善次郎がクレームを付けに来たとでも思っていたのだろう。

「そんなことは、なにも気にしなくていいです」

 引き攣った愛想笑いを顔に浮かべながら、阿るような口調で言った。

 それに、やっかい払いができて、どこかほっとした様子も伺える。

 その態度に、善次郎は心底ムカついた。

 自分がそう思われていたからではない。

 夏の容体を、まったく尋ねようとしなかったからだ。

 こいつは、夏の命など、なんとも思っちゃいない。

 ただ、自分の保身だけだ。

 暴力傾向などまったくない善次郎だが、生まれて初めて、人を殴りたい衝動に駆られた。

 拳を握ると、医者がビクッとして後ずさった。

 怒りを堪えながら、善次郎は頭を下げて、病院を出た。

 あんな奴が、たとえ動物とはいえ、命を扱っちゃいかんだろう。

 善次郎の怒りは収まらない。

 もう絶対、あの病院へは行かない。

 たとえ、些細な病気でもだ。

 それに、これから知人に、あそこの病院はどうだと聞かれたら、絶対にやめておけと言う。

 不幸な動物を、少しでも減らしてやる。

 善次郎は、固く誓った。

 帰って美千代に報告すると、なぜ殴らなかったのかと怒られた。

 冗談ではない、美千代は本気で言っている。

 日頃温厚な美千代がこんなことを言うとは、善次郎だけでなく、洋平もびっくりしていた。

 猫とは、こうも人を変えるものなのか。

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